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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第28話「堕天」

朝の天界。


ベルゼブブは回廊の途中で足を止めた。


片腕に抱えた書類の束が、わずかに沈む。

必要な場所へ向かい、必要なものを渡し、必要なことを済ませる。

今朝も、それだけなら何も変わらないはずだった。


足取りも、背筋も、腕に抱えた紙の角度も、いつも通りに整っている。


それでも、視界の端に白い花に囲まれたガゼボが入った瞬間、歩みはそこで切れた。


あの男の気に入りの場所だった。


丸い卓も、椅子も、白い花も、昨日と同じ場所にある。

花弁は朝の光を受けて薄く揺れ、風は穏やかで、どこにも変わったところなどない。


ただ、そこにいるはずの男だけがいない。


卓上に紅茶はない。

湯気もない。

皿も、焼き菓子も、開いたまま置かれている本もない。


いつもなら、何かしら残っていた。

読みかけの紙片、伏せられた本、茶器の縁に残る光。

あるいは、こちらに気づいて顔を上げる、人懐っこく笑う顔。


そのどれもが、なかった。


ベルゼブブは、しばらくその場所を見ていた。


指先が、抱えた書類の角を押さえ直す。

紙の端がかすかに鳴った。


ガゼボから目を離し、また歩き出した。

 

背後で、乱れた足音と、若い天使たちの動揺の声が広がっていく。


それでも、振り返らなかった。



 

 



 

 

 

エデンには、雨上がりの空気がまだ残っていた。


葉先には水の粒が光り、濡れた土の匂いが風に混じっている。

鳥の声は高く、遠くの水辺には薄い光が揺れていた。



リリスは、空を見上げていた。


アダムは近づきすぎない距離で、何かを話しかけようとしては言葉を選んでいる。

彼なりに気遣っているのだろう。声は以前より柔らかく、歩幅も、手を伸ばす距離も、昨日より慎重だった。


リリスは、それに短く答えた。


返事はしている。

問いかけを無視しているわけではない。


けれど、言葉が返るまでに、ほんの少しだけ間があった。

目の前のアダムを見ているようで、その視線は彼の肩の向こう、庭の端を越えて、もっと遠いものへ流れている。




昨夜、空を横切る光を見た。


雨の名残を含んだ夜空を、ひとすじの光が斜めに裂いて落ちていった。

星にしては大きく、鳥にしては静かだった。

音もなく、けれど見間違えようのない強さで、暗い空に傷のような明るさを残した。


アダムには言わなかった。


言ったところで、何が変わるとも思えなかった。

あれは庭のことではない。

二人で見るべきものとして空に現れたものでもない。

名前を聞けば誰かが答えてくれるものでもない気がした。


それなのに、目が離せなかった。


落ちていく光は、一瞬だけ夜を照らし、それから遠くへ消えた。

何だったのかは分からない。


けれど朝になっても、胸の奥だけがまだあの夜を、あの光を覚えている。


少し離れた場所では、ミカエルとガブリエルがアダムとリリスの様子を見ていた。


ミカエルの表情は強張っていた。


アダムの距離、リリスの返事。

二人の間に落ちる沈黙。

ひとつずつ拾い、どこをどう整えればよいのかを考えている顔だった。


ガブリエルは、リリスを見ていた。

昨日よりも、さらにリリスの言葉が薄いことが気になっていた。

怒っているのではない。泣いているのでもない。

確かにそこにいるのに、彼女の存在だけが色を失い、かすんでいくようだった。


そのリリスの姿を、ガブリエルはうまく言葉にできずにいた。


「このままでは、二人だけで整えるのは難しいかもしれない」


ミカエルが低く言った。


「……ああ」


ガブリエルの返事は遅れた。


「一度、父上に見ていただくべきではないか」


その言葉に、ガブリエルは小さく息を呑む。


「父上に?」


「このまま、我々だけで判断を重ねてもよいのか分からない」


「だが」


言いかけて、ガブリエルは口を閉じた。


反論があったわけではない。

けれど、神に見ていただく、という言葉がリリスの上に置かれた瞬間、胸の奥にかすかな引っかかりが生まれた。


正しい手順のはずだった。

正しい判断のはずだった。

だからこそ、言葉にできない。


その時、空の上から羽音が落ちてきて、二人は同時に顔を上げる。

天界の使いだった。


白い式服の裾を乱し、息を切らしながら降りてくる。

羽の動きは荒く、普段ならあり得ないほど急いでいた。


「伝令です!!」


使いの天使は、地に足をつけると同時に膝をついた。


「ミカエル様! ガブリエル様! 今すぐ天界へお戻りを!」


ミカエルの顔が険しくなる。


「何事だ」


「それが……」


天使は言葉を詰まらせた。

その短い間に、ただ事ではないと察したガブリエルの顔色が変わる。

理由はまだ聞いていない。

それでも、よくない知らせだと身体が先に理解した。


「何があった!」


ミカエルの声が一段低くなる。

使いの天使は、震える声で続けた。


「ル、ルシフェル様がっ」


その名が出た瞬間、ガブリエルの指が強く握られた。


「ルシフェル様の、お姿が天界のどこにも確認できません!」


ミカエルは、一瞬動かなかった。


言葉は確かに届いている。

だが、その意味だけが身体の中へ入ってこない。


「何を言っている…?」


「天界中を探しております。ですが、どこにも……」


「兄上が?」


ミカエルの声は、まだ信じていない者の声だった。


「兄上が、どこにもいない?」


ガブリエルは青ざめていた。


「……兄さまが?」


その声は、かすかだった。


ミカエルはすぐに顔を上げる。

止まっていれば、そのまま何かが崩れるような気がした。


「戻るぞ!ガブリエル!」


ガブリエルも頷いた。

その横顔に、今はエデンのことを考える余裕はなかった。


少し離れた場所から、アダムが天使達の喧騒を見ていた。


「……ミカエルたち、どうしたんだろう?」


独り言のように言ったアダムのその声に、リリスは答えなかった。

ただ、視線だけで二人の天使が飛び立つのを追った。

白い羽が、エデンの空を切って上へ上へと高く昇っていく。


その姿が遠ざかるにつれて、昨夜見た光が、胸の奥でかすかに重なった。


落ちていった光。

昇っていく白い羽。

どちらもすぐに空の遠くへ消えていく。


けれど、彼女にはまだ何も分からなかった。


 


 ◇


 


天界へ戻ったミカエルとガブリエルを、最初に出迎えたのは末端の天使たちだった。


いつものような整った列ではない。

それぞれが動揺を抑えようと必死な様子だった。

背筋はいつも通りに伸びている。

礼も崩れていない。

だが、視線が定まらず、羽の先がかすかに震えていた。


「ミカエル様、ガブリエル様っ!」


「ああ、お戻りくださってよかった!」


「私たちだけでは、どうすべきか分からず……」


ミカエルは彼らを一瞥した。


「状況を簡潔に伝えてくれ」


一人の天使が進み出る。


「はい。ルシフェル様のお姿が、今朝より確認できません。記録室、茶室、ガゼボ、庭、外縁近くまで探しましたが、どこにも……」


ガブリエルが声を挟む。


「ラファエルとウリエルは?」


「お二人は、ルシフェル様のお部屋の前でお待ちです。お早く、と」


ミカエルは頷いた。


「行くぞ」


二人は、白い回廊を急いだ。

すれ違う天使たちが道を開ける。

誰も大きな声は出さず、悲鳴もない。

混乱を表へ出すことを、天界はよしとしない。


それでも、空気だけが落ち着かない。


ミカエルは唇を引き結んだ。

兄がいなければ動けないわけではない。

そうであってはならない。


けれど回廊を急ぐ自分の足音すら、どこか兄の不在を確かめるための音のように聞こえた。


ルシフェルの部屋の前には、ラファエルとウリエルが立っていた。


ラファエルの顔色は悪い。

いつものやわらかさは残っているが、目の奥に不安が滲んでいる。

誰かの痛みを探す時の目だった。

だが今は、探す相手がどこにもいない。


ウリエルはいつもの通りに静かだった。

その静けさはいつもの冷静さとは少し違う。

言葉を選びすぎて、逆に何も言えなくなっているようだった。


ガブリエルが駆け寄る。


「ラファエル、ウリエル。これは、いったいどういうことだ?」


ラファエルは唇を開いたが、すぐには言葉が出なかった。


「……それが」


ウリエルが短く言う。


「中へ」


ミカエルは一度だけ目を伏せた。


「分かった」


四人は、ルシフェルの部屋へと足を踏み入れた。

部屋の中は、何も変わっていない。


整理された本棚に、長く使われてきた窓辺の机。

気に入りのティーセット、気に入りの茶葉の瓶。

乾いたインク壺に、折り重なった白い紙。

窓辺の白い花。


すべてが、いつも通りそこにあった。


この部屋の主が、少し前に部屋を出て、またすぐ戻ってくるのではないかと錯覚させるようだった。


けれど、机の上にひとつだけ、いつもと違うものが置かれている。


 

八つの先を持つ、小さな星の形。

金の徽章。


 

ミカエルの足が机の前で止まる。


「これは……」


声がかすれた。


「兄上の」


誰も動かなかった。

ガブリエルはその徽章を見つめたまま、息をするのを忘れたように立っている。

白い式服の胸元で見慣れていた光が、机の上にある。

それが兄の胸元に無いというだけで、知らないものに見えた。


「どういうことだ……?」


ラファエルが小さく言う。


「兄さんがいそうなところは、全部探したんだ。でも、見当たらなくて……」


ウリエルが続ける。


「最後に兄様を見たと思しき者は、いつも通りだった、と言っていました」


いつも通り。

その言葉が、部屋の白さに吸い込まれる。

ガブリエルが、ゆっくりと顔を上げた。


「……本当に、どこにも?」


ラファエルはうつむいた。


「僕たちだけじゃない。天界中の天使たちが探した。でも、見つからないんだ」


ミカエルが机へ近づき徽章に手を伸ばしかける。

けれど、触れられなかった。

これは、兄上の胸にあるべきものだ。

いつも白い式服の上で光っていた。


どこにいても、誰が見ても、ルシフェルがルシフェルであることを示していた印。

それが机の上に置かれている。


ミカエルは、かすれた声で言った。


「まさか……これは」


誰も答えなかった。

答えられる者などいなかった。


「兄上が、ここへ置いていったのか?」


その言葉を口にした瞬間、部屋の中が静まり返った。


まさか、そんなはずがない。

あの兄上が、ルシフェルが?

天界の光として立っていたあの人が?

自分を示すこの印を、置いていく?

そんなことがあるはずがない。


この部屋に集まった全員がそう思っていた。


けれど、部屋は静かなままだ。


何も壊れていない、何も荒れていない。

争った跡も、連れ去られた気配もない。


ただ、徽章だけがそこにある。


ミカエルは強く目を閉じた。

そして、次に瞳を開いた時には、もう顔が変わっていた。


「父上のところに行くぞ!」


ガブリエルが顔を上げる。

ラファエルも、ウリエルも何も言わずに頷いた。




回廊を歩く足音が、いつもより大きく聞こえる。


誰も一言も話さなかった。

話せば、何かが形になってしまう気がした。


 


神の部屋の扉は、閉じられていた。


ミカエルが前に立つ。


「父上」


声をかけると、中から返答があった。


「入りなさい」


声のあと、扉が開いた。


神の部屋の中は、いつも通り、白い石の床と高い窓。

余分のない机と書棚があるべきところに置かれている。

そして、いつもと変わらず、窓辺に神が立っていた。


大天使四人がそこにいても、ひとつも驚いてもいない。

振り向かず、待っていたとも、そうでないとも分からない。


ミカエルは胸に手を添えることも忘れ、踏み出した。


「父上っ!」


声が震えかけるのを、必死に抑えていた。


「兄上が……ルシフェル様が、天界のどこにもおられません!」


神は、窓の外を見たまま答えた。


「知っているよ」


その一言で、四人の空気が止まる。

ミカエルは息を呑んだ。


「ご存じ、なのですか?」


「そうだ」


ガブリエルが一歩前へ出る。


「父上!では、兄さまはどこに!?」


神はようやく振り向いた。

白に近い灰の瞳が、四人を静かに見た。


「天界にはいない」


「それは、分かっています」


ガブリエルの声が少し荒くなる。


「天界に居ないのであれば、どこへ行かれたのです!」


神は少しも揺れない。


「あの子なら、出ていった」


沈黙が落ちた。

最初に反応したのは、ガブリエルだった。


「出て……いった?」


その声は、言葉をなぞることすらできていない。


ラファエルが、眉を寄せる。


「出ていった、というのは……?」


ウリエルの目が細くなる。


「天界の外へ……という意味ですか?」


その言葉に、部屋の空気がさらに冷たくなっていく。

ミカエルは振り返りかけ、すぐに神へ向き直る。


「待ってください、そんなことが可能なのですか?」


声は抑えられていた。

だが、その奥には明らかな動揺があった。


天界には、神の命による往来がある。

地上への派遣や見届けもある。

神の言葉によって開かれる道に、従い、赴くこともある。


だが、それはすべて命じられた役目であり、神の御心に従うための歩みだ。


天界から出ていく。


自分の意思で。


そんな発想は、四人の中に存在しなかった。


ガブリエルが言う。


「父上の命で、どこかへ向かわれたのですか?」


「違う」


「では、誰かが」


「違う」


ラファエルの声がかすれる。


「兄さんが、自分で……?」


神は静かに答える。


「そうだ」


その言葉に、四人は何も言えなくなった。


ミカエルは、奥歯を噛みしめる。


だが、神は嘘を言わない。

神がそうだと言うのなら、そうなのだ。

ルシフェルは、自分で天界を出た。


ミカエルは振り返り三人を見る。


ガブリエルはまだ何か言いたげだった。

ラファエルは青ざめている。

ウリエルは口を閉ざしているが、その目は神の言葉を必死に追っている。


皆、理解できない、したくない、という面持ちだった。


ミカエルは一度硬く目を伏せ、縋るような、あるいは詰問するような視線で神を射抜いた。


「出ていくことができたとして……なぜ、父上は止めなかったのですか」


神の顔には、何も浮かばない。


「止めるものではない」


「なぜです……!」


悲鳴に近い問いが、白い部屋の壁に撥ね返る。


「私の命令によるものではなかったからだ」


ミカエルの表情が、痛みに耐えるように歪んだ。


「では、なおさら止めるべきだったのではありませんか!?」


「ミカエル」


遮る神の声は、ただ静かだった。静かすぎて、まるで頭上から降る雪のように冷徹だった。


「止めれば、あの子は留まったかもしれない」


ミカエルは喉を詰まらせ、言葉を失う。


「なら……」


「だが、それは戻ったことにはならない」


その一言が、ミカエルの喉を塞いだ。

それ以上、何も言えなかった。


神は、淡い灰の瞳を揺らす。


 「あの子は、もう天の内側に立てなくなった」


天の内側。


その響きは、すぐ目の前にある世界の境界を指しているはずなのに、今の四人には、永遠に届かない星の彼方ほどに遠く、冷たく聞こえた。


ミカエルは、神の言葉を受け取ろうとしていた。

受け取れば崩れると分かっていて、それでも受け取らなければならない顔だった。


ガブリエルは何かを言いかけ、言葉を失った。

ラファエルは胸元を押さえる。

ウリエルだけが、神の語を追うように目を伏せていた。


神は、窓の外へ目を向けた。

白い天界は、今日も眩いほどに明るい。

そして、何かの置き場所を決めるように、神は言った。

 


「堕天、とでも呼ぼうか」

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