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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第33話「残された席」

リリスは、見つからなかった。


朝から始まった捜索は、昼を過ぎても終わらない。

天使たちは庭の中を行き来し、水辺を確かめ、木陰を覗き、花の咲く場所を見て回った。

リリスがよく座っていた岸辺、かつて小さな芽があった場所。

地上からも、空からもくまなく、彼女の行きそうなところ全て。

しかし、リリスはどこにもいなかった。


エデンは、変わらず美しい。


水は澄み、光は葉を透かし、花は咲いている。

畑では、蔓が朝よりも少し伸びていた。

土はやわらかく、風は穏やかで、鳥の声は明るい。


そこに、リリスだけがいない。


最初、その不在は小さな抜け落ちのようだった。

時間が経つほど、リリスのいない場所が庭のあちこちに増えていった。


リリスがいない、という事実が、庭の美しさの中で少しずつ重くなっていった。


アダムは、何度も同じ場所を見に行った。


水辺。

花の下。

小さな木陰。

昨日、リリスが笑っていた場所。

神と話したあとに戻ってきた道。


そこを何度見ても、リリスの姿はなかった。


「どうしてなんだ……」


アダムは、川辺に立ち尽くして呟いた。

水は足元を流れている。

リリスが昨夜、その音を辿って庭の奥へ進んだことを、アダムはまだ知らない。

ただ、いつも戻ってくるはずの場所に彼女がいないことだけが分かっていた。


「僕には、もう何も分からない……」


ガブリエルは、そばに立っていた。

アダムの肩は震えていない。

涙もまだ出ていない。

けれど、彼の顔からは昨日の明るさが消えていた。


昨日の夕暮れ、リリスが「ありがとう、アダム」と笑った時、アダムの中には確かに何かが戻ったのだろう。

大丈夫になる。

きっと、もう少しで元に戻れる。

そう思った分だけ、今は何も掴めなくなっている。


「僕は、また一人なのか?」


その声は、答えを求めるより先に、そこへ落ちてしまったようだった。

ガブリエルは少し息を止めた。


一人。


その言葉が、リリスにとって何を突きつけてしまうのか。

アダムにとってはただの寂しさでも、リリスにとっては、自分の場所へ戻れと求める声になってしまうのかもしれない。

けれど今、目の前で苦しんでいるアダムに、そのことを言えるはずもなかった。

ガブリエルは、そっとアダムの肩に手を添えた。


「一人にはしない」


アダムが顔を上げる。

ガブリエルの声は、できるだけ静かだった。


「探そう。必ず、見つける」


戻る、とも、戻す、とも言わなかった。

それでもアダムは、ほんの少しだけ頷いた。

ガブリエルの手は、アダムの肩に添えられたままだった。

励ますための手。

支えるための手。

けれど、その手の内側で、彼女自身の指がかすかに強ばっている。


――水辺まで行ってくるわ。


昨夜、リリスはそう言った。

止めなかったのは、ガブリエルなりの配慮のつもりだった。


けれど、戻っていない。

リリスは、戻っていない。

 

なぜ気づけなかったのか。

あの微笑みが、いつものものではなかったことに。

あの背中が、庭の中へ戻る者のものではなかったことに。


ガブリエルは視線を落とした。

兄も、何も言わずにいなくなった。

そして今、リリスも何も言わずにいなくなった。

自分はなぜ、どちらに対しても、何も気づけず、何も言ってもらえなかったのだろう。


その問いは声にならなかった。

声にすれば、アダムを支える手まで崩れそうだった。

少し離れた場所で、ミカエルが天使たちに指示を出していた。


「水路沿いをもう一度確認してくれ。庭から離れた森のあたりもだ。リリスがよく行っていた場所だけでなく、その他の場所まで範囲を広げる」


声に乱れはない。

白い式服の青が、光の中で硬く見えた。

ミカエルは立っている。

崩れずに、次の手を決め、必要な指示を出している。


ルシフェルの不在は、まだ何も終わっていない。


兄上はなぜ出ていったのか。

どこへ行ったのか。

何を言わずに去ったのか。


何も分からないまま、エデンへ戻った。


――頼んだよ。


兄の声が、胸の底でまだ残っている。

そのエデンで、リリスがいなくなった。

だが、ミカエルは止まらなかった。

止まれば、胸の奥で支えているものが崩れる。


だから動く。

だから探す。

だから報告する。



 


結局、夕方近くになっても、リリスは見つからなかった。

光が斜めになり、木々の影が長く伸びる。朝には明るかった庭の色が、少しずつ金を帯びていく。

美しい夕暮れだった。

リリスがいないことを除けば、あまりにも穏やかな夕暮れだった。



 

 

ミカエルは、天界へと戻り神の前に立った。

胸に手を添え、深く頭を垂れる。


「父上」


神は静かにミカエルを見た。


「今もまだ、リリスの行方は分かっていません」


言葉にして、ミカエルはその重さを改めて感じた。

リリスの行方は分かっていない。

それはただ、ひとりの女がいないというだけではない。

神が始まりとして並べた二人の片方が、庭から離れたということだった。


神は、焦りも、驚きも、怒りも、悲しみも見せなかった。

ただ、ミカエルの報告を受け取る。


「リリスは、離れたのだね」


ミカエルは、一拍遅れて答えた。


「……そのようです」


神は庭の方を見た。

その視線は、遠くまで届いているようで、どこにも急いでいないようでもあった。

水の流れ。木々。アダムの畑。リリスのいない場所。そのすべてを、同じ静けさで見る。


「彼女の場所は、まだ残っている」


ミカエルは顔を上げなかった。

その言葉は、昨日もリリスへ向けられたものだった。


神は続けた。


「慌てる必要はない。いずれ見つかる。その時は迎えに行かせよう」


いずれ見つかる。

神はそう言った。

見つかることそのものは、疑っていないようだった。


「セノイ、サンセノイ、マンゲロフを遣わそう」


ミカエルは、その名を胸の内で受け取る。

三天使。

神の言葉を携え、席を離れた者へ道を示すための者たち。


「彼女に、戻る道を示しなさい」


神の声は穏やかだった。

罰ではない。

怒りでもない。

それは、席を離れた者へ、まだそこへ戻れるのだと告げるための言葉だった。

ミカエルは頭を下げる。


「承知しました」


声は揺れなかった。

けれど、胸の奥で何かが軋んでいた。

リリスは、戻る道を望むだろうか。

その問いは、神の前では言葉にならなかった。


 

 


 


藍と紫の空の下で、ルシフェルは黒い岩に腰を下ろしていた。


岩、と呼んでよいのかは分からない。

石のように硬く、影のように熱を持たず、触れているのに輪郭がどこか曖昧だった。

黄昏は、天界の夕暮れとはだいぶ違うようだった。


始まりも終わりも告げない色が、低い場所に沈んでいる。

深い藍の奥に紫が溶け、さらに遠くには赤が残っている。燃えているのではない。

消えきらない熱だけが、古い底に沈んでいるような色だった。


その中で、ルシフェルという存在は、あまりにも不釣り合いだった。


銀の髪。

紫紺の瞳。

紫を差した白い式服。

六枚の羽根。

胸元の徽章だけを欠いた、大天使の姿。


黄昏の底に沈むこの場所で、彼だけがまだ、天界の白をまとったままだった。

ここに来てから、どれほど経ったのかは分からない。

時間というものが、この場所では天界と同じようには動いていないようだった。

朝も夜もない。

変わるのは、黄昏の中で沈む色の濃さと、彼に向けられる古いものたちの視線だけだった。


原初のものたちは、相変わらず一定の距離をもったままだった。


歓迎もしない。

拒絶もしない。

ただ、いる。


その中で、ひときわ古い気配が、少しだけ人に近い姿を取っていた。


最初は影だった。

霧のようでもあり、裂け目のようでもあり、見るたびに違うものになった。

だが、ルシフェルが何度も話しかけるうちに、その気配は少しずつ輪郭を寄せてきた。


人に似た形。

けれど、人ではない。

顔があるようで、はっきりとはない。

髪のようなものがあるようで、黄昏が細く垂れているだけにも見える。

声は近くから聞こえるのに、どこから出ているのかは分からない。


「このほうがはなしやすい」


それはそう言った。


ルシフェルは、その姿をしばらく見ていた。


「もしかして、俺に合わせてくれたのかな?」


古い気配は答えない。


それでも、ルシフェルは、いつもの調子で柔らかく笑った。


「優しいね」


黄昏の奥で、いくつかの影が揺れた。

それは笑いではなく、呆れに近かった。

古い気配は、しばらくルシフェルを見ていた。


「きみは、はなしがおおい」


「そうかな」


「おおい」


短い返事だった。


ルシフェルは少し首を傾げる。


「知りたいことがたくさんあるからね」


「しってどうするの?」


「分からない」


「わからないのにきくの?」


「聞けば、分かるかもしれない」


「わかってどうするの」


ルシフェルは、そこで少し黙った。


黄昏の中で、白い袖が風もないのにかすかに揺れる。


「それも、分からないな……」


古い気配は、さらに黙った。

その沈黙の奥で、原初のものたちが彼を見ている。

ルシフェルはこの場所について、いくつかのことを聞いた。


ここはいつからあるのか。


「まえから」


前とはいつか。


「まえ」


景色は変わるのか。


「かわるときはかわる」


ここにいるものたちは何なのか。


「いるもの」


ほかに誰か来るのか。


「まれに」


戻るものはいるのか。


「もどるものも、もどらないものも」


答えは短かった。

短すぎるほどだった。

けれど、答えではあった。

天界であれば、もっと整理された言葉になっただろう。

いつ、どこで、何が、何のために、誰のもとで。

そうした筋道がないと、伝わるものも伝わらないとされていた。

ここでは、分からないものが分からないまま返ってくる。

ルシフェルは、その短さに少しだけ慣れてきた気がした。


「君たちのおかげで、なんとなく返事の短さが分かってきたよ」


黄昏の奥が、また沈黙した。

その沈黙は、感謝を受け取るためのものではなかった。

どちらかというと、困惑に近い。

なぜこの白いものは、まだ話しかけてくるのか。

なぜここに来て、まだ分かろうとするのか。

なぜ、こちらの短い返事を嫌がらず、勝手に納得しているのか。

そういう沈黙だった。

古い気配が言った。


「きみはまだ、ここにくるまえのものをたくさんもっている」


ルシフェルは、自分の袖を見た。


銀の髪、式服に六枚の羽根。

胸元の徽章はもうない。

けれど、指先はまだ、そこにあった星の重みを覚えている。

それだけではないのだろう。

何かを見れば、まず名を探す。

分からないものに出会えば、どこから来たのか、何のためにあるのかを知ろうとする。

知ったことを、誰かに渡せる形へ整えようとする。

父上の言葉を読んできた時間が、声の出し方にも、相手の返事を待つ間の沈黙にも残っている。

兄と呼ばれたこと。

大天使として立っていたこと。

誰かを不安にさせないように、いつも穏やかな形を選んできたこと。

 

胸元の星は手放した。

けれど、天界はまだ、彼の内側で音を立てていた。


「……なるほど」


ルシフェルは、小さく言った。


「君たちには、それがうるさいんだね」


古い気配は答えなかった。

答えないことが、たぶん答えだった。

ルシフェルは、黄昏の奥を見た。

ここは、彼の居場所ではない。

少なくとも、まだ。

けれど、居場所ではないからといって、拒まれているわけでもなかった。

ここにいるものたちは、彼を正しい場所へ戻そうとはしない。

彼が何者かを決めもしない。

白いものが来て、話し、聞き、挙句の果てにうるさい。


それだけだった。

その静けさは、不親切で、少しだけ楽だった。

だが、ここにいても目を離せないものがある。

 

ルシフェルの中に、ひとつの庭が浮かんだ。

天界にいた頃に読んだ、本文の控え。


人間の始まり。

最初の男と、その隣に添えられた女。

命を繋ぐものとして整えられた、祝福された庭。

神の言葉が地上に触れ、白く囲った場所。


すべては、美しく整えられていた。

始まりとして、何も欠けていないように見えた。

けれど、読み終えても消えない小さな引っかかりがあった。


人に役目を与えること。

男と女を並べること。

命を繋ぐこと。


それらは正しく、必要で、神の世界において自然な始まりとして読めた。


読めた。

それなのに、何かが残った。

読めなかった一行がある。

ルシフェルは、そこから目を逸らせなかった。


ルシフェルは座っていた岩から腰を上げた。

古い気配が言う。


「……いくの?」


ルシフェルは顔を上げた。


「ここにいても、分からないことがある」


「ここにいても、わからないことはあるよ」


「そうだね」


ルシフェルは微笑んだ。


「だから、近くへ行く」


「ちかく?」


「遠くから名を置きたくないんだ」


古い気配は黙った。

止める沈黙ではなかった。

行けと促す沈黙でもなかった。

ただ、彼の言葉がそこにあるのを見ている沈黙だった。


「いきたいなら、いけばいい」


「行きたい、というより……放っておけないのかもしれない」


言ってから、ルシフェルは少しだけ首を傾げた。


「いや。違うな。まだ、うまく言えない」


「いえないなら、いわなくていい」


「そういうものかな?」


「そういうものもある」


ルシフェルは小さく笑った。

少し考えてから、彼は言った。


「また戻ってきてもいいかい?」


その場の沈黙が、今度ははっきりと濃くなった。

古い気配が、ゆっくりと言う。


「……どうして?」


「意外にも、ここが気に入ったのかもしれない」


黄昏の奥で、影たちがかすかに揺れた。

それは笑いではない。

やはり、呆れに近い。

古い気配は言った。


「しずかになったらね」


ルシフェルは少しだけ目を細める。


「努力するよ」


「どりょくするものなの?」


「分からない」


「また、それ」


「すまない」


謝ったルシフェルに、古い気配はそれ以上何も返さなかった。

けれど、その沈黙は追い払うものではなかった。


ルシフェルは歩き出す。

扉を探したのではない。

白の内側へ戻ろうとしたのでもない。

彼は、天界にいた頃に読んだエデンの端を思い出していた。

神の言葉が地上に触れ、庭として囲われた場所。

その縁。

白い本文が世界に降り、外と内を分けるところ。


そこへ、黒の側から近づく。


未記入の黒は、黄昏の向こうに続いていた。

天界から初めて外へ踏み出した時とは違う。

あの時は、足の向く先すら分からなかった。

ただ、白の内側へは戻れないということだけを知っていた。


今も、分からないことは多い。

けれど今度は、ただ迷うのではない。

辿るべき端がある。

白の内側へ戻るのではない。

その庭の縁へ、外側から向かう。


ルシフェルは、再度、未記入の黒へ足を踏み出した。

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