第28話「堕天」
朝の天界。
ベルゼブブは回廊の途中で足を止めた。
片腕に抱えた書類の束が、わずかに沈む。
必要な場所へ向かい、必要なものを渡し、必要なことを済ませる。
今朝も、それだけなら何も変わらないはずだった。
足取りも、背筋も、腕に抱えた紙の角度も、いつも通りに整っている。
それでも、視界の端に白い花に囲まれたガゼボが入った瞬間、歩みはそこで切れた。
あの男の気に入りの場所だった。
丸い卓も、椅子も、白い花も、昨日と同じ場所にある。
花弁は朝の光を受けて薄く揺れ、風は穏やかで、どこにも変わったところなどない。
ただ、そこにいるはずの男だけがいない。
卓上に紅茶はない。
湯気もない。
皿も、焼き菓子も、開いたまま置かれている本もない。
いつもなら、何かしら残っていた。
読みかけの紙片、伏せられた本、茶器の縁に残る光。
あるいは、こちらに気づいて顔を上げる、人懐っこく笑う顔。
そのどれもが、なかった。
ベルゼブブは、しばらくその場所を見ていた。
指先が、抱えた書類の角を押さえ直す。
紙の端がかすかに鳴った。
ガゼボから目を離し、また歩き出した。
背後で、乱れた足音と、若い天使たちの動揺の声が広がっていく。
それでも、振り返らなかった。
◇
エデンには、雨上がりの空気がまだ残っていた。
葉先には水の粒が光り、濡れた土の匂いが風に混じっている。
鳥の声は高く、遠くの水辺には薄い光が揺れていた。
リリスは、空を見上げていた。
アダムは近づきすぎない距離で、何かを話しかけようとしては言葉を選んでいる。
彼なりに気遣っているのだろう。声は以前より柔らかく、歩幅も、手を伸ばす距離も、昨日より慎重だった。
リリスは、それに短く答えた。
返事はしている。
問いかけを無視しているわけではない。
けれど、言葉が返るまでに、ほんの少しだけ間があった。
目の前のアダムを見ているようで、その視線は彼の肩の向こう、庭の端を越えて、もっと遠いものへ流れている。
昨夜、空を横切る光を見た。
雨の名残を含んだ夜空を、ひとすじの光が斜めに裂いて落ちていった。
星にしては大きく、鳥にしては静かだった。
音もなく、けれど見間違えようのない強さで、暗い空に傷のような明るさを残した。
アダムには言わなかった。
言ったところで、何が変わるとも思えなかった。
あれは庭のことではない。
二人で見るべきものとして空に現れたものでもない。
名前を聞けば誰かが答えてくれるものでもない気がした。
それなのに、目が離せなかった。
落ちていく光は、一瞬だけ夜を照らし、それから遠くへ消えた。
何だったのかは分からない。
けれど朝になっても、胸の奥だけがまだあの夜を、あの光を覚えている。
少し離れた場所では、ミカエルとガブリエルがアダムとリリスの様子を見ていた。
ミカエルの表情は強張っていた。
アダムの距離、リリスの返事。
二人の間に落ちる沈黙。
ひとつずつ拾い、どこをどう整えればよいのかを考えている顔だった。
ガブリエルは、リリスを見ていた。
昨日よりも、さらにリリスの言葉が薄いことが気になっていた。
怒っているのではない。泣いているのでもない。
確かにそこにいるのに、彼女の存在だけが色を失い、かすんでいくようだった。
そのリリスの姿を、ガブリエルはうまく言葉にできずにいた。
「このままでは、二人だけで整えるのは難しいかもしれない」
ミカエルが低く言った。
「……ああ」
ガブリエルの返事は遅れた。
「一度、父上に見ていただくべきではないか」
その言葉に、ガブリエルは小さく息を呑む。
「父上に?」
「このまま、我々だけで判断を重ねてもよいのか分からない」
「だが」
言いかけて、ガブリエルは口を閉じた。
反論があったわけではない。
けれど、神に見ていただく、という言葉がリリスの上に置かれた瞬間、胸の奥にかすかな引っかかりが生まれた。
正しい手順のはずだった。
正しい判断のはずだった。
だからこそ、言葉にできない。
その時、空の上から羽音が落ちてきて、二人は同時に顔を上げる。
天界の使いだった。
白い式服の裾を乱し、息を切らしながら降りてくる。
羽の動きは荒く、普段ならあり得ないほど急いでいた。
「伝令です!!」
使いの天使は、地に足をつけると同時に膝をついた。
「ミカエル様! ガブリエル様! 今すぐ天界へお戻りを!」
ミカエルの顔が険しくなる。
「何事だ」
「それが……」
天使は言葉を詰まらせた。
その短い間に、ただ事ではないと察したガブリエルの顔色が変わる。
理由はまだ聞いていない。
それでも、よくない知らせだと身体が先に理解した。
「何があった!」
ミカエルの声が一段低くなる。
使いの天使は、震える声で続けた。
「ル、ルシフェル様がっ」
その名が出た瞬間、ガブリエルの指が強く握られた。
「ルシフェル様の、お姿が天界のどこにも確認できません!」
ミカエルは、一瞬動かなかった。
言葉は確かに届いている。
だが、その意味だけが身体の中へ入ってこない。
「何を言っている…?」
「天界中を探しております。ですが、どこにも……」
「兄上が?」
ミカエルの声は、まだ信じていない者の声だった。
「兄上が、どこにもいない?」
ガブリエルは青ざめていた。
「……兄さまが?」
その声は、かすかだった。
ミカエルはすぐに顔を上げる。
止まっていれば、そのまま何かが崩れるような気がした。
「戻るぞ!ガブリエル!」
ガブリエルも頷いた。
その横顔に、今はエデンのことを考える余裕はなかった。
少し離れた場所から、アダムが天使達の喧騒を見ていた。
「……ミカエルたち、どうしたんだろう?」
独り言のように言ったアダムのその声に、リリスは答えなかった。
ただ、視線だけで二人の天使が飛び立つのを追った。
白い羽が、エデンの空を切って上へ上へと高く昇っていく。
その姿が遠ざかるにつれて、昨夜見た光が、胸の奥でかすかに重なった。
落ちていった光。
昇っていく白い羽。
どちらもすぐに空の遠くへ消えていく。
けれど、彼女にはまだ何も分からなかった。
◇
天界へ戻ったミカエルとガブリエルを、最初に出迎えたのは末端の天使たちだった。
いつものような整った列ではない。
それぞれが動揺を抑えようと必死な様子だった。
背筋はいつも通りに伸びている。
礼も崩れていない。
だが、視線が定まらず、羽の先がかすかに震えていた。
「ミカエル様、ガブリエル様っ!」
「ああ、お戻りくださってよかった!」
「私たちだけでは、どうすべきか分からず……」
ミカエルは彼らを一瞥した。
「状況を簡潔に伝えてくれ」
一人の天使が進み出る。
「はい。ルシフェル様のお姿が、今朝より確認できません。記録室、茶室、ガゼボ、庭、外縁近くまで探しましたが、どこにも……」
ガブリエルが声を挟む。
「ラファエルとウリエルは?」
「お二人は、ルシフェル様のお部屋の前でお待ちです。お早く、と」
ミカエルは頷いた。
「行くぞ」
二人は、白い回廊を急いだ。
すれ違う天使たちが道を開ける。
誰も大きな声は出さず、悲鳴もない。
混乱を表へ出すことを、天界はよしとしない。
それでも、空気だけが落ち着かない。
ミカエルは唇を引き結んだ。
兄がいなければ動けないわけではない。
そうであってはならない。
けれど回廊を急ぐ自分の足音すら、どこか兄の不在を確かめるための音のように聞こえた。
ルシフェルの部屋の前には、ラファエルとウリエルが立っていた。
ラファエルの顔色は悪い。
いつものやわらかさは残っているが、目の奥に不安が滲んでいる。
誰かの痛みを探す時の目だった。
だが今は、探す相手がどこにもいない。
ウリエルはいつもの通りに静かだった。
その静けさはいつもの冷静さとは少し違う。
言葉を選びすぎて、逆に何も言えなくなっているようだった。
ガブリエルが駆け寄る。
「ラファエル、ウリエル。これは、いったいどういうことだ?」
ラファエルは唇を開いたが、すぐには言葉が出なかった。
「……それが」
ウリエルが短く言う。
「中へ」
ミカエルは一度だけ目を伏せた。
「分かった」
四人は、ルシフェルの部屋へと足を踏み入れた。
部屋の中は、何も変わっていない。
整理された本棚に、長く使われてきた窓辺の机。
気に入りのティーセット、気に入りの茶葉の瓶。
乾いたインク壺に、折り重なった白い紙。
窓辺の白い花。
すべてが、いつも通りそこにあった。
この部屋の主が、少し前に部屋を出て、またすぐ戻ってくるのではないかと錯覚させるようだった。
けれど、机の上にひとつだけ、いつもと違うものが置かれている。
八つの先を持つ、小さな星の形。
金の徽章。
ミカエルの足が机の前で止まる。
「これは……」
声がかすれた。
「兄上の」
誰も動かなかった。
ガブリエルはその徽章を見つめたまま、息をするのを忘れたように立っている。
白い式服の胸元で見慣れていた光が、机の上にある。
それが兄の胸元に無いというだけで、知らないものに見えた。
「どういうことだ……?」
ラファエルが小さく言う。
「兄さんがいそうなところは、全部探したんだ。でも、見当たらなくて……」
ウリエルが続ける。
「最後に兄様を見たと思しき者は、いつも通りだった、と言っていました」
いつも通り。
その言葉が、部屋の白さに吸い込まれる。
ガブリエルが、ゆっくりと顔を上げた。
「……本当に、どこにも?」
ラファエルはうつむいた。
「僕たちだけじゃない。天界中の天使たちが探した。でも、見つからないんだ」
ミカエルが机へ近づき徽章に手を伸ばしかける。
けれど、触れられなかった。
これは、兄上の胸にあるべきものだ。
いつも白い式服の上で光っていた。
どこにいても、誰が見ても、ルシフェルがルシフェルであることを示していた印。
それが机の上に置かれている。
ミカエルは、かすれた声で言った。
「まさか……これは」
誰も答えなかった。
答えられる者などいなかった。
「兄上が、ここへ置いていったのか?」
その言葉を口にした瞬間、部屋の中が静まり返った。
まさか、そんなはずがない。
あの兄上が、ルシフェルが?
天界の光として立っていたあの人が?
自分を示すこの印を、置いていく?
そんなことがあるはずがない。
この部屋に集まった全員がそう思っていた。
けれど、部屋は静かなままだ。
何も壊れていない、何も荒れていない。
争った跡も、連れ去られた気配もない。
ただ、徽章だけがそこにある。
ミカエルは強く目を閉じた。
そして、次に瞳を開いた時には、もう顔が変わっていた。
「父上のところに行くぞ!」
ガブリエルが顔を上げる。
ラファエルも、ウリエルも何も言わずに頷いた。
回廊を歩く足音が、いつもより大きく聞こえる。
誰も一言も話さなかった。
話せば、何かが形になってしまう気がした。
神の部屋の扉は、閉じられていた。
ミカエルが前に立つ。
「父上」
声をかけると、中から返答があった。
「入りなさい」
声のあと、扉が開いた。
神の部屋の中は、いつも通り、白い石の床と高い窓。
余分のない机と書棚があるべきところに置かれている。
そして、いつもと変わらず、窓辺に神が立っていた。
大天使四人がそこにいても、ひとつも驚いてもいない。
振り向かず、待っていたとも、そうでないとも分からない。
ミカエルは胸に手を添えることも忘れ、踏み出した。
「父上っ!」
声が震えかけるのを、必死に抑えていた。
「兄上が……ルシフェル様が、天界のどこにもおられません!」
神は、窓の外を見たまま答えた。
「知っているよ」
その一言で、四人の空気が止まる。
ミカエルは息を呑んだ。
「ご存じ、なのですか?」
「そうだ」
ガブリエルが一歩前へ出る。
「父上!では、兄さまはどこに!?」
神はようやく振り向いた。
白に近い灰の瞳が、四人を静かに見た。
「天界にはいない」
「それは、分かっています」
ガブリエルの声が少し荒くなる。
「天界に居ないのであれば、どこへ行かれたのです!」
神は少しも揺れない。
「あの子なら、出ていった」
沈黙が落ちた。
最初に反応したのは、ガブリエルだった。
「出て……いった?」
その声は、言葉をなぞることすらできていない。
ラファエルが、眉を寄せる。
「出ていった、というのは……?」
ウリエルの目が細くなる。
「天界の外へ……という意味ですか?」
その言葉に、部屋の空気がさらに冷たくなっていく。
ミカエルは振り返りかけ、すぐに神へ向き直る。
「待ってください、そんなことが可能なのですか?」
声は抑えられていた。
だが、その奥には明らかな動揺があった。
天界には、神の命による往来がある。
地上への派遣や見届けもある。
神の言葉によって開かれる道に、従い、赴くこともある。
だが、それはすべて命じられた役目であり、神の御心に従うための歩みだ。
天界から出ていく。
自分の意思で。
そんな発想は、四人の中に存在しなかった。
ガブリエルが言う。
「父上の命で、どこかへ向かわれたのですか?」
「違う」
「では、誰かが」
「違う」
ラファエルの声がかすれる。
「兄さんが、自分で……?」
神は静かに答える。
「そうだ」
その言葉に、四人は何も言えなくなった。
ミカエルは、奥歯を噛みしめる。
だが、神は嘘を言わない。
神がそうだと言うのなら、そうなのだ。
ルシフェルは、自分で天界を出た。
ミカエルは振り返り三人を見る。
ガブリエルはまだ何か言いたげだった。
ラファエルは青ざめている。
ウリエルは口を閉ざしているが、その目は神の言葉を必死に追っている。
皆、理解できない、したくない、という面持ちだった。
ミカエルは一度硬く目を伏せ、縋るような、あるいは詰問するような視線で神を射抜いた。
「出ていくことができたとして……なぜ、父上は止めなかったのですか」
神の顔には、何も浮かばない。
「止めるものではない」
「なぜです……!」
悲鳴に近い問いが、白い部屋の壁に撥ね返る。
「私の命令によるものではなかったからだ」
ミカエルの表情が、痛みに耐えるように歪んだ。
「では、なおさら止めるべきだったのではありませんか!?」
「ミカエル」
遮る神の声は、ただ静かだった。静かすぎて、まるで頭上から降る雪のように冷徹だった。
「止めれば、あの子は留まったかもしれない」
ミカエルは喉を詰まらせ、言葉を失う。
「なら……」
「だが、それは戻ったことにはならない」
その一言が、ミカエルの喉を塞いだ。
それ以上、何も言えなかった。
神は、淡い灰の瞳を揺らす。
「あの子は、もう天の内側に立てなくなった」
天の内側。
その響きは、すぐ目の前にある世界の境界を指しているはずなのに、今の四人には、永遠に届かない星の彼方ほどに遠く、冷たく聞こえた。
ミカエルは、神の言葉を受け取ろうとしていた。
受け取れば崩れると分かっていて、それでも受け取らなければならない顔だった。
ガブリエルは何かを言いかけ、言葉を失った。
ラファエルは胸元を押さえる。
ウリエルだけが、神の語を追うように目を伏せていた。
神は、窓の外へ目を向けた。
白い天界は、今日も眩いほどに明るい。
そして、何かの置き場所を決めるように、神は言った。
「堕天、とでも呼ぼうか」




