第29話「知らない」
神の部屋を出ても、誰もすぐには口を開かなかった。
背後で扉が静かに閉じる。
白い回廊には、遠くを行き交う天使たちの足音が、いつも通り規則正しく響いていた。
普段なら、意識に残ることもない音だった。
朝の光や衣擦れと同じように、秩序の中へ溶けて、ただそこにあるだけのもの。
けれど今は、そのひとつひとつが耳に残った。
――堕天。
神は、そう呼んだ。
たった二文字の言葉が、四人の間に、見えない断絶のように横たわっている。
誰もそれを拾わない、拾えない。
神の言葉である以上、それはすでに名として成立している。
それでも胸の内へ入れるには、あまりにも冷たいものだった。
ミカエルは前を向いたまま歩いていた。
背筋は崩れていない。
歩幅も乱れていない。
誰が見ても、大天使としての形を保っている。
ただ、衣服に隠れた拳がきつく握りしめられ、その爪が手のひらに深く突き刺さっていた。
力を入れすぎていることに、本人だけが気づいていない。
ガブリエルは一度、後ろを振り返った。
神の部屋の扉は、もう閉じている。
あの向こうに、今も神はいる。
変わらず、静かに。
ルシフェルがいなくなったことを知っていて、止めず、名を置いた存在が。
「兄さまが……」
そこまで言って、続きが出なかった。
呼び慣れた名が、喉の奥でほどけない。
兄さま、と呼べば、いつものように振り向いてくれる気がしてしまう。
その錯覚の方が、今は苦しかった。
ラファエルは何も言わない。
誰かの痛みを探すように、視線だけが回廊の先をさまよっている。
けれど、探す相手がどこにもいない。
痛みだけが残っていた。
痛む本人は、もう天界のどこにもいない。
ウリエルは、四人の中で一番早く表情を整えていた。
普段と同じ静かな顔、乱れない視線。
けれど、その指は記録用の紙片に触れていなかった。
いつもなら、神の言葉はすぐに書き留める。
残され、整理され、天界の中で共有されるべきものになる。
だが今、ウリエルは一文字も残していない。
堕天。
その語を、どうすべきかまだ誰もわからなかった。
ミカエルは足を止める。
止まった瞬間、他の三人も自然に歩みを止める。
彼が何かを決めたのだと、声を聞く前から分かった。
「ラファエル、ウリエル」
二人が顔を上げる。
「兄上の部屋に戻って、もう一度確認してくれ。何か見落としがないか」
ラファエルはすぐ頷いた。
「分かった」
その返答は穏やかだったが、いつもの柔らかさとは違った。
何かをしていないと立っていられない者の声だった。
ウリエルも短く答える。
「承知した」
言葉は整っていた。
だが、わずかに遅れた。
何を確認すれば、何が見落としとして見つかるのか。
彼はきっと、もうその問いを抱えている。
ガブリエルがミカエルを見る。
「私は」
「ガブリエルは、エデンへ戻る準備をしてくれ」
「エデンへ?」
声に、戸惑いがにじんだ。
兄の失踪と、堕天という名を受け取ったばかりで。
どうして今、エデンのことを考えられるのか。
だが、ミカエルは表情を変えなかった。
「放置はできない。庭の見守りは我々の責務だろう」
その声は、大天使としてのものだった。
崩れかけたものを、無理に形へ戻した声。
感情より先に役目を前へ出すことで、かろうじて立っている声だった。
ガブリエルの唇がわずかに動く。
反論しかけたのだろう。
兄さまが、と言いたかったのかもしれない。
今はそれどころではない、と言いたかったのかもしれない。
だが結局、彼女は言わなかった。
「……分かった」
ミカエルは神妙な面持ちで頷いた。
それから、少しだけ視線を回廊の先へ向ける。
「私は、ベルゼブブのところへ行く」
三人の視線が集まった。
ラファエルが小さく眉を寄せる。
「ベルゼブブのところへ?」
「ああ」
ウリエルが言う。
「兄様と彼はよく話しをしていた…だからか?」
ミカエルは答えない。
答えなくても、三人には分かった。
ルシフェルが誰かに何かを残したとすれば、自分たち以外に、あの男だけだろう。
その可能性は、言葉にする前から痛かった。
誰も責めることではない。
ベルゼブブが何かを奪ったわけでも、ルシフェルを連れていったわけでもない。
それでも、その考えは胸の内側に冷たい針のように触れた。
ガブリエルの顔がかすかに歪む。
「私も行く」
「いや」
ミカエルは首を横に振った。
「私が聞く」
ガブリエルはなにか言いたげに一歩踏み出しかけた。
けれど、ミカエルの顔を見て止まった。
そこにあるのは拒絶ではなかった。
彼女を遠ざけるための命令でもない。
今この問いを誰が持っていくべきかを、ミカエルが決めた顔だった。
それ以上、誰も言わなかった。
ミカエルは一人で回廊を進む。
ベルゼブブの仕事部屋へ向かう道は、よく知っている。
自分の用向きで訪ねることは多くなかったが、ルシフェルがそこへ向かう姿を、遠目に見たことは何度もあった。
兄上は、よくあの部屋へ行った。
理由など、聞かなかった。
聞けなかった、と言う方が近い。
ルシフェルがどこへ行くのか、誰と話すのか、何を楽しみにしているのか。
それを弟である自分が逐一問うことではないと思っていた。
兄には兄の時間があり、役目があり、交友がある。
その程度のことは、分かっていた。
分かっていたはずだった。
ベルゼブブは、兄上を特別扱いしない。
必要以上に敬わないし、褒めもしなかった。
遠慮もしない。
それが、少し不思議だった。
不思議なだけではなく、周囲の天使がルシフェルに向ける視線には、いつも光を見る時のような眩しさが混じっていた。
ミカエル自身も、そこから完全に自由だったとは言えない。
兄を慕い、敬い、誇りに思い、守りたいと思う。
そのすべては本当だった。
けれど、ベルゼブブだけは違った。
光としてではなく、ただ目の前にいる相手として、兄と話しているように見えた。
ミカエルは扉の前で足を止めた。
中から、紙を動かす音が聞こえる。
書類をめくり、必要な箇所を確かめ、次の処理へ移る。
ベルゼブブらしい、静かな仕事の音だった。
ミカエルは息を整え、扉を叩いた。
「ベルゼブブ。入ってもいいだろうか」
少しだけ間があった。
「どうぞ」
扉を開けると、ベルゼブブは机に向かっていた。
書類は積まれ、筆も手元にあり、インク壺の蓋は開いている。
机上の配置に乱れはなく、すぐにでも仕事へ戻れる形を保っていた。
彼は仕事中の顔だった。
ミカエルが入っても、ベルゼブブはすぐには立たなかった。
一拍置いてから筆を置き、椅子を引いて立ち上がる。
慌てたところはなく、遅すぎもしない。
相手に礼を欠かない最低限を、正確に選んだ動きだった。
「ミカエル様」
頭を下げる姿に、形に乱れはない。
ミカエルはその前に立った。
「ベルゼブブ。君は、何か知っているのではないか」
ベルゼブブは目を伏せなかった。
「あなた方に渡せることは、何もありません」
返答は早かった。
早すぎたようにも聞こえた。
ミカエルは、少しだけ眉を動かす。
「兄上は君のところをよく訪ねていた。よく話していただろう」
「俺が呼んだことはありません」
ベルゼブブの声は平坦だった。
「それに、他愛のない話に付き合わされていただけです」
「他愛のない、話」
ミカエルは、その言葉を繰り返した。
部屋の中に紙の匂いがある。
机の上には、まだ乾いていないインクが一滴、筆先の近くに残っていた。
ほんの少し前まで、ベルゼブブは何かを書いていたのだろう。
何事もないように。
あるいは、何事もない形を保つために。
「兄上は、誰にでもお優しい。誰の話にも耳を傾けられる。だが……君には、少し違うように見えた」
ベルゼブブは答えなかった。
その沈黙は、肯定ではない。
否定でもない。
ただ、ミカエルの言葉をそこに置いたまま、手を出さない沈黙だった。
「兄上は、君の前ではよく笑っていた」
「あなた方にもそうでしょう」
「種類が違う」
その言葉だけは、考えるより先に出た。
ベルゼブブの目が、ほんの一度だけ動いた。
ミカエルは続ける。
「兄上は……君といる時、楽そうだった」
自分で言って、胸の奥が引きつった。
昔から、そう見えていた。
認めたくはなかった。
羨ましいなどと思ってはいない、と何度も自分に言った。
兄上は自分たちを愛していた。
導き、微笑、どんな時も手を取ってくれた。
それは嘘ではない。
決して、嘘ではなかった。
けれど、ベルゼブブの前でだけ、兄上は少し違った。
兄上である前に、ただ話している者に見えた。
「君を友だと話していた」
ミカエルは言う。
「兄上は私たちの前でも確かに笑った。けれど、私たちの前ではいつも“兄上”だった」
ベルゼブブは動かない。
その言葉に何かを返す権利を、持たないようにしている顔だった。
「だから、君には本当のことを……いなくなった理由を、話していたのではないかと」
最後の方は、声が低くなった。
問いただしているはずだった。
だが、口にしてみれば、それは願いにも似ていた。
誰か一人くらい、兄の本当の言葉を持っていてほしい。
同時に、それが自分たちでなかったことを知りたくない。
その相反する二つが、同じ声の中に混じっていた。
ベルゼブブは、机の端に置かれた書類へ一度だけ目をやった。
「生憎、あなたが思っているようなものではありません」
「……」
「行き先は知りません。理由を説明する言葉も、預かっていない」
ミカエルはベルゼブブを見た。
嘘だ、と言いそうになった。
だが、言えなかった。
ベルゼブブの顔は、何かを隠している顔ではなかった。
責めても、揺らしても、そこから望むものは出てこないだろうと分かる。
「……本当に、何も、か」
「あなた達に渡すための言葉は、何も預かっていません」
その返答は、刃の背で叩かれるようだった。
鋭く切られるのではない。
けれど、鈍く、深く残る。
ミカエルは一瞬、息を止める。
兄上は、私たちに言わなかった。
それは今、はっきりした事実としてそこにある。
書き置きもない。
呼び止める機会もない。
胸の印だけを置いていった。
ミカエルは目を伏せた。
しぼり出した声は、思ったよりも低く出た。
「兄上とあれほど親しくしておいて、君は兄上が心配ではないのかっ……」
ベルゼブブの表情は変わらない。
「俺が心配の言葉を口にしたところで、何か状況が変わるのですか?」
ミカエルは言葉を失った。
すぐに言い返せなかった。
心配だと口にすれば、何かが戻るわけではない。
それは正しい。
正しいからこそ、今は残酷だった。
ベルゼブブは机の方へ視線を落とした。
書類はまだ開かれている。
「俺には、やるべき仕事があります」
それはとても冷たく部屋に響いた。
「……そうか。失礼する」
ミカエルは短く言うと、ベルゼブブは深く礼をした。
「はい」
それだけだった。
◇
廊下の白が目に入る。
いつもと同じ回廊だった。
柱の影も、窓の光も、遠くを行く天使たちの姿も変わらない。
変わらないのに、何かが足りない。
その足りなさが、さっきよりもはっきりしていた。
ベルゼブブの返答は何もくれなかった。
理由も。
行き先も。
最後の言葉も。
ただ、自分が口にした言葉だけが残っている。
兄上は、私たちの前ではいつも“兄上”だった。
誇らしいはずだった。
ずっと、その呼び名を疑わなかった。
兄上と呼べることが嬉しかった。
兄上が自分たちの前で兄でいてくれることが、当然で、幸福で、守られている証のように思っていた。
けれど今、その呼び名が喉の奥に重く残っている。
ミカエルは止まっていた足を、再び前に進め始めた
止まれば、何かが崩れる気がした。
◇
ベルゼブブはまだ机の前に立っていた。
扉が閉じたあとも、しばらくそのまま動かなかった。
回廊の足音が遠ざかっていく。
やがてそれも、天界のいつもの音の中へ紛れていった。
書類へ目を落とす。
文字は読める。
内容も理解できる。
けれど、筆は動かなかった。




