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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第30話「役目の外」

扉を越えた先で、ルシフェルはまず自分の足音を失った。


踏み出した感覚はあった。

靴底が何かに触れたような、確かな重みもある。

けれど、そこから返ってくるはずの音がない。


天界の回廊なら、どれほど静かに歩いても、白い床はごく淡い響きを返した。

衣擦れも、羽音も、誰かの呼吸も、きちんと届いていた。


それが、ここでは違う。


一歩を踏み出した、という感覚だけが彼の内側に残った。

音はどこへも渡らず、どこからも戻ってこない。


ルシフェルは一度足を止めてみる。

振り返っても、既に自分が入ってきた扉はなかった。


白い回廊も、柱も、庭の光も、神の部屋へ続くあの整いきった空気もない。


ただ、黒がある。

闇、と呼ぶには違和感があった。

夜、とも違う。


何かが塗りつぶされているのではない。

まだ何も始まっていない空白。

光がないのではなく、光と呼ぶものが、ここではまだ姿形を持っていない。


背の六枚の羽根が、無意識に開きかけた。

飛ぶためではない。

何かを受け止めるためでもない。


天界にいた頃から、身体が覚えている反応だった。

光を受け、空気を読み、姿勢を保つ。

羽根はそうして彼の背で、いつも自然に働いてきた。


けれど、開きかけた羽根は途中で止まった。


掴むものがない。


風もない。

光もない。

上も下も、遠くも近くも、知っている形では返ってこないのだ。

羽根の先が、何もない黒に触れて、わずかに震える。


ルシフェルは静かに息を吸った。


空気はある。

そのことに、少し遅れて気づいた。


冷たくも、温かくもなく、香りもない。

湿りも乾きも分からない。


それでも、息はできた。

胸が上下し、白い式服の内側で体温が動く。


息ができる。


ただそれだけのことが、どこか遠い世界の出来事のように現実味がなかった。


胸元へ手をやる。

指先に触れたのは、布だけだ。

いつもそこにあった、八つの先を持つ、光の徽章がそこにはない。

白い式服の胸元で静かに輝き、誰が見ても彼を大天使ルシフェルとして見つけられるようにしていたもの。

それはもう、自室の机に置いてきた。

自分で外し、自分で、そこから離れた。

 

分かっているはずだった。

それなのに、指先が布だけを探り当てた瞬間、遅れてその軽さが胸の奥へ落ちてきた。


何も残さなかった。

書き置きも。

言葉も。

理由も。


言葉を残せば、誰かが読む。

読めば、考える。

考えれば、必ず何かの形へ収めようとする。


兄として。

大天使として。

神のそばにいた者として。

何かに迷い、何かを捨てた者として。


どれも、きっと間違いではない。

間違いではないからこそ、残していけなかった。


手をゆっくりと下ろす。

白い袖が、黒の中でやけに明るい。


天界では自然だった白が、ここではひどく目立った。

明るいというより、騒がしいほどの純白に見えた。

布の折り目、紫の差し色、手首に沿う仕立ての正確さ。

そのすべてが、彼がどこから来たのかを物語っている。


再び一歩を出した。

今度も足音は返らない。

それでも、進んでいる感覚だけはあった。


黒はルシフェルを拒まなかったが、飲み込むこともなかった。


ただただ、続いている。


歩けば、その分だけ彼の身体が黒の中へ入っていく。

歩かなければ、なんの変化もない。


天界には、道があった。

回廊は部屋へ続き、庭は泉へ続き、神の言葉は天使たちの務めへ続いた。

どこへ行くにも、行き先があった。

行き先があるということは、そこへ向かう理由があるということ。


ここでは、理由より先に歩む足がある。

歩くたびに、天界で当然だったものが一つずつ遠ざかっていく。


足音が返らない。

羽根の影が落ちない。

白い式服が場になじまない。


声を出そうとしても、出した言葉がどこへ流れるのか分からず、唇だけが閉じていく。


名前を呼ぶ相手もいない。

呼ばれる声もない。


兄上、と弾むように呼ぶ声。

ルシフェル様、と敬意を含む声。

神の前で交わした穏やかな言葉。

ベルゼブブが、無駄を省いた低い声で返す短い相槌。


それらは消えたのではない。

ルシフェルの中では、まだ確かに鳴っている。

けれどこの黒は、そのどれにも返事をしない。



 

どれほど歩いたのか、分からない。

もはや、時間が流れているのかも曖昧だ。

ここには朝も昼もなく、天界の光のように時を滑らかに示すものもない。


ただ、ずっとずっと黒が続いている。



どれくらいたった頃だろうか。

歩き疲れ、意識もぼんやりとしてきた頃。

黒の奥に色がにじんだ。


最初は、見間違いかと思うほど淡かった。

 

深い藍の底に、紫がゆっくり溶けている。

その下の方に、赤が沈んでいた。


燃えているようではなかった。

朝焼けのように始まりを告げるものでもない。

沈みきれなかった熱だけが、遠い地平の下でまだ消えずに残っているような色。


美しい、と思いかけて、ルシフェルはその言葉を飲み込んだ。


あれは天界の美しさとは違う。

天界の白は、ものを明らかにした。

花は花として、柱は柱として、天使は天使として、その姿を澄ませていた。


だが目の前の黄昏は、何かを明らかにするための光ではない。

むしろ、どんな境目も一度夜へ沈めてしまう色だった。

藍と紫と沈んだ赤が、黒の奥から少しずつ広がっていく。


気づけば、足元に硬い感覚が戻っていた。

石、と呼ぶには形が曖昧で、地面、と呼ぶにはまだ頼りない。


それでも、先ほどまでの黒とは違う。

重さがある。

古く、長く、誰かに整えられないまま沈んできたものの重さ。


ルシフェルはようやく足を止めた。


黄昏のような色が低く広がっている。

上には藍が沈み、そこから紫がにじみ、ずっと奥の地平に赤が残っている。


空と呼ぶには近く、天井と呼ぶには果てがない。

どちらでもないものが、彼の前に広がっていた。


そこに、何か、がいた。


一つではない。


影のようにも見えた。

獣の背のようにも、翼の裂け目のようにも、髪の束のようにも見えた。


姿を捉えようとすると、捉えた場所から別のものに変わる。

そこにいるのに、何者かと問う前に、問うための言葉が遅れる。


ルシフェルは動かなかった。

向こうも、近づいてはこない。


ただ、見られている。

その感覚だけが、はっきりあった。


天界で向けられる視線とは全く違う。

 

敬意ではない。

期待でもない。

問いでもない。


神の言葉を受け取る者を見る目ではない。

兄を見る目でも、大天使を見る目でもない。

黄昏の底にいるものたちは、ただ、そこに増えた白いものを見ていた。


その視線に、裁きの色はなかったが、優しさを感じるものでもなかった。


しばらくして、どこからともなく声がした。


声、と言ってよいのか分からない。

耳で聞いたのではなく、羽根の付け根に触れたような響きだった。


「……まだ白い」


ルシフェルは、その言葉を受け止めるまでに少し時間がかかった。


まだ、白い?


彼は自分の袖を見た。


白い式服。

紫を差した正装。

六枚の羽根。

銀の髪。


胸元の徽章だけを欠いた、けれどなお天界の姿を強く残した姿。

ここでは、それが何より先に見えるのだろう。


「……そうだね」


ルシフェルは小さく言った。


声は、黄昏の中に落ちた。

消えず、かといって響きもせず、彼の前で薄く止まったように感じられた。


「まだ、持っている」


黄昏の奥で、何かがかすかに揺れた。


肯定ではない。

否定でもない。

笑いに近いのかもしれなかったが、笑い声ではなかった。


別の気配が、今度はもう少し近くで言った。


「うるさい」


ルシフェルは目を伏せた。


騒いだ覚えはない。

叫んでもいない。

問いただしてもいない。


けれど、その言葉は奇妙なほど正しいのではないかと思えた。


父上の声、兄上と呼ぶ声、胸元にあった星。


まだ、それらが自分の中で、何度も響いている。

黒へ踏み出したからといって、消えるものではない。

むしろ、返事をしてくれる場がなくなったことで、それらは自身の内側で余計にはっきり鳴っている。


「そうか」


ルシフェルは言った。


「ここでは、そう聞こえるのか」


返事はなかった。


その沈黙は、彼の言葉を拒むものではなかった。

続きを促すものでもなかった。

言葉を、言葉のまま触らずにいる沈黙だった。


ルシフェルは遠くの黄昏の奥を見た。


姿を持ちきらないものたちは、まだそこにいる。

揺らぎ、移ろい、また別の姿へ変わる。


翼のように見えたものが、次の瞬間には石の影に似ている。

獣の目のようだった光が、ただの裂け目に変わる。


だが、消えない。


姿は変わっている。

呼び名を与えようとしても、指の間を抜ける。

何者かと決めようとした瞬間に、別のものになる。


それでも、消えない。


ルシフェルは思わず、胸元に手をやった。

そこには、やはり布だけがある。


天界では、名があった。

務めがあった。

居場所があった。


誰が誰であり、何のためにそこにいるのかが、光の中で滑らかに示されていた。


それは美しかった。

間違いなく、美しかった。


けれど、目の前のものたちは、そのどれにも頼らずにここにいる。

少なくとも、そう見えた。

ルシフェルは、まだそれを読みきれない。


長く黙っていると、黄昏の赤が少しだけ濃く見えた。

地平の底で、沈みきれない赤が息をしている。紫がその上に静かに溶け、さらに上には深い藍が広がっていた。

黒の奥に、こんな色があることを、彼は知らなかった。

知らなかった、と思うことすら、どこか不思議だった。


神の言葉を読んできた。

天界がどう成り立ち、天使たちがどう働き、世界がどう巡るかを、誰より正確に読んできた。

だが、読んでいたものの外側に、自分の足が触れたことはなかった。


「きみ……」


今度の声は、先ほどよりは形を持っていた。


子どものようにも聞こえたが、老いた女のようにも聞こえた。

どちらでもなく、ただ長くここに沈んでいたものが、たまたま声の形を取ったようにも聞こえた。


ルシフェルは声のする方を見る。

黄昏の中に、ひときわ古い気配があった。


姿はある。

だが、やはり言い当てられない。


角があるようで、影が伸びているだけにも見える。

髪のようなものが揺れているようで、黄昏が細く裂けているだけにも見える。

瞳は見えない。


それでも、見られている。


ルシフェルはしばらくその存在を見ていた。


それから、静かに口を開いた。


「ここは、どこだい?」


その問いは、自分でも少し遅れて聞こえた。


どこ。


天界では、場所には名があった。

名を呼べば、その場所が何であり、何のためにあるかまで、ある程度分かった。

だが、この黄昏に向けてその問いを投げた瞬間、ルシフェルはどこかで気づいた。


――俺は、場所そのものより先に、呼び名を探している。


古い気配は、少しも急ぐことなく、やがて、短く答える。


「ここはここ」


ルシフェルは瞬いた。


返事としては短すぎた。

だが、不足している感じはなかった。

ここはここ。

それ以上でも、それ以下でもない。

その短さだけが、黄昏の中に残った。


「君は」


ルシフェルは言いかける。


「君たちは、何者なんだい?」


古い気配は、彼を見ていた。


「しってどうするの?」


奇妙なほどまっすぐなその問いに、ルシフェルは言葉を失った。

ただ、役に立たない道具を差し出された時のような、淡い不思議さがあった。


名前を聞く。

相手を知る。

呼び分ける。

どこに属し、何を担うのかを確かめる。


それは天界では自然なことだった。

むしろ、誤らないために必要なことだった。

だが、ここではそれが何の役に立つのか。

ルシフェルは答えられなかった。


古い気配は続けた。


「ぼくたちがだれか、きみがだれか。ここでは、それでなにもかわらない」


ルシフェルの喉が、わずかに動いた。


俺は、と言いかけた。

言えるはずだった。

 

俺はルシフェル。


父上のそばにいた大天使。

神の言葉を読み、天界へ渡していた者。

ミカエルたちの兄であり、ベルゼブブの友であり、天界の光の一つ。


言える、言えるはずだった。

けれど、そのどれを口にしても、この黄昏では白い式服の袖と同じように浮いてしまう気がした。


「俺は……」


そこで止まった。

古い気配は急かさない。

黄昏の底にいるものたちも、ただ見ている。

しばらくして、別の声がした。


「白をまとったうるさいものが来たから、見に来ただけだ」


ルシフェルは、その声の方を見た。


誰が言ったのかは分からない。

影の一つだったかもしれない。

地面に近い裂け目のようなものだったかもしれない。

赤い光の奥で息をした何かだったかもしれない。


その言葉には敵意がなかった。


歓迎もなかった。

ただ、珍しいものを見に来たという、それだけの温度だった。

ルシフェルは少しだけ目を伏せる。


珍しいもの、か。

自分が天界で浴びてきた視線とは、どこまでも違う。


ルシフェルは再び、古い気配を見た。


「俺のようなものは、よく来るのかい?」


古い気配は黙った。

その沈黙は、先ほどまでのものより少し長かった。

黄昏の赤が低く揺れる。

黒の底にいるものたちも、わずかに動きを止めたように見えた。

やがて、古い気配が言った。


「はじめて」


ルシフェルは息を止めた。

その言葉は、黒よりも静かに彼の内側へ入ってきた。


ここは前からあった。


この黄昏は、ルシフェルが来たから生まれたものではない。

ここにいるものたちも、彼を迎えるために待っていたわけではない。

彼が扉を開くずっと前から、この場はこの場として沈んでいた。

けれど、彼のようなものは初めて来た。

白い式服をまとったまま、天界の音を内側に鳴らしたまま、自分の足でここまで来たもの。


古い気配が、少し近づいたように感じた。


「きみは、おちてきたの?」


その言葉を聞いた瞬間、ルシフェルの中に、天界の高さが一瞬だけ戻った。


高いところから低いところへ。

白から黒へ。

内側から外へ。


父上なら、きっとそう呼ぶだろう。


現象に名を与え、揺れを、天界の中で扱える形にする。

それは父上のすることだ。

怒りではなく、罰でもなく、ただ静かに名を与える。

けれど、ルシフェルの足は、誰かに押されてここへ出たのではない。

罰として落とされたのでもない。

彼は、自分で扉を開いた。


「落ちた、というより……」


そこで言葉が一度止まる。

黒の中では、言葉を選ぶことすら、いつもと違った。

正しい言い方を探そうとすると、その正しさの方が重くなる。

だから、余分なものを削った。


「来たんだと思う」


古い気配は、しばらく黙っていた。

沈黙は長かった。

けれど、不自然ではなかった。

やがて、それは短く言った。


「そう」


それだけだった。

なぜ来たのか、とも聞かない。

戻るのか、とも聞かない。

ここにいてよいとも、出ていけとも言わない。


ただ、そう、と受けた。


その短さに、ルシフェルの胸の奥がかすかに痛んだ。

天界なら、言葉はもっと整って返ってきただろう。

ミカエルなら理由を問う。

ガブリエルなら呼び止める。

ラファエルなら傷を探す。

ウリエルなら言葉の筋を確かめる。


ベルゼブブなら――。


そこまで考えて、ルシフェルは一度目を閉じた。


――ベルなら、まず何も言わないかもしれない。


それから、短く何かを返す。

 

そうか。

 

ただ、それだけかもしれない。

ルシフェルは目を開ける。

黄昏は変わらずそこにあった。

 

――ここはここ。

――しってどうするの。

――ぼくたちがだれか、きみがだれか。ここでは、それでなにもかわらない


その言葉が、胸の奥でゆっくり重さを持ちはじめる。


まだ、分かったわけではない。

名を聞いても、返ってこない。

役目を探しても、見つからない。

それでも、目の前のものたちは消えなかった。


ルシフェルは胸元に触れた。

そこにあった星はない。

それでも、彼はまだ息をしている。


なら――


目の前の黄昏を見た。


ここで、俺はどうする……?


問いは、声にはならなかった。

答えもない。


古い気配は、何も言わなかった。

黄昏の底にいるものたちも、近づくでも離れるでもなく、しばらくルシフェルを見ていた。


歓迎ではない。

拒絶でもない。

白をまとった、うるさい、はじめてのもの。

それが今、黒の奥の黄昏に立っている自分だ。


ルシフェルは、そこに立っていた。


正しい一歩が、どこにも見当たらない。

天界の白は、もうどこにも見えず、この黄昏も、また自分のものではない。


それでも、自分の足でここにたどり着いた。

それだけは、確かだった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


この物語の続きを、また夜のどこかで見届けていただけたら嬉しいです。

ブックマークや評価も、とても励みになります。


いつも読んでくださっている方々、本当にありがとうございます。

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