第34話「戻る道」
海は、一晩中眠らなかった。
波は暗い入り江へ寄せ、岩を濡らし、白い泡を置いて引いていく。
寄せては返すそのたびに岩肌の濡れた場所が変わり、夜の底で水の色だけが重く動いた。
庭の水音とは、まるで違っていた。
決められた岸を撫で、花の根を潤し、澄んだまま流れていく。
どこを通り、どこへ届くのか、最初から知っているような音だった。
けれど、海は違う。
ひとつの波がきたと思えば、次の波がそれを消す。
触れたと思った水はすぐに引き、また別の形で戻ってくる。
音も、光も、匂いも、同じところに留まらない。
リリスは、岩場の陰で夜を明かした。
眠ったのかどうかも分からなかった。
目を閉じても波の音が近い。
潮風は髪を揺らし、肌に冷たさを残していく。
庭の寝床とは違い柔らかな草も、整えられた土もない。
硬い岩に背を預けていると、肩や腰がすぐに痛くなった。
何度も姿勢を変え、そのたびに目が覚めた。
朝になっても、疲れは抜けていなかった。
菫色の髪には潮風が絡み、長い房が頬に張りついている。
喉は渇き、胃のあたりは空っぽだった。
少し離れた川辺まで戻って水を飲む。
手のひらに受けた冷たさが、かえって身体の弱さを知らせるようだった。
ここには、果実を差し出す枝もない。
柔らかな寝床もない、歩きやすい小道もない。
それでも、海はリリスに何も言わなかった。
戻りなさい、とも。
そこが君の居るべきところだ、とも。
祝福だ、とも。
ただ、広がっているだけ。
リリスは、入り江を見ていた。
朝の海は、昨日見た時よりも少し明るい。
日が昇るにつれて、青の底に銀色の光が細く走る。
波は岩のそばで砕け、空を映した水面は、遠くで眩しく揺れていた。
怖い。
まだ、怖い。
こんな広さを、リリスは知らない。
水がこんなに終わらないことも、風がこんな匂いを運ぶことも、波が人の言葉を聞かずに動くことも知らなかった。
けれど、目が離せない。
何も約束しないものが、こんなに広い。
そのことだけが、胸の奥に残っていた。
その時、風の向きが変わった。
リリスは顔を上げる。
波の音に混じって、羽音がした。
一度ではない。
三つ。
空から降りてくる気配に、身体が先に硬くなる。
ミカエルか、ガブリエルかと思った。
けれど、入り江の岩場へ降り立ったのは、彼女のよく知る二人ではなかった。
三人の天使が、少し離れたところに立っている。
白い式服に整った姿、背の羽。
エデンで見慣れた天使たちと同じ、神の側にあるものの気配だ。
だが、ミカエルの青でも、ガブリエルの橙でもない。
前に立つ天使は、穏やかな顔でリリスを見ていた。
もう一人は少し後ろに立ち、辺りを見ている。
リリスのいる岩場、川の流れ、入り江の奥。
何がどこにあるかを確かめるような目だった。
三人目は、ほとんど動かず、ただ黙って、リリスを見ていた。
その沈黙が、いちばん冷たかった。
一番前に立つ天使が口を開く。
「まさか、こんなところまで来ているなんて」
声は柔らかかった。
けれど、リリスの指先は岩の縁を掴んだ。
後ろに立つ天使が続ける。
「君を探すのには苦労した」
三人目は何も言わない。
リリスの足はまだ少しふらついていた。
昨日から歩き続け、一晩を岩場で越した身体は、思うようには動かない。
それでも、座ったまま見上げるのは嫌だった。
風に髪が流れる。
リリスは、三人を見た。
「……あなた達、ミカエルとガブリエルの仲間の天使なの?」
前に立つ天使が、静かに頷いた。
「私たちは、神の勅命を受けてここに来た。私はセノイ。こちらはサンセノイ、マンゲロフ」
お父様…。
その名が、リリスの胸の奥を冷たく撫でた。
神が遣わしたのだ。
アダムが自分を探したのだろう。
ミカエルも、ガブリエルもきっと探したのだろう。
そして、見つからなかったことが神へ伝わった。
だから、別の天使が来た。
リリスは一歩退きかけたが、岩の後ろに逃げ道はない。
背後には海がある。
入れば沈むかもしれない。
翼のある者から逃げ切れるはずもない。
それでも身体が、勝手に逃げる先を探す。
セノイは、その動きを見ていた。
「そう身構えなくてもいい」
彼は言った。
「神は、君を力づくで連れ戻せとも、罰しろとも仰せではない。我らを遣わしたのは、君に道を示すためだ」
「……道?」
リリスは聞き返した。
連れ戻すでも、裁くでもなく、道を示す。
セノイは穏やかに続ける。
「そう。あるべき場所へ戻る道だ」
その瞬間、リリスの胸にあったものが、張り詰めていく。
あるべき場所。
戻る道。
そのどちらも、彼女が背にしてきたものだった。
「いやよ、戻らないわ」
言葉は、思ったよりまっすぐ出た。
声は大きくはならなかったし、震えてはいなかった。
三人の天使が、ほんの少しだけ動きを止めた。
リリスは、自分の口から出た「いやよ」という音を、遅れて聞いた。
そう言っていいのだと、ようやく身体が知った気がした。
お父様の前では、「もういい」と言った。
庭を出る時は、何も言わなかった。
アダムには、ありがとうとだけ言った。
けれど今、目の前の天使たちに向かって、自分は嫌だと言った。
戻らない、と。
セノイは怒らなかった。
「リリス」
彼は、名を呼ぶ。
「神は君の場所をまだ残しておられる」
あの言葉だ。
――君の場所は、まだ残っている。
神の前から離れた時に聞いた声が、海の風の中でまた戻ってくる。
リリスは唇を結んだあと、ゆっくりと答えた。
「あそこに残っているのは、私の場所じゃなくて、私に与えられた席でしょう?」
セノイは黙った。
サンセノイが、少し前に出る。
「アダムは深く悲しみ、君を探している」
その一言に胸が痛んだ。
昨日の夕暮れが浮かぶ。
ありがとう、アダム。
そう言った時、彼は明るく笑った。
あの笑顔を傷つけたことは、リリスにも分かっている。
彼が悪い人ではないことも知っている。
彼が本当に悲しんでいるだろうことも、想像できた。
けれど。
「アダムが寂しいことと、私が戻ることは同じじゃないわ」
サンセノイは、少しだけ目を細めた。
責めているわけではないのだろう。
ただ、彼女の言葉を測っているようだった。
「彼は、君を必要としている」
「それでもよ」
ざぱんと言う激しい音と共に、波が岩に当たる。
リリスは一度、ゆっくりと息を吸った。
潮の匂いが喉の奥に触れる。
「必要とされているからって……」
言葉の先を、波音がさらいかける。
それでも、リリスは続けた。
「私が戻りたいと思うかは、別の問題でしょう?」
その言葉を聞いた時、マンゲロフの視線がわずかに変わった。
彼は何も言わない。
けれど、その目だけがリリスから離れなかった。
怒りでも、憐れみでもない。
説得の言葉がどこまで届くのかを見ている目だった。
セノイが、もう一度口を開く。
「庭に戻れば、君は守られる」
「その守られた場所で、私は息ができなかったの」
「今は疲れている。見知らぬ場所で、不安になっているのだろう」
リリスは、小さく首を振った。
「そうね、疲れているわ」
それは本当だった。
足は痛い、お腹も空いている。
喉も渇くし身体は冷えている。
昨夜の眠りは浅く、今すぐ座り込んでしまいたいくらいだった。
「不安だし、怖くないわけじゃない」
三天使は黙って聞いている。
リリスは海を背にして立っていた。
「でも、それでも、戻りたいとは思わないの」
その言葉のあと、少しだけ沈黙が落ちた。
風が吹く。
潮の匂いが、三人の白い式服の間を抜けていく。
セノイ、サンセノイ、マンゲロフは、互いに目を合わせた。
自分たちの言葉に、リリスはことごとく拒否で返した。
泣き叫ぶわけではない。
怒鳴るわけでもない。
聞いていないわけでもない。
むしろ、聞いている。
理解したうえで、戻らないと言っている。
それが、三人には分かった。
セノイは、リリスへ向き直る。
「今日は、君を見つけることが目的だった」
その声は穏やかだった。
「見れば、君も疲れた顔をしている。休んでよく考えた方がいい」
天使の言葉は、優しく聞こえたが、リリスは答えを返さなかった。
確かに彼は自分を気遣っているのだろう。
無理に手を掴むことも、今すぐ連れ戻すこともしない。
そのことだけを見れば、彼らは乱暴ではない。
けれど、彼らが示す道の先は、同じ庭へ向かっている。
「また来るよ」
セノイは言った。
風で長い髪が乱れる。
リリスは、それを直さないまま続けて言った。
「来ても同じよ、答えは変わらない」
三人の天使は、しばらく彼女を見ていたが、やがて羽を広げ始める。
白い羽が、入り江の光を受けた。波の青の中で、その白はひどく明るかった。
リリスは少し目を細めると、三つの影が、岩場から浮き上がる。
空へ。
庭の方へ。
神のもとへ。
リリスは、彼らを視線だけで見送った。
彼らが遠ざかるのをじっと待っていた。
入り江から離れ、海の風を切って飛ぶ三人の間に、しばらく言葉はなかった。
最初に口を開いたのは、マンゲロフだった。
「あれは戻らないだろう」
その声は低かった。
波の音よりも遠く聞こえるはずなのに、なぜかはっきりと残る声だった。
サンセノイは、わずかに後ろを振り返った。
入り江の岩場に、小さな姿がまだ見える。
海を背にした、菫色の髪の女。
「まだ一度目だ」
サンセノイは言った。
セノイは前を向いたままだった。
「神は、道を示せと仰せだ」
少しだけ間があく。
「……示し続ける」
マンゲロフは、それ以上何も言わなかった。
三つの影が、入り江の光から離れていく。
波だけが、変わらず寄せては返していた。




