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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第25話「正しい介入」

夜の間、エデンには雨が降っていた。


天界の雨とは違う。

音があった。


葉を叩き、土を濡らし、水辺に細かな輪をいくつも作っていく。

降りはじめの雨音はやわらかかったが、夜が深まるにつれて重くなり、やがて木々の枝を揺らすほどになった。


リリスは眠れなかった。


寝床の中で、雨の音を聞いていた。

隣では、アダムが眠っている。

寝息は規則正しく、時おり身じろぎをするだけで、目を覚ます気配はない。


雨は、庭のあちこちを濡らしていく。


水路のそば。

低い花の群れ。

白く長い生き物が通った草の道。


そして、あの小さな芽のある場所。


リリスは暗がりの中で目を開けたまま、何度もあの場所を思い浮かべた。


まだ細い茎。

ひらきかけた小さな葉。

名前を付けず、ただ見ていたかったもの。


あの小さな芽は雨に打たれて、大丈夫かしら。


そう思った。


けれど、その心配さえ、どこか違う気がした。


明日の朝、見に行けばいい。


そこに残っていたなら、その姿を見る。

折れているなら、折れた姿をありのまま見る。

流されてしまったのなら、そうなったのだと知る。


それでよかった。


雨の音は、夜の間中続いた。


 

――

 


朝になると、庭は濡れた匂いに満ちていた。


葉先には水の粒が重く垂れ、地面はいつもより濃い色をしている。

草のあいだからは、水を含んだ土の匂いが立ち上っていた。

鳥たちはまだ枝の奥に隠れていて、空は白く曇っている。


リリスは小さな器を手に、いつもの場所へ向かった。


雨のあとだから、水はいらないかもしれない。

それでも、手に持っていたかった。


そこへ行くためのものがほしかった。


低い花の群れを抜ける。

白い生き物が消えた草のあいだを通る。

雨に洗われた土はやわらかく、足を置くたびに少し沈んだ。


そして、リリスは足を止めた。


芽がない。


そこにあったはずの小さな双葉が、どこにもない。


土は掘り返されたようには見えなかった。

踏み荒らされてもいない。


ただ、雨に洗われて、なだらかになっている。


リリスはしばらく、その場所を見ていた。


器を持つ指が、少しずつ冷えていく。


きっと、雨で流されてしまったのね。


悲しみはあったけれど、不思議と驚きはなかった。


雨が降った。

土が濡れた。

小さな芽は、ここにはもうない。


あの芽は、そうなったのね。


リリスは膝をつき、空いた場所へ手を伸ばした。

指先が濡れた土に触れる。


冷たい。

柔らかい。


昨日までそこにあったものの痕を探すように、彼女はしばらく土を撫でた。


「リリス」


少し遠くの方から聞きなれた声がした。


顔を上げると、アダムが住まいの方から手を振っていた。

表情は明るい。少し、ほっとしたようでもあった。


「こっちだよ」


リリスがゆっくり立ち上がると、手にした器の水が、小さく揺れた。


アダムは住まいの近くへ彼女を招いた。


そこは昨日まで、作物を植えるために整えられていた場所の端だった。

雨を避ける木陰に近く、陽も入り、水路からも遠くない。


その中心に、小さな芽があった。


石で囲まれ、周りの土は丁寧にならされている。

細い枝が支えとして添えられ、雨水が溜まらないように、土が少し高く盛られていた。


あの芽だった。

 

芽は生きていた。


昨日よりわずかに傾いている。

それでも、葉はちゃんとひらいている。


アダムは安心したように笑った。


「よかった。ちゃんと根づいてるみたいだ」


リリスは言葉が出なかった。

 

「昨日の雨、強かっただろう?あの場所だと流されるかもしれないと思ったんだ。まだ小さい芽だったから」


アダムは、緊張をほどくように息を吐いた。


「君が大事にしていたみたいだったから、守りたかったんだ」


リリスはようやく、アダムを見る。


「……あなたが、ここへ移したの?」


「うん」


アダムは頷いた。


「昨日の夜、少し雨が弱くなった時に見に行ったんだ。土が崩れかけていたから、このままじゃ危ないと思って。ここなら水もやりやすいし、踏まれにくい。君も毎日見に来やすいだろう?」


彼は本気で、いいことをしたと思っている顔だった。


「ほら、周りに石も置いたんだ。あの白く長い生き物が来ても、踏まないように」


周りの石を見れば、きれいに並べられている。

ひとつひとつ、丁寧に選んだのだろう。


支えの枝も、土の高さも、水の逃げ道も。

全部、よく考えられていた。


「……リリス?」


アダムが少し不安そうに顔を覗き込む。


「どうしたの?」


リリスは小さく息を吸った。


「私はっ……あそこで見たかったの」


リリスの声が、少しだけ遅れて出てきたことに、アダムは瞬いた。


「でも、あそこじゃ危なかったよ」


「……ええ」


「こっちの方がいい場所だ。ちゃんと育つよ。君が大事にしているものだし、無事に育った方がいいだろう?」


リリスは芽を見る。

芽は小さいままだった。

雨に打たれたあとでも、生きている。


「……育つかどうかを、先に決めたかったわけじゃないの」


アダムは困った顔をした。


「どういうこと?」


リリスは唇を結ぶ。

どう言えばいいのか、分からない。


あの場所で、あのまま見たかった。

雨に濡れてどうなったのかも、そこで知りたかった。

流されたなら流されたで、それを受け取るつもりだった。


でも、そのどれも、もう見ることはできない。


「私は、あそこがよかったの」


同じ言葉しか出てこなかった。

アダムは焦ったように眉を下げる。


「リリス、分かってほしい。君のためにしたんだ。あのままだったら枯れていたかもしれない。流されたかもしれない。それでもよかったの?」


リリスは答えられなかった。


よかったわけじゃない、枯れてほしかったわけでもない。

ましてや、流されてほしかったわけでもない


けれど、枯れなかった、駄目にならなかったことを用意されてしまった。

失くしたこの芽の未来は戻らない。


「分からないわ」


リリスは言った。


「でも、私は見たかったの」


アダムは黙った。


それから、一歩だけ近づく。


「じゃあ、次からは聞くよ。ちゃんと聞く。勝手に動かさない。だから、そんな顔をしないで」


そんな顔。


リリスは自分の顔に触れそうになった。

けれど手は上がらない。


アダムの表情に、焦りが滲む。


「僕は前より気をつけているつもりなんだ。君が怖がらないように、近づく前に声をかけている。触れないようにもしている。君が大事にしているものも、大事にしようとしている」


言葉は少しずつ早くなっていった。


「なのに、どうしてまたそんなふうに遠くなるの?僕は、何を間違えたの?」


リリスは一歩、後ろへ下がった。


その動きが、アダムの瞳に映る。

彼の顔が、はっきりと歪んだ。


「逃げないで、リリス!」


アダムの手が伸びる。


リリスはさらに後ずさろうとした。

だが、その前に、アダムが腕を取り、強く引き寄せられた。


一瞬なにが起こったのかわからなかった。

少しの衝撃、腰に、背に感じる知らない体温。


――抱きしめられる。


自分とアダムの胸と胸のあいだに、ほとんど隙間がなくなる。

アダムの腕が背に回り、逃がさないように、離したくないように強くなる。


息が止まった。


「リリス、お願いだ!逃げないで!僕を怖がらないで……!」


アダムの声は震えていた。


「僕は君を傷つけたいわけじゃない!ただ、ちゃんと元に戻りたいんだ!伴侶として、君と愛し合えるはずなんだ!!」


――愛し合う。


その言葉が、耳の奥で硬く響いた。


リリスの身体が強ばる。

肩がすくみ、喉が細くなる。

背にある腕の重さだけが、急に大きくなった。


「やめて……っ」


声は小さかった。


アダムには届かなかったのかもしれない。

彼はさらに言葉を続けようとした。


「リリス、僕は――」


「やめてっ!!」


今度は、はっきり叫ぶことができた。

その瞬間、アダムの腕が止まる。


「離して!!」


彼女の声は、庭の水音を切った。


アダムが驚いて腕を緩める。

リリスはそこから身を引き、数歩離れた。


息が荒い。


自分の声に、自分で驚いていた。

けれど、もう止まらなかった。


「私は、あそこに芽を置いておきたかったの!あなたのためじゃない!私のためだったの!」


アダムは驚いた表情のまま、何も言えない。


「それなのに……どうして?」


声が揺れた。


「戻る?愛し合う?……わからない!」


リリスは胸元を押さえる。


「私、もう、わからない!」


その場に、風が通った。


雨上がりの葉が揺れ、どこかで水が落ちる音がした。

さっきまで守られているように見えた芽は、石の囲いの中で小さく揺れている。


その時、羽音が近づいてきて、ミカエルとガブリエルが二人の前に降り立った。


二人は、離れて立つリリスと呆然としたアダムを見て、すぐに何かがあったのだと察した。


ミカエルが最初に状況を確認するために口を開いた。


「何があった」


その声には責めがない。

ただ、状況を正しく捉えようとする響きだった。


アダムは一度、リリスを見る。

それから、苦しそうに言った。


「僕は……彼女が大事にしていた芽を守ろうとしたんだ。昨日の雨で流されるかもしれないと思って、ここへ移した。でも、リリスは……」


言葉がそこで止まる。


ミカエルは芽の周りを見た。

石の囲い。支えの枝。水はけのよい土。


「彼女を困らせるために移したのか」


「違う!」


アダムは即座に答えた。


「そんなつもりなかった!大事にしたかったんだ!リリスが大事にしているなら、僕も大事にしたいと思った、それだけだよ!」


ミカエルは短く頷いた。


「意図は悪くない」


その言葉に、リリスの指先がかすかに震えた。


意図は悪くない。


知っている。

それは知っている。


アダムは意地悪ではない。

傷つけようとしたわけではない。

壊そうとしたわけでもない。


だからこそ、この行き場のない気持ちをどこへ持っていけばいいのか分からなくなる。


ガブリエルが一歩、リリスへ近づいた。


「リリス」


リリスは顔を上げる。


ガブリエルの表情は真剣だった。

先ほどのミカエルよりも、彼女自身を見ようとしているように見えた。


「君は、場所を変えられたことが嫌だったのか」


リリスは少し遅れて頷いた。


「……ええ」


「なら、次からは先に相談するよう、アダムに伝えよう。二人で決めればいい。伴侶なのだから、互いに言葉を足していけばいい。いわなければ伝わらないこともある」


それは、正しかった。

アダムも、少しだけ顔を上げる。


「そうする。次からは、ちゃんと聞く」


ミカエルも頷いた。


「それがいい。アダム、君は彼女の大切なものに触れる時、先に言葉をかけるべきだった。リリス。アダムも君を軽んじる意図はなかった。今後は互いに言葉を交え、伝え合えばいい」


どこにも乱暴な言葉はない。

誰もリリスを責めていない。

皆が、場を正しい形へ戻そうとしていた。


リリスは口を開いたが、声が出なかった。


ガブリエルの言葉は、きれいに形を持っていた。

その形の中に、自分の立つ場所だけがなかった。


ガブリエルの瞳が、わずかに揺れた。


リリスの顔を見て、驚いたようだった。

今にも泣き出しそうな表情だと気づいたのかもしれない。

まだ何かが残っていると、思ったのかもしれない。


「リリス……?」


ガブリエルが名を呼ぶ。


名を呼ばれて、リリスはほんの一瞬だけ期待した。

ガブリエルならわかってくれるかもしれない、届くかもしれない…そう思った。


けれど、ガブリエルは次の言葉を探し、結局、先ほどの形へ戻っていく。


「ゆっくりでいい。だが、言葉にしなければ、アダムにも伝わらない。君たちは始まりの二人だ。互いに知っていく時間が必要なのだと思う」


始まりの二人。

互いに知っていく時間。


リリスの中で、何かが静かに閉じた。


――ああ、やっぱり……。


口には出さなかった。

ただ、頷いた。


「……わかったわ」


その声は、驚くほど薄かった。


ガブリエルは、少しだけ表情を曇らせる。

納得した声ではないと、分かったのかもしれない。

けれど、それ以上は追わなかった。


ミカエルは、場が落ち着いたと判断したようだった。


「今日は少し休むといい。アダム、リリスを急かすな。リリスも、困ったことがあれば言葉にするように」


アダムは頷いた。


「分かった」


リリスも、もう一度だけ頷いた。


それで、話は終わった。

終わったことになった。



 ――

 


夕方まで、庭は雨上がりの匂いを残していた。


アダムは何度かリリスに声をかけようとしたが、そのたびに少し離れたところで止まった。


ミカエルとガブリエルは、しばらく二人の様子と庭を見回ったあと、持ち場へ戻っていった。

ガブリエルは一度だけ振り返ったが、その視線にリリスは気づかないふりをした。


リリスは、その日ほとんど話さなかった。



――

 


夜になり、アダムが眠ったあと、リリスはひとり外へ出た。


雨のあとの夜は、空気が冷えている。

草の先に残った水の粒が、月のない光をかすかに返していた。


移された芽の前に立った。


石の囲いの中で、芽はちゃんと生きている。

小さな葉は閉じておらず、茎も折れていない。

土はほどよく湿っていて、水をやる必要はなさそうだった。


アダムは丁寧に移したのだろう。

本当に、大事に扱ったのだろう。

それは分かる。

分かるから、苦しかった。


リリスは手にした器を見た。


中には、朝から残ったままの水が入っている。


あの場所に行くために持っていた水。

雨でどうなったのかを見届けるために、持っていた水。


もう、どこへ注げばいいのか分からない。


芽はちゃんと生きていた。


 

それが、少しも救いにならなかった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


この物語の続きを、また夜のどこかで見届けていただけたら嬉しいです。

ブックマークや評価も、とても励みになります。

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