第32話「戻らない」
庭の内側を流れる水には、いつも決まった音があった。
石の縁を撫で、浅い段差を越え、花の根のそばを静かに巡っていく。
澄んでいて、やわらかくて、どこへ向かうのかを知っている水の音。
エデンの中では、川さえ迷わない。
リリスは、その水音に沿って歩いていた。
月明かりは、木々の葉に細かく割られて地面へ落ちていた。
白い花は夜の中でかすかに浮かび、果実の重みを抱えた枝が、風に揺れるたび淡い匂いをこぼした。
昼の庭は、何もかも明るすぎた。
見られているようで、守られているようで、息をするだけでも正しい形を求められているようだった。
夜の庭は、それより少しだけ優しい。
けれど、その優しさも、今のリリスの足を止めるものにはならなかった。
――水辺まで行ってくる。
ガブリエルにそう言った時、自分の声がいつも通りに聞こえたかどうか、リリスには分からなかった。
いつもの水辺なら、既に通り過ぎた。
月を映す浅い流れ。
花が垂れる小さな岸。
夜になると少しだけ冷えて、ひとりで座っていても誰にも咎められない大切な場所だった。
けれど、そこでは止まらなかった。
水は、庭の奥へ流れていた。
整えられた岸辺を離れ、小さな川は木々のあいだへ細く続いている。
リリスはその川沿いを進んだ。
最初は、足元の土もやわらかかった。
花の香りも、まだ近く、少し歩けば戻れる。
戻ったところで、きっと誰も驚かない。
水辺で少し長く過ごしていたのだと言えば、ガブリエルは眉を寄せながらも、それ以上は問わないかもしれない。
その考えが胸をよぎった瞬間、リリスの足は、かえって前へ出た。
花の匂いが遠ざかる。
土の感触が変わる。
きれいにならされた地面は少しずつ乱れ、草の根が足に絡み、石が薄い靴底に当たった。
リリスは小さく息を止める。それでも歩いた。
水音も変わっていく。
庭の中を巡っていた時の澄んだ音ではなくなった。
低く、少し湿って、知らない方へ流れていく音。
リリスが知っている水は、いつも庭の中にあった。
花を潤し、畑へ届き、また穏やかに流れていくものだった。
ここから先へ向かう水など、考えたこともなかった。
ここから先は、行ったことがない。
アダムにも、天使たちにも、近づかない方がよいと言われていた。
外には何があるか分からない、安全ではないかもしれない。
庭の中にいれば、食べ物があり、水があり、眠る場所があり、守るものがいる。
――君の場所は、まだ残っている。
神の声が、夜の風の中で蘇る。
リリスは歩幅を変えなかった。
たしかに、場所は残っているのだろう。
あの庭にはまだ、彼女のためと呼ばれる場所がある。
アダムの隣。
始まりの女としての席。
花も果実も水もある、欠けるもののない場所。
けれど、そこに戻ることを考えた瞬間、胸の奥がギュッと細く閉じる。
何も足りないものなどないはずなのに、あの庭を思うだけで息が浅くなる。
だから、リリスは川沿いの暗がりへ足を踏み入れた。
月明かりが、葉に遮られて少なくなる。
木々は庭の中心にあるものより密に生え、枝は思い思いに伸びていた。
誰かが毎朝整えているわけではない。光を受けやすいように向きを変えられてもいない。
そこにあるものが、そこにあるまま夜を受けていた。
少しだけ怖かった。
風が葉を揺らすたび、誰かがそばにいるような気がした。
知らない虫の声が足元から響き、木の幹の影が、見慣れない生き物の背に見えた。
リリスは息を殺して、それでも足を止めなかった。
振り返れば、まだ庭の光が見えたかもしれない。
けれど、振り返らなかった。
一度振り返ったら、あの明るさの中にアダムの寝息を思い出してしまう。
ガブリエルの白い式服を思い出してしまう。
神の穏やかな声を思い出してしまう。
『君の場所は、まだ残っている。』
その言葉が背中から伸びてくる前に、リリスはもう一歩、暗い方へと進んでいった。
どれくらい歩いたのか、分からなかった。
はじめは水音だけを頼りに進んでいた。
けれど夜が深くなるにつれ、足が重くなっていく。
草が裾に絡む。枝が髪に触れる。
何度も立ち止まりそうになって、そのたびにリリスは拳を握った。
もう戻らない。
声にはしなかった。
言葉にしたら、背後の庭に聞こえてしまいそうだった。
やがて、大きな木の根が川辺へ張り出している場所に出た。
幹はリリスが両腕を回しても抱えきれないほど太く、根は地面を割るように盛り上がっている。
その根元には、身体を預けられるほどのくぼみがあった。
リリスは、そこでようやく膝を折った。
座った途端、足の裏が痛んだ。
今まで歩いてきた距離が、急に身体へ戻ってきたようだった。
足が熱く、ふくらはぎが重い。薄い衣の上から夜の冷えが染みてくる。
リリスは自分の肩を抱く。
……寒い。
その一言を口にする相手は、もういない。
アダムなら、きっと何かを持ってくると言っただろう。
ガブリエルなら、戻れと言うかもしれない。
ミカエルなら、こんな場所に一人でいるべきではないと言うだろう。
神なら……。
『君の場所は、まだ残っている。』
リリスは、木の根に背を預けた。
目を閉じると、別の言葉が戻ってきた。
――君が命を繋ぎ、この庭でアダムと共に在ること。
――それは、君に与えた祝福でもある。
祝福。
リリスは、胸の前で腕に力を込めた。
祝福、と呼ばれたものが怖かった。
自分の身体へ、明日へ、その先へ、当たり前のように続いていくものが怖かった。
嫌だと言っても、まだ知らないだけだと言われる。
怖いと言っても、やがて受け取れると言われる。
胸の奥で悲鳴のように鳴っていたものは、神の言葉の中では祝福だった。
神は怒らなかった。
アダムも悪くなかった。
ガブリエルも、ミカエルも、きっと正しかった。
それでもリリスは、あそこにいることはできなかった。
少しだけ上を向いてみると、木々の隙間から、夜空が見える。
エデンの空と同じはずなのに、ここから見上げる夜は少し違っている。
枝の影に切り取られて、星々が細かく瞬いている。
庭の中で見るより、遠く、冷たく、けれど生きているようだった。
リリスは、あの日の流星を思い出す。
夜空にはあんなに星があるのに、その中の一つが、突然、空から飛び出した。
まっすぐに、光を引いて、暗い夜の底へ落ちていった。
あの日、星も落ちるのだと初めて知った。
星は、空にいるものだと思っていた。
ずっと高く、遠く、手の届かない場所で光っているものだと思っていた。
でも、落ちることがある。
あの星は、落ちた後どうなったのかしら。
暗い場所で、ひとりになっているのかしら。
空にはあれほどたくさんの星が残っていて、その中から離れてしまったことを、寂しいと思ったかしら。
それとも、もう戻れないと分かっていて、それでも落ちたのかしら。
リリスは、夜空を見たまま小さく息を吐いた。
自分の吐息が、冷たい空気にすぐ紛れる。
落ちた星の方が、今の自分には少し近い気がした。
そう思うと、胸の奥が少しだけ痛む。
けれど、不思議とその痛みを嫌だとは思わなかった。
リリスは肩を抱いたまま、木の根元で小さく丸くなった。
長い髪が頬にかかり、土の匂いと夜露の湿りが近くなる。
眠れるとは思わなかった。
怖さも、寒さも、神の声も、アダムの笑顔も、全部胸の中に残っていた。
それでも、いつの間にか意識は薄れていった。
最後に聞こえていたのは、庭の中へ戻る水音ではない。
どこか知らない場所へ向かう、川の低い音だった。
◇
朝になり、アダムはリリスがいないことにようやく気づいた。
最初は、いつもの水辺へ行ったのだと思っていた。
機能、父上と話して、少し疲れたのかもしれない。
ひとりで静かに過ごして落ち着いたら、そのうち戻ってくるのだろう。
そう思おうとした。
けれど、しびれを切らして水辺に行ってみると、そこにリリスの姿はなかった。
アダムは川のそばを探した。
花の垂れる岸辺を見た。
リリスがよく座っていた木陰も見た。
芽のあった場所にも行った。
そこには、きれいにならされた土が朝の光を受けているだけだった。
「……リリス?」
どこからも返事はない。
アダムの声は、庭の中で軽く跳ねて消えた。
もう一度呼んでみる。
「リリス!」
鳥が枝から飛び立ち葉が揺れる。
水はいつも通りに流れている。
だが、リリスの声だけが返ってこない。
昨日は笑っていた。
ありがとう、アダム。
そう言った。
自分を見て、笑ってくれた。
父上と話して、もう大丈夫になったのだと思った。
これから少しずつうまくいくのだと、アダムは思った。
自分がもっと気をつければいい。
距離を大事にして、リリスが嫌だと言うことはしないようにして、また一緒に庭の花々を見に行けばいい。
そう思ったのに……。
アダムは、走った。
ミカエルとガブリエルのいる方へ。
「リリスがいない!」
その声に、ガブリエルが振り向いた。
「アダム?」
「行きそうな場所を探したけど、どこにもいないんだ!いつもの水辺にも、花のところにも、木の陰にも!」
言葉がまとまらない。
アダムは息を切らしながら、何度も同じ場所を指さした。
「昨日は笑ってたのに…!父上と話して、もう大丈夫なんだと思ったのに!」
ガブリエルの顔から血の気が引いた。
昨日の夜。
月明かりの下で、リリスが言った。
――水辺まで行ってくるわ。
あの声。
あの微笑み。
どこか薄く、遠く、でもいつものように聞こえたから、止めなかった。
止めなかったのは、リリスに一人の時間が必要だと思ったからだった。
そうした方がいいと、自分で判断した。
その判断が、今になって胸の内側を冷たく撫でる。
ガブリエルは唇を震わせる。
「……おそらく彼女を最後に見たのは私だ」
声は、思ったより硬く出た。
「ガブリエル、どういうことだ」
ミカエルがアダムに向けていた視線をよこす。
「……夜に水辺へ行くのは、彼女の日課だった。だから昨夜も、いつも通りに見送った。まだ一人の時間が必要なのだと思ったんだ」
ミカエルは何も言わずに聞いている。
ガブリエルは自分の手を一度見て、それから視線を落とした。
「だが……まさか、戻ってきていなかったなんて」
小さな間。
「すまない。私が確認をしていれば……」
「ガブリエル」
ミカエルの声は厳しかった。
けれど、責めるための声ではなかった。
ガブリエルが顔を上げる。
ミカエルはすでに周囲へ視線を走らせていた。庭の水路、木々の奥、外縁へ続く方角。
動揺はしている。
ルシフェルの不在に続く、もう一つの不在。
その重みが胸にあることは、ガブリエルにも分かった。
それでもミカエルは、立ち止まらない。
「今は探そう」
短い言葉だった。
アダムがすがるようにミカエルを見る。
「リリスは、どこに行ったの?」
ミカエルはすぐには答えなかった。
答えられる者は、ここにはいない。
「周辺を捜索する。そう遠くには行っていないはずだ」
そう言って、ミカエルは指示を出した。
水辺や体を隠せそうな木陰、外縁へ続く道、庭の端。
リリスが行きそうな場所。
行かないだろうと思っていた場所まで。
アダムは泣き出しそうな顔で頷き、ガブリエルは一瞬だけ目を閉じてから、すぐに動き出した。
庭は、朝の光の中で変わらず美しい。
けれどその美しさの中に、リリスはいなかった。
◇
その頃、リリスは目を覚ましていた。
木の根元で眠った身体は冷えていた。
頬に土がついている。
髪には小さな葉が絡まり、肩にかけていた腕は少し痺れていた。
目を開けると、夜の黒ではなく、枝の隙間から薄い朝の光が落ちている。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
次の瞬間、すべてを思い出した。
ここは昨日の夜自分で歩いてきた場所、戻っていない。
私は、戻っていない。
リリスは起き上がった。
身体が重く、足も痛い。
喉が渇いていたし、昨日の晩は食べ物がほとんど喉を通らず、ほぼ何も食べていないことにもそこで気づいた。
腹の奥が小さく縮むような感覚がある。
けれど、座ってはいられなかった。
もう、アダムは気づいているかもしれない。
いつもの場所にいないことを。
水辺にもいないことを。
ガブリエルは、昨夜のことを思い出すだろう。
ミカエルは探すだろう、やがて、神にも伝わる。
リリスは髪に絡んだ葉を取る余裕もなく、歩き出した。
早く、できるだけ遠くに。
見つからないように。
行くのよ、リリス。
川はまだそばを流れている。
リリスはその音を頼りに進んだ。
けれど昨夜よりも、足元の荒さがよく見えるぶん怖かった。
根が地面を這い、尖った石が草の間に隠れている。
何度も足を取られかけ、そのたびに木々に手をついて身体を支えた。
空を見るのが怖かった。
天使は、空を飛ぶ。
もし探しに来るなら、上から見るかもしれない。
リリスはなるべく木の下を選んで歩いた。
枝の陰に入り、葉の多い場所を通り、開けた場所では急いで駆け抜けた。
息が切れる。
胸が痛い。
喉が乾いて、川の水を手ですくって飲んだ。
冷たさが舌に刺さるようだった。
怖かった。
この先に何があるのか分からないことが。
追われるかもしれないことが。
どこにも眠る場所がなく、足を痛めても、誰も来ないかもしれないことが。
それでも、リリスは戻ろうとはおもわなかった。
足は痛い。
お腹も減っている。
それでも、次の一歩を踏み出すのは自分だった。
誰かの隣へ戻るためではなく、誰かに見守られるためでもなく、ただ足を前へ置く。
エデンの中では、息の仕方まで決められているような気がした。
どこで笑い、何を怖がらず、誰の隣にいるのか。
全部、優しい声で差し出される。
祝福と呼ばれる。
ここでは、誰もそんなことを言わない。
枝が髪を引っかけても、石が足を痛ませても、風が冷たくても、誰もリリスへ「そこが君の場所だ」とは言わなかった。
それが怖くて、少しだけ楽だった。
リリスは歩き続けた。
日が高くなり、やがて傾き始めても、川は終わらなかった。
細かった流れは少しずつ広がり、音も変わっていった。
水が石を越える軽い音ではない。
もっと深く、もっと大きい。
どこか広い場所が近いのだと、身体の方が先に気づく。
風が変わった。
庭の風とは違う。
花の香りでも、熟した果実の甘さでもない。
湿っていて、少し冷たく、舌の奥にかすかな苦みを残すような匂い。
リリスは足を止めた。
木々の隙間から、光が見える。
朝の光でも、庭の中で見慣れた白い光でもない。
水に跳ね返った光が、葉の裏を揺らしている。
リリスは、枝をかき分けて進んだ。
足元の草が途切れる。
川が、そこで広がっていた。
いや、川ではなかった。
目の前に、青い大きな水が広がっていた。
リリスは息を忘れた。
泉ではない。
池でもない。
庭の中に収まる水ではなかった。
青は、遠くまで続いている。
空を映しているだけではなく、空の向こうまで水があるように見えた。
波が寄せ、光を砕き、また遠くへ戻っていく。
水は生き物のように動いていた。けれど、庭の水のように行き先を決められているのではない。
どこまでも広がり、どこへでも行けそうで、どこにも止められていなかった。
風が、知らない匂いを運んでくる。
リリスの髪が大きくなびいた。
菫色の長い髪が、肩から背へ流れ、乱れても、リリスは直さなかった。
深緋の瞳に、光る水が映る。
疲れも、空腹も、足の痛みも、その一瞬だけ遠くなった。
怖い。
あまりにも広い。
何も約束されていない。
けれど、目が離せなかった。
その景色は、リリスに戻れとは言わなかった。
従えとも言わなかった。
祝福とも呼ばなかった。
ただ、そこに広がっていた。
リリスは風を受けながら、その場に立ち尽くした。
庭のどこにもなかった青が、目の前にあった。
リリスは、初めて海を見た。




