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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第27話「白を出る」

ベルゼブブの部屋を出たあとも、天界は何も変わらない。

若い天使たちがすれ違い様に、ルシフェルに気づくと胸に手を添えて頭を下げる。


「ルシフェル様、ご機嫌麗しゅうございます」


「ありがとう」


いつものように微笑む。


この天使達もまた、安心したように顔を上げ、それから自分の持ち場へ戻っていった。


その背を見送り、ルシフェルは足を止める。


まだ笑える。

まだ声も出る。

まだ、誰かを安心させる顔ができている。

それはきっと、よいことのはずだった。


けれど胸の奥には、さっきベルゼブブが言った言葉だけが、静かに沈んでいる。


お前は堕ちるんじゃない。

行くんだ。


ルシフェルは正面へ向き直ると歩き出した。


どこか遠くで、歌が聞こえる。

天使たちの声だ。

祈りとも、聖歌ともつかない、いくつもの声が重なりあった歌。

その歌が、白い天井に触れては降りてきた。


美しい歌だった。


乱れがない。

誰かひとりの声が強く出ることもなく、誰かひとりの声が置き去りにされることもない。

すべてがひとつの光のように重なって、天界の白に溶けていく。


ルシフェルはその歌を聞きながら、自分の部屋へと戻った。


慣れた扉を開けると、当たり前に自分の部屋が見える。

部屋の中も、装飾も、何も変わってはいない。


机。

椅子。

書棚。

窓辺の白い花。

きちんと畳まれた布。

使い終えた筆と、乾いたインク壺。


ここには、何度も戻ってきた。


四人がまだ小さかった頃、夜更けに泣き疲れた誰かを寝かせたあと。

神の言葉を読み終え、天界へ渡す文を整えたあと。

ベルゼブブと口論めいた会話をして、結局どちらも譲らなかったあと。


いつも、ここへ戻ってきた。


ルシフェルは部屋の中央で、しばらく立っていた。


荷物は持たない。

持っていくものなど、なかった。

 

書き置きもしない。

机の上には紙も筆もある。

けれど指が伸びなかった。


言葉を残せば、誰かが読む。

読む者は、理由を探す。

理由を探せば、それはきっと天界のどこかへ置かれる。


兄がなぜ去ったのか。

何に迷ったのか。

何を見て、何を捨てたのか。


その答えを、彼らに残すことはできなかった。


ルシフェルはゆっくりと胸元へ手をやる。


白い式服の胸に留められた、光の徽章。

八つの先を持つ、小さな星の形。


神の近くに置かれた光。

大天使ルシフェルの印。

天界の誰もが、彼を見てまず目にするもの。


指先で留め具を外すと、金属が小さく鳴った。

思っていたよりも、軽い音だった。


徽章を手のひらに載せると、白い光を受けて金の縁が淡く光った。


美しいものだった。


これを嫌いになったわけではない。


この印を受け取った日のことも、覚えている。

胸に留められた重みも。

ミカエルがまっすぐに見上げてきた目も。

ガブリエルが少しだけ誇らしそうにしていた顔も。

ラファエルが「似合います」と笑った声も。

ウリエルがその形の意味を、真面目に尋ねてきたことも。


全部、覚えている。

片時も忘れたことはない。

 

ルシフェルは机の上に、徽章を置いた。

ことり、と音がする。


とても重たいものだと思っていた。

だが、案外それだけだったことに少し苦笑する。


何も変わらない。

ただ、胸元だけが少し軽い。


ルシフェルは扉へ向かった。

振り返らなかった。


部屋を出ると、聖歌はまだ続いていた。


今度は少し近く聞こえる。

回廊のどこか、開いた礼拝の間か、庭に面した小さな広間か。

天使たちの声は、光を洗う水のように流れていた。


ルシフェルは白い回廊を歩く。


茶室の前を通った。

扉は閉まっている。

けれど、その向こうに、兄と呼ぶ声がまだあるようだった。


笑い声。

焼き菓子を巡る小さな騒ぎ。

照れた声。

抗議。

懐かしさ。


全部、本当だった。

だから、言葉にはせず、歩き続けた。


ガゼボの見える回廊へ出る。


白い花に囲まれたそこには、誰もいない。


午後になれば、光が斜めに差し込む場所。

紅茶の香りが残り、焼き菓子の皿が置かれ、ベルゼブブが嫌そうな顔をしながらも結局座っていた場所。


ガゼボを横目に、ルシフェルは足を止めない。

ただ、ほんの一瞬だけ、ベルゼブブの部屋で聞いた低い声を思い出す。


――お前が決めろ。


ベルゼブブは、止めなかった。

背中も押さなかった。

ただ、自分の行き先を、誰のものにもさせなかった。

ルシフェルは目を伏せた。


「……ありがとう」


声にはならないほど小さく、息だけが落ちる。


記録室の前を通った。


白い扉。

整った棚。

神から渡された本文の控え。

天界へ回すための共有文。


その部屋で、どれほどの言葉を読んだだろう。

どれほどの言葉を、天界へ渡しただろう。


神の言葉を読み、ほどき、皆が動ける形へ整える。

それは長く、自分の喜びでもあった。


知らないものを知ること。

見えないものの輪郭を読むこと。

神の短い文の奥にある運びを、天使たちへ渡すこと。


その役目を嫌ったことはなかった。


ただ。

もう、そこへ戻れない。


扉の前で、ルシフェルは一度だけ立ち止まった。


『迷いながら読む者として、君はまだ機能している。』


神の声が、白い部屋の奥から蘇る。


怒りではなかった。

否定でもなかった。

ただ、正確だった。

正確すぎた。


ルシフェルは、記録室の扉に触れず、また歩き出す。


いつの間にか聖歌は、少しずつ遠くなっていった。


回廊の奥へ進むほど、天使の姿は少なくなった。

庭の白も、柱の影も、見慣れた場所のはずなのに、どこか紙の端へ近づいているように見えた。


天界には、外へ出る道などない。


部屋から部屋へ。

庭へ。

神のもとへ。

持ち場へ。


道はすべて、天界の内側を巡るためにある。


それでよかった。

ずっと、それでよかった。


ルシフェルは、最も奥の回廊へと出た。


そこは、ほとんど誰も通らない場所だった。

白い壁が続き、窓も少なく、光だけが薄く溜まっている。


以前なら、ただの行き止まりに見えただろう。

あるいは、見る必要のない場所だった。


けれど今は分かる。


ここは、終わりではない。


――――綴じ目だ。


ルシフェルは白い壁の前に立ち、指を伸ばす。


壁は滑らかだった。

石でも、扉でもないように見え、継ぎ目など、どこにもない。


それでも、彼にはそこが開くと分かった。


読めてしまった。


天界の白が、完全な無限ではないこと。

ここまでが書かれている場所なのだということ。

そして、その先にはまだ、何も置かれていないものがあること。


ルシフェルは手を置いた。


白い壁の奥で、かすかな音がした。


鍵が外れる音ではない、木が軋む音でもない。

紙の束が、ほんの少しだけめくれていく様な音だった。


壁に、細い線が生まれ、やがてそれは扉の形になった。


何の装飾もない、白い扉。

細い線だけが天界の光を受けず、ほとんど影のように沈んでいる。


ルシフェルはしばらく、その扉を見ていた。


怖くないわけではなかった。


向こうに何があるのか、知らない。

足場があるのかも分からない。

戻れるのかどうかも分からない。


けれど、ここに残れば戻れるのかと問われれば、答えはもう決まっていた。


自分の部屋。

茶室。

ガゼボ。

記録室。

神の部屋。

弟妹たちの声。

ベルゼブブの茶。


すべてが、今も白の中にある。


愛している。


それでも、もうそこに立てない。


ルシフェルは手をかざした。


その時、天界のどこかで、聖歌がひときわ高く重なった。

声が、白い天井へ昇っていく。


呼び止める声はなかった。

扉が閉ざされることもなかった。

罰も、命令も、赦しもなかった。


ただ、天界は静かに巡っている。


手をかざした扉がゆっくりと開かれていく。


向こう側には、黒があった。


夜ではない。

影でもない。

悪でもない。


まだ何も書かれていない黒。


白が届いていない場所。


上も下も分からない。

奥行きも、距離もない。


けれど、無ではなかった。


何も迎えず、何も拒まなかった。


ただ、白ではなかった。


ルシフェルは一歩、扉の前へ出る。


胸元に、もう徽章はない。

銀の髪が、白い光を受け、六枚の羽が最後に天界の空気をまとった。


振り返れば、きっと何かを思うだろう。

だから、振り返らなかった。


ベルゼブブの声が、もう一度だけ胸の奥で響く。



――落ちるんじゃない。

――行くんだ。


 

ルシフェルは、静かに息を吸った。

 


そして、白の外へ踏み出した。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

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