第26話「止めない友」
天界は何も変わっていない。
白い回廊には、今日も純白の光が満ちている。
柱は等間隔に並び、庭の花々は咲くべき場所で咲いている。
遠くを行く天使たちの羽音も、声も決して騒がしくはならない。
ミカエルは地上の見届けへ戻った。
ガブリエルも、その隣で務めを続けている。
ラファエルは必要な補助に備え、ウリエルは記録を整えている。
すべては、滞りなく巡っていた。
ルシフェルが書けなかった共有文も、最終的には必要な形へ整えられた。
何度も筆を置き、何度も白紙を見つめ、それでも最後には、天使たちが動けるだけの言葉を渡した。
誰も困らない、誰も迷わない。
天界は今日も正しく巡っている。
それなのに、ルシフェルだけが、まだ戻れずにいた。
記録室の机には、使い終えた紙と、乾いたインクの跡が残っている。
共有文はもう手元にない。
各所へ回り、読まれ、理解され、それぞれの持ち場へ溶けていった。
そのはずなのに、指先にはまだ筆の重みが残っていた。
人の庭についての見届けは、引き続き継続される。
各々、与えられた務めを継続すること。
ただそれだけの文書だった。
ただそれだけの文を、何度も書き直した。
ルシフェルは立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る音が、白い部屋に短く響いた。
どこへ行くかは、決めていなかった。
けれど足は、自然にいつもの回廊へ出ていた。
白い道を歩く。
高い窓の向こうでは、庭が過不足なく整っている。
花も、風も、光も、誰かに問われることなく、それぞれの場所にあった。
ルシフェルを見つけた若い天使たちは、即座に回廊の端に寄ると頭を下げる。
「ルシフェル様、ご機嫌麗しゅう。本日も一点の曇りなき御公務、何よりと存じます。」
「ルシフェル様、御身の平穏こそが、我ら末端に連なる者の総意でございます。」
「ありがとう」
いつものように微笑む。
天使達は安心したように顔を上げ、それから自分の持ち場へ戻っていった。
その背を見送りながら、ルシフェルは思う。
自分の笑みは、まだ機能している。
そう思ってしまったことに、息が詰まった。
足を止めると、目の前には見慣れた扉があった。
ベルゼブブの仕事部屋。
いつもなら、何のためらいもなく開けていただろう。
勝手知ったる顔で入り、忙しい友の仕事を邪魔し、茶を要求して、呆れた顔をされる。
だが、今日だけは、扉の前で少し止まってしまった。
ドアノブに手をかけようか迷っていると、中から声がした。
「入るなら入れ」
その声を聞いて、ルシフェルは小さく笑いながらドアノブを回した。
「君には、本当に何でも分かってしまうね」
扉を開けると、ベルゼブブは机に向かっていた。
書類の束がいくつも積まれている。
端はきちんと揃えられ、インク壺の位置も、紙押さえの角度も乱れていない。
窓辺の光は淡く、机の上だけが少し冷たく見えた。
ベルゼブブは手元の紙から目を上げた。
「今日は邪魔をしに来た顔じゃないな」
ルシフェルは扉を後ろ手でそっと閉める。
「そんな顔をしているかな」
「している」
「本当に、嫌なところばかり見る」
「見るまでもない」
ベルゼブブは筆を置いた。
それだけで、ルシフェルは少しだけ目を伏せた。
この男が仕事の手を止める時、それは、いつだって小さな異常だった。
「座れ」
ベルゼブブは短く言い、立ち上がる。
「今日は、茶を出してくれるんだね」
「話す気がある顔をしている奴を、立たせたままにする趣味はない」
「優しい」
「黙れ」
いつもの返しだった。
けれど、声の底はいつもより低い。
ルシフェルは椅子に腰を下ろした。
ベルゼブブは棚から茶器を取り、香りのいい茶葉を選ぶと、ゆっくりと湯を注ぐ。
動きは正確で、無駄がなかった。
しばらく、湯の音だけが部屋にあった。
カップが二つ置かれる。
ルシフェルの前にひとつ。
ベルゼブブの前にひとつ。
「ありがとう」
「飲め」
「まだ何も言っていないのに」
「ひとまず飲め。冷ますな」
ルシフェルはカップを手に取る。
温かい。
上品な香りのする好きな茶葉だ。
それだけで、胸の奥のどこかがわずかに緩みそうになった。
だから、すぐには飲めなかった。
ベルゼブブは向かいに座る。
茶には手をつけない。
「それで」
「うん」
「何を言いに来た」
まっすぐな問いだった。
ルシフェルは、カップの中を見た。
琥珀色の表面に、窓の光が細く映っている。
「ベル」
「なんだ」
「俺はたぶん、もうここにはいられない」
ベルゼブブは、すぐには返さなかった。
いつもなら、何か返しただろう。
意味がわからん、とか。それを俺に言うな、とか。
短く斬るような言葉を。
けれど、今は何もなかった。
部屋の中で、遠い羽音だけがかすかに聞こえる。
やがて、ベルゼブブは低く言った。
「……そうか」
それだけだった。
ルシフェルは小さく笑う。
「驚かないんだね」
「驚いている」
「そうは見えない」
「見せる必要がない」
「君らしい」
ルシフェルはようやく茶に口をつけた。
温かいはずなのに、どこか遠い味がした。
「父上が間違っていると思っているわけじゃない」
ベルゼブブは黙って聞いている。
「天界が嫌いになったわけでもない」
「分かってる」
「ミカエルたちを、置いていきたいわけでもない」
「それも分かってる」
その返事があまりにも早くて、ルシフェルは少しだけ目を上げた。
ベルゼブブは表情を変えない。
「言い訳から始めるな」
ルシフェルは息を止め、それから、苦笑した。
「……君は、本当に容赦がない」
「お前が遠回りをしているからだ」
「遠回りをしているかな」
「している」
短く言い切られる。
ルシフェルはカップを置いた。
「俺は、ここが美しい場所だと知っている」
声は穏やかだった。
「ここで与えられたものも、受け取ったものも、全部偽りだったとは思わない。父上の言葉を読んできたことも、四人の兄でいたことも、君とこうして茶を飲んでいることも」
そこで、言葉が少しだけ止まる。
「どれも、本当だった」
ベルゼブブは何も言わない。
ルシフェルは続けた。
「本当だったのに、もう同じ場所に戻れない」
カップの中の茶は、まだ薄く湯気を残していた。
「父上の本文を読むたびに、そこに自分の場所が見える。俺の役目が見える。皆が戻るべき場所が見える。それは正しい。きっと必要なことだ」
「なら戻ればいい」
ベルゼブブが言う。
突き放す声ではなかった。
ただ、ひとつの確認だった。
ルシフェルは目を伏せる。
「戻れたら、そうしているよ」
その一言に、ベルゼブブの指がわずかに止まった。
机の上で、紙の端が動く。
「父上は、俺の迷いも本文の内にあると言った」
ベルゼブブの目が、少しだけ細くなる。
「俺はまだ、迷いながら読む者として機能しているらしい……」
その言葉を聞いた瞬間、ベルゼブブの顔から温度が消えた。
怒りではない、驚きでもない。
ただ、何かを見通すような目だった。ような目だった。
「そう言われたのか」
「うん」
「お前はっ……」
ベルゼブブはそこで一度、言葉を切った。
珍しいことだった。
ルシフェルは、静かに待つ。
だが、ベルゼブブは続きを言わなかった。
言うべき言葉なら、いくつかあった。
ひどい言葉だ、と言うこともできた。
お前はそんなものではない、と言うこともできた。
神の言葉に沈むな、と言うことも。
けれど、どれも言えなかった。
代わりに、別の問いを置いた。
「戻りたいのか」
ルシフェルはすぐには答えなかった。
窓の外で、白い光が揺れる。
「分からない」
「俺に行くなと言ってほしくて、ここに来たのか」
ルシフェルの指が、カップの取っ手に触れたまま止まる。
「……そうなのかもしれない」
「止めてほしいのか」
問いは短かった。
けれど、そこに逃げ道はなかった。
ルシフェルは、しばらく黙った。
目を閉じるでもなく、顔を背けるでもなく、ただカップの中を見ていた。
自分の答えが、そこに沈むのを待つように。
やがて、低く言った。
「……いや」
ベルゼブブは、わずかに目を伏せた。
「なら、俺の言葉は必要ない」
ルシフェルは顔を上げた。
「ベル」
「お前はもう、俺の言葉一つで引き返せる場所にはいない」
ベルゼブブの声は平坦だった。
「俺が行けと言ったから行く場所にもいない」
その言葉に、ルシフェルは何も返せなかった。
ベルゼブブは続ける。
「お前が決めろ」
短い。
ただ、それだけ。
ルシフェルは、その一言をしばらく受け取れなかった。
誰の声にも似ていなかった。
神の声にも。
天界の声にも。
ベルゼブブ自身の願いにも。
ルシフェルは、少しだけ笑った。
困ったような、泣きそうな、けれどどちらにもなりきらない笑みだった。
「君は本当に、助けてくれないね」
「助けたら、お前はそれを理由にするだろ」
ベルゼブブの即答に、ルシフェルは今度こそ言葉を失った。
まったく、この男は。
一番痛いところに、ためらいなく手を伸ばしてくる。
だが、その手は決して引かない。
押しもしない。
ルシフェルはゆっくり息を吸った。
長い沈黙が落ちる。
その沈黙のあいだ、ベルゼブブは一度も急かさなかった。
茶にも手をつけず、書類にも戻らず、ただ向かいに座っていた。
やがて、ルシフェルは言った。
「……俺は行くよ」
ベルゼブブは、しばらく何も言わなかった。
その沈黙は、さっき程よりも長いものだった。
窓の外で、白い鳥が一羽、回廊の向こうを横切る。
羽音は届かない。
ベルゼブブは、ようやく口を開いた。
「……そうか」
それだけだった。
だが、少ししてから、低く続ける。
「なら、お前は堕ちるんじゃない。行くんだ」
ルシフェルの瞳が、わずかに揺れた。
堕ちる。
その言葉は、まだ誰もこの出来事に与えていない。
けれど、きっとそう呼ぶ者がいるだろう。
天から離れるもの。
白い場所から外れるもの。
正しい位置から逸れるもの。
いつか、誰かが名前を置く。
けれど、ベルゼブブはそう呼ばなかった。
「お前が行くんだ」
もう一度、ベルゼブブは言った。
それ以上は言わなかった。
祝う顔でも、慰める顔でもない。
ただ、言い直すことだけはしなかった。
ルシフェルは小さく目を伏せる。
「……うん」
それ以上は、何も言えなかった。
しばらく、二人とも黙って茶を飲んだ。
話すべきことは、もうほとんどなかった。
聞こうと思えば、いくらでも聞けただろう。
いつ行くのか。
どこへ行くのか。
何をするつもりなのか。
ミカエルたちには言うのか。
父上には。
けれど、ベルゼブブはひとつも聞かなかった。
ルシフェルはカップを置いた。
「冷めてしまったね」
「お前が話すのが遅い」
「こういう時でもそこなんだね」
「こういう時だからだ」
ルシフェルは少しだけ笑った。
その笑いは、いつものルシフェルに近い笑い方だったが、ベルゼブブは見なかったことにした。
「ごちそうさま」
ルシフェルは立ち上がる。
「茶くらい飲み切れ」
「飲んだよ」
「菓子はない」
「今日はねだっていないだろう」
「ねだる顔をするな」
「していたかな」
「していた」
「なら、次は期待しよう」
次。
その言葉が、二人のあいだに落ちた。
ルシフェルも、ベルゼブブも、それをあえて拾わなかった。
扉へ向かうルシフェルの背を、ベルゼブブは見ていた。
白い式服。
銀の髪。
六枚の羽。
天界の光の中に、あまりにも自然に馴染む姿。
それがもう、この場所から離れようとしている。
「ルシフェル」
ベルゼブブは呼んだ。
ルシフェルが足を止める。
「なんだい」
ベルゼブブは、少しだけ黙った。
言うべき言葉は、やはりいくつもあった。
行くな。
戻れ。
話せ。
せめて、誰かに……。
だが、どれも違う。違った。
結局、彼が言ったのは別のことだった。
「茶を冷ますな」
ルシフェルは振り向き、一瞬だけきょとんとした顔をした。
それから、ふっと笑った。
「うん」
それだけ答えて、扉を開ける。
白い光が差し込む。
「ベル」
「なんだ」
「君が友でよかった」
ベルゼブブは何も返さなかった。
返してしまったら、何かが崩れる気がした。
ルシフェルはそれを分かっていたのか、返事を待たずに部屋を出ていった。
パタンと音を立てて扉が閉まった。
それはいつもより小さく聞こえた。
部屋には、茶の香りと、紙の匂いだけが残った。
ベルゼブブはしばらく、閉じた扉を見ていた。
それから、机へ向き直る。
積まれた書類がある。
処理すべき案件がある。
確認すべき記録がある。
彼は筆を取り、いつも通りに書類へ目を落とす。
文字は読めた。
いつも通りだ。
――いつも通り。
けれどその日だけは、乾いた筆先が紙の上で凍りついたように動かなかった。




