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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第31話「もういい」

天界では、ルシフェルの不在に名が与えられた。


『堕天』


神がそう呼んだ以上、それは天界の中で扱える言葉になった。

けれど、名ができたからといって、天使たちの胸まで静まるわけではない。


回廊のあちこちで、低い声が交わされていた。


「ルシフェル様が、なぜ……」

「神の元を離れたというのは本当か?」

「天界を捨てたのか?」

「何かに惑わされたのでは?」

「神の御心を、あんなにも最も正しく受け取っていた方が…どうして。」


大きな騒ぎにはならなかった。

なぜなら、天界は混乱さえ整えようとする場所だからだ。

誰もが言葉を選び、羽音を抑え、聞こえないように囁く。


でも、今回ばかりは、それでも囁きは消えなかった。


ルシフェルがいたなら、その絡まりを解いて渡した。

神の言葉を、天使たちが受け取れる形へ整えた。

 

今は、その声がない。


ミカエルは、その偉大な存在の不在を胸の奥に抱えたまま、エデンへ戻った。

隣にはガブリエルがいる。

二人はしばらく、何も言わなかった。

ラファエルとウリエルには、これから静かな混乱にみまわれるであろう天界側を任せてきた。

ルシフェルの不在はまだ、終わった出来事ではない。

けれど、使命ゆえに、エデンを放っておくことはできない。


リリスとアダム。

始まりの二人。

神が地上へ送り出した、新しい命の始まり。


その二人の様子を、父上に直接見ていただくべきではないか。

そう話した直後に、ルシフェル失踪の知らせが届いた。

あれから、まだ長い時間が経ったわけではない。


けれどミカエルには、何日も白い部屋の中に立ち尽くしていたような重さが残っていた。


エデンの空は、あまりにも穏やかだった。

青く、高く、雨の名残すらない。

陽はやわらかく降り注ぎ、木々の葉は光を受けて透けている。

花は咲き、果実は重く枝に実り、水は澄んで流れていた。


何も変わってはいない。


そのことが、今は少しだけ残酷だった。


ガブリエルは庭を見渡した。


「……変わらないな」


声は小さかった。


ミカエルは頷かなかった。

変わらない、ということが何を意味するのか、今の彼には分からなかった。

天界では兄が消え、憶測が広がり、誰もその理由を知らない。

けれど庭は今日も美しく、アダムは今日もリリスのそばにいる。


世界は続いている。

父上の言葉なら、きっとそう言うのだろう。

 

少し離れた場所で、アダムがリリスに話しかけていた。


「リリス、今日はあっちの木の実を見に行かない? 昨日より赤くなってたんだ。食べごろかもしれないよ」


リリスは顔を上げた。


「……そう」


短い返事だった。

アダムはその間に気づかない。

あるいは、気づいてもどう扱えばいいのか分からないのだろう。

彼は少しだけ困ったように笑って、さらに言葉を継いだ。


「ミカエルたちも戻ってきたみたいだよ。きっと、君のことを心配してる」


「そうね」


リリスは庭の奥へ視線を向けたまま答える。

アダムに悪意はない。

ミカエルにもガブリエルにも、それは分かっていた。

彼は彼なりにリリスを気にしている。

声も、以前より少しやわらかいし、相変わらず近づきすぎないように、リリスとの歩幅を控えていることも、明らかだった。

だが、その配慮のすべてが、リリスへ届く前にどこかで向きを変えてしまう。


アダムは、リリスが戻ってくるものだと思っている。


エデンのこの庭へ、自分の隣へ、与えられた席へ。

 

ガブリエルは、胸の内側が落ち着かないのを感じていた。

アダムは以前より気を遣っているし、リリスも返事をしている。

二人は壊れてしまったわけではない。


なら、時間をかければ落ち着くのかもしれない。

そう思いたかった。


けれど、リリスの声は以前にもましてどこか遠くに聞こえていた。


ここにいるのに、庭の中心へは戻ってきていない様な。


ガブリエルには、それをどう扱えばいいのか分からない。

もう一度言葉を尽くせばよいのか、ミカエルのように道筋を示せばよいのか。

神に見ていただけば、二人に必要なものが分かるのか。

ただ、リリスがこのまま与えられた席に馴染めなければ、アダムもリリスも始まりの二人として進めない。

その不安と心配だけが、白い式服の内側で細く残っていた。


ミカエルは低く言った。


「やはり、父上に見ていただこう」


ガブリエルは頷いた。


「……ああ」


 


 

 


まもなく、エデンに神が現れた。


降臨というほど大きな変化はなく、風が荒れたわけでも、光が割れたわけでもない。

ただ、庭の光が一瞬だけ澄み、そこに最初からいたかのように、神が水辺のそばに立っていた。

リリスはゆっくりと振り向き、アダムはぱっと顔を輝かせ神に駆け寄った。


「父上!」


アダムの声を聞いた神は、いつものように穏やかだった。


感情の強い父ではない。

だが、アダムとリリスの前では、天使たちに向けるよりも少しだけやわらかい言葉を使う。

人に分かるように、始まりの二人が受け取れるように。

ミカエルは胸に手を添え、ガブリエルも静かに頭を下げた。

神は二人へ短く視線を向け、それからアダムとリリスを見た。


「アダム。リリス」


「はい!」


アダムは明るく答え、リリスは少し遅れて目を伏せた。

神はまず、アダムへと視線を向けた。


「エデンはどうかな」


アダムの顔が、さらに明るくなった。


「はい! 父上、僕たちが作った畑をぜひ見てください。こっちです」


アダムは少し誇らしそうに、庭の奥を指した。


そこには、彼が世話をしている畑があった。

整えられた土に伸び始めた蔓、日を受けて輝く葉。

神に自分の成果を見てもらえることが、アダムには嬉しいのだろう。

彼は何度か神を振り返りながら、先に立って歩き出した。

神はゆっくりとその後に続く。

ミカエルも、自然に二人の後ろへついた。

エデンの管理を任されている大天使として、神に報告すべきことがあった。

だから背筋はいつも通り伸びている。

けれど、その横顔にはまだ、天界に残してきた重いものの影があった。


リリスとガブリエルは、その場に残っていたが、二人は何も言わなかった。

神とアダムの声が、少し離れた場所から聞こえてくる。

アダムは畑のことを話しているらしい。

どの実がよく育ったとか、どの場所にもっと日が当たるとか、そんな声が、明るい庭の中を跳ねていた。


リリスは俯いたままだった。

長い菫色の髪が頬にかかり、表情は見えにくい。

 

辺りに咲く、白い花の香りが風に混じり鳥の声がする。

どれも美しいのに、彼女の周りだけ、音も香りも少し遠く薄く感じられる。


ガブリエルは、リリスを見ていた。


声をかけるべきか迷っていた。

だが、何かを言えば、また正しい言葉になってしまう気がした。

けれど黙っているだけでは、目の前の少女がどこかへ沈んでいくようにも見えた。

迷いの中にいたその時、リリスが小さく口を開いた。


「……ねえ、ガブリエル」


「何だ?」


ガブリエルの声は、思ったよりやわらかくなった。

リリスは俯いたまま言った。


「今日は私も、お父様とお話できるかしら」


ガブリエルの眉が、心配そうに下がる。

その言い方は、いつものリリスよりずっと静かだった。

反抗でも、甘えでもない。

けれど、ただの願いとも少し違う。


「……話したいことがあるのか?」


リリスはすぐには答えなかった。


少しだけ間を挟んで、頷く。


「ええ」


それ以上は言わなかった。

ガブリエルは、遠くの神とアダムを見た。

畑の前で、アダムが嬉しそうに身振りを交えて話している。

ミカエルが控え、神が静かにそれを聞いていた。


ガブリエルはもう一度リリスを見る。


「分かった。私から父上に伝えよう」


リリスは小さく息を吐いた。


「ありがとう」


ガブリエルはその場を離れ、リリスは、ひとりで待った。


待っている間、リリスは顔を上げなかった。

足元には、よく整えられた土がある。

少し離れた場所には花が咲き、さらに奥では水が流れている。


どれも神が与えた庭のものだった。

何も不足していない、何も危険ではない。

すべてが満ちている。


 

それなのに、こんなにも、息が詰まる――。




 

 


やがて、アダム達との話を終えた神がこちらへ歩いてきた。


アダムとミカエル、ガブリエルは少し離れたところに残っている。

アダムは不安そうにこちらを見ていたが、ミカエルに促されてその場に留まった。

ガブリエルも、リリスを案じるように見つめている。


神はリリスの前に立った。


「リリス」


リリスは顔を上げる。

見れば、神の声も表情も穏やかだった。


「皆が、君のことを案じているようだ」


その言葉に、リリスは少しだけ目を伏せた。


案じている、そうなのだろう。

アダムも、ミカエルも、ガブリエルも。

きっと彼らは心配してくれている。

彼らには、悪意があるわけではない。

自分を困らせたいわけでも、苦しめたいわけでもない。

それが痛いほどわかる。

だからこそ、言葉をどう渡せばいいのか分からなくなる。


「……お父様」


「何かな」


リリスは、ゆっくりと顔を上げた。


「少し、お話をしたいの」


神は頷く。


「いいだろう」


リリスが歩き出すと、神も、その隣を歩いた。


向かう先は、庭の奥だった。

かつて、自分で見つけた芽があった場所。

今はもう、そこに芽はない。

土はきれいにならされていた。

移された跡も、ほとんど残っていない。


庭はよく整えられている。

何かが失われた場所でさえ、少し経てば美しく戻る。


リリスが足を止めると、神も足を止め、隣に立った。


風が吹いた。

葉が揺れる。

この場所に、かつて小さな芽があったことを、今はもうリリス以外の誰も気にしていないのかもしれなかった。


「お父様」


リリスは、土を見つめたまま言った。


「私は、アダムが私を嫌っているとは思っていないわ」


神は黙って聞いている。


「彼は、私を大切にしようとしているのだと思う。きっと、悪意もないのだわ。ミカエルも、ガブリエルも、いつも正しいことを教えてくれる」


リリスはそこで一度、息を吸った。


「でも…」


声は震えていなかった。

震えていないことが、かえって限界に近いようだった。


「アダムは、私を見る前に、“共にいるべき相手”として私を見るの」


神は遮らない。


「私が嫌だと言うと、まだ分からないのだと思われる。怖いと言うと、慣れていないだけだと思われる。離れたいと言うと、落ち着けば戻るのだと思われる」


リリスは、土の上に視線を落としたまま続けた。


「私が自分で選んだ小さなものも、正しい場所へ移されてしまう。私がそこに咲いていてほしかったのだと言っても、もっと良い場所があると言われる。私がそうしたかったのだと言っても、きっと私のためだと言われるの…!」


言葉にするたび、胸の奥で何かが痛んだ。


芽のこと。

花の種のこと。

水辺のこと。

ひとりで見つけた場所のこと。


反逆ではなかった。

誰かを傷つけるためのものでもなかった。

 

ただ、自分で選びたかった……それだけ。


「天使たちは、いつも正しいわ」


リリスの声は静かだった。


「でも、正しい言葉で整えられるたび、私の言葉は少しずつ私のものではなくなるの」


神は見ている。

怒らず、責めず、ただ見ている。

リリスはようやく顔を上げた。


「これは、私のわがままなの?」


神はすぐには答えなかった。

リリスは続ける。


「私は、どう言えばいいの?どう伝えれば、私自身の言葉としてみんなに受け取ってもらえるの?」


そこで、ほんのわずかに声が細くなった。

けれどリリスは目を逸らさない。


「私は、何と言えば…私のまま届くの……?」


神は、少しも責めることなくリリスを見ていた。

その眼差しに怒りはない。


失望もない。

ただ、見ている。

いつものように。

世界の中に生まれたものを、過不足なく見るように。


神は穏やかに言った。


「届いているよ、リリス」



その響きが、胸の奥に触れた。

一瞬だけ、息がしやすくなった気がした。


神は続ける。


「君が苦しいことも、怖いことも、自分のいる場所を見つけられずにいることも、私は見ている」


リリスは黙って聞いていた。

神の声は変わらない。


「君は、与えられた席にまだ馴染めずにいる。アダムとの距離も、すぐには受け入れられないのだろう」


リリスの指が、かすかに動いた。


「初めて自分の心を持ったものが、知らないものを前にして退くことはある。それを、私は責めない」


優しい言葉だった。

少なくとも、そう聞こえる言葉だった。

けれど、リリスの胸の奥で、さっき触れたはずの息が少しずつ細くなっていく。

神の声は穏やかだった。

 

「だが、リリス。君は始まりの女として創られた。アダムと共に在り、この庭で命を始める者として」


庭の向こうから、アダムの声がかすかに聞こえる。

ミカエルが何かを返している。

ガブリエルは、きっとこちらを見ている。

神は続けた。


「君が命を繋ぎ、この庭でアダムと共に在ること。それは、君に与えた祝福でもある」


祝福。


その言葉が、静かに落ちた。


庭は明るい。


水は澄み、花は咲き、果実は熟している。

アダムは少し離れた場所にいる。

ミカエルもガブリエルも見守っている。

神は怒っていない。

誰もリリスを傷つけようとはしていない。


それなのに――リリスは胸の奥が冷えていくのを感じた。


自分が怖かったもの。

自分が役目として迫られて苦しかったもの。

自分の身体に、心に、これから先に、当然のように求められているもの。

それは、神の言葉では『祝福』だった。


リリスは、長く黙っていた。

神は何も聞いていないわけではない。

むしろ、聞いている。

見ている。

理解している。

けれど、届いた先で、彼女の言葉はまた別の形になっていた。


「…………お父様の中では、そうなのね」


リリスは言った。


「そうだ」


音はしなかった。

涙も出なかった。

ただ、胸の奥へ差し出していた最後の言葉が、リリスの中で静かに下りていった。


届いている。

見ている。

そう言われても、彼女の言葉は彼女のままでは返ってこなかった。

だってそれは神の中では、それは祝福なのだ。


リリスは土の上を見た。

もう、この先に出せる言葉がなかった。


「……もういい」


小さな声だった。

けれど、庭の明るさに紛れず、確かに自分の唇から出た。

リリスが背を向けようとした時、穏やかな声で言った。


「君の場所は、まだ残っている」


リリスは立ち止まった。

 

神は、止めなかった。

戻りなさい、とも言わない。

罰する、とも言わない。

君は間違っている、とも言わない。


ただ、席はある。

その言葉は、きっと慈しみとして置かれた言葉だったのだろう。


まだ戻れる。

まだ席はある。

まだ始まりの女として、この庭に在る道は閉じていない。


けれどリリスには、その“場所”こそが息苦しかった。


リリスからの返事はなかった。

振り返らずにそのまま、神の前から離れていった。



 




空は淡い金に染まり、木々の影が長く伸びている。

果実の色は昼より深く、花の白は光の中で少しだけやわらかく見えた。


庭は、朝とは違う静けさをまとっていた。


リリスがアダムのところへ戻ると、アダムがすぐに駆け寄った。


「リリス!」


彼の声には、安堵と不安が混じっていた。


「父上と話せた?」


「ええ」

 

リリスは答えるまでに少しだけ間を挟んだ。

長い髪が頬にかかり、表情はよく見えなかった。

アダムは近づきすぎないように、足を止める。

先ほどよりも、さらに気を遣っているようだった。


「大丈夫?」


リリスはアダムを見ないまま、もう一度だけ答えた。


「ええ」


アダムは困ったように笑った。

何を言えばいいのか、分からないのだろう。

神と話せば何かが良くなると、どこかで思っていたのかもしれない。

少しの間、二人の間に夕暮れの風が通った。

リリスは、ゆっくりと顔を上げた。

そして、アダムに正面から向き合った。


「ありがとう、アダム」


笑顔だった。


その顔を見たアダムの顔が、ぱっと明るくなる。


「……うん!」


あまりにも素直な返事だった。

その声を聞いて、リリスの胸が少しだけ痛んだ。

アダムには届いていない。

けれど、今はそれでよかった。

リリスは笑った。


きっと、そのその笑顔だけは、きれいに渡せたのだろう。

アダムは安心したように笑っているから。


神と話して、リリスが落ち着いたのだと思ったのだろう。

もう大丈夫なのだと。

これから少しずつ、二人でうまくやっていけるのだと。


夕暮れの庭で、アダムは嬉しそうに笑っていた。

リリスも笑っていた。


長い時間ではなかった。


 

けれど、それがアダムに見せた最後の笑顔だった。







 




 

夜が降りると、庭の光は静かに薄れていった。


アダムは安心したのか、いつもより早く眠りについていた。

寝息は穏やかに、月の光が差し込む場所で、彼は何も知らずに眠っている。


リリスはそのそばに立っていた。


何も持たなくていい。

だって、持っていくものなど、何もない。

ここにあるものは、すべて与えられたもの。

果実も、水も、花も、眠る場所も、明日も。


何もかもが満ちていて、何もかもが彼女のものではなかった。


リリスは静かに歩き出し、慣れた住いを後にした。


足音を立てないようにする必要はなかった。

けれど、自然とそうなった。


居住地の近くで、夜の見回りをしていたガブリエルの姿が見えた。

白い式服の橙の差し色が、月明かりの中で淡く沈んでいる。

ルシフェルの不在を抱えたまま、それでも彼女は大天使としてそこにいた。


リリスを見ると、ガブリエルは少しだけ眉を動かした。


「リリス?」


「水辺まで行ってくるわ」


リリスはいつものように言った。

いつものように。

少なくとも、そう聞こえるように。

ガブリエルはすぐには答えなかった。


最近のリリスの様子について、ガブリエルはよく理解していた。

笑う回数が減ったこと。

返事が遅れること。

庭のどこか遠くへ目を向けることが増えたこと。


彼女にはひとりになる時間が、必要なのかもしれない。

そう思った。


「……そうか」


ガブリエルは言った。


「冷える。あまり長くはいるな」


「ええ」


リリスは微笑んだ。


その微笑みに、ガブリエルはかすかな違和感を覚えた。

彼女は、最近こんな風に笑っていただろうか。

なにか他に声をかけるべきか迷っているうちに、リリスはガブリエルの横を通り過ぎていった。

菫の髪を揺らし、月明かりの下を庭の奥へ向かって歩いていく。


やはり、明日は彼女と二人で話をしよう。

そうすればリリスの抱えるものも、自分の抱えている違和感も、きっと明らかになる。


ガブリエルはリリスの背中が小さくなるまで見送った。


 

 

花の香りが薄くなる。

果実の甘さが遠ざかる。

整えられた水音が、少しずつ別の音に変わっていく。


やがて、土の匂いに、知らない湿り気が混じった。

庭の内側を巡る水ではない。

外へ向かう水の音だった。


エデンの外縁。

河口の近く。

淡い水と、まだ見ぬ海の気配が混ざる場所。

いつもの水辺など、とっくに過ぎ去っていた。

 

リリスは歩き続けた。


背後には、光に満ちた庭がある。

食べ物があり、安全があり、明日があり、彼女の場所だと言われた席がある。


 

目の前には、何も約束されていない暗がりがある。


リリスは振り返らない。


 


まだ、誰もそれを別れとは呼ばなかった。

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