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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第24話「白の外」

共有文は最後まで整わなかった。


記録室の机には、白い紙が二枚置かれている。


一枚は、神から渡された本文の控え。

もう一枚は、ルシフェルが天界へ回すために書きはじめた共有文。


人の庭についての見届けは、引き続き継続される。


書けたのは、それだけだった。


その下は白いまま残っている。


続くべき文は分かっていた。

何をどう書けばよいのかも、分かっていた。


ミカエルとガブリエルは地上における管理と観測を続ける。

ラファエルは必要に応じて補助を行う。

ウリエルは記録の照合を進める。

各々、与えられた務めを継続し、過剰な介入を避け、混乱を生じさせないこと。


書けばいい。


そうすれば、天界は動ける。

若い天使たちは迷わず、持ち場へ戻る。

ミカエルは前に立ち、ガブリエルは段取りを組み、ラファエルは備え、ウリエルは記録を整える。


昨日の茶室にいた四人が、それぞれの場所へ戻っていく。


兄上。

兄さま。

兄さん。

兄様。


その声が、紙の白に落ちていく気がして、ルシフェルは筆を置いた。

しばらく、そのまま動けなかった。


 

 

 

やがて、ルシフェルは神から渡された本文の控えと、書きかけの共有文を持って立ち上がった。


記録室を出ると、白い回廊が続いていた。


柱は等間隔に並び、光は過不足なく敷かれている。

遠くで天使たちが行き交う音がする。

どの足音も、どの羽音も、決められた場所へ向かっているように聞こえていた。


ルシフェルは歩いた。


最も高い棟へ。

神のいる部屋へ。


扉の前に立つと、まだ手をかける前に、中から声がした。


「入るといい」


いつもの声だった。


驚きも、急かしも、咎めもない。

そこに来ることを、すでに読んでいたような声。


ルシフェルは扉を開ける。


神の部屋は、今日も余分なものがなかった。


白い石の床、高い窓。

整いすぎた机と書棚。


そこには、暮らしの匂いがない。

置かれたものはすべて、そこにあるべきだから置かれているように見える。


いつものように窓辺に、神が立っていた。


白に近い金の髪が、静かに肩へ流れ、片側に編まれた三つ編みが、胸元を越えて落ちていた。


振り向かないまま、神は言った。


「共有文は、まだ整っていないようだね」


ルシフェルは、手元の紙を見下ろした。


「……うん」


「不備があったかな」


「ないよ」


「本文が足りなかったかな」


「足りているよ」


神はそこで、ゆっくり振り向いた。

白に近い灰の瞳が、ルシフェルを見る。

見つめているようで、見つめていない目だった。


「なら、君の中で止まっているのだね」


その言葉は、責めるような意図はなかった。

ただ、机の上に物を置くように、ただそこへ置かれるような言葉。


ルシフェルは、小さく息を吸った。


「父上」


「なんだい?」


「俺の言葉があれば、皆は迷わずに済む」


神は答えず、続きを待っている。


「ミカエルも、ガブリエルも、ラファエルも、ウリエルも。俺が本文を整えて渡せば、それぞれの場所へ戻れる。何をすべきか分かる。天界も乱れない」


「その通りだ」


「それは、いつも良いことなのかな……」


神は、ほんの少しだけ首を傾けた。


その仕草には、感情の揺れがない。

知らない問いに驚いたのではなく、問いがどこに置かれたのかを見ているだけだった。


「迷いは、不要な摩擦を生むことがある」


神は言う。


「天使たちが自らの務めを果たすためには、読むべき形が必要だ。何を守り、何を待ち、何に触れずにいるべきか。それが明らかであれば、天界は滞りなく巡る」


正しい。


ルシフェルはそう思った。

神の言葉は、いつだって余計な重さを持たない。


「では、俺が渡す言葉は、彼らのためのものなのかい?」


ルシフェルは静かに問う。


「それとも、彼らをそれぞれの場所へ戻すためのものなのかい?」


神はすぐに答えた。


「どちらでもある」


あまりにも、迷いのない返答だった。

ルシフェルの指が、紙の端に触れる。


どちらでもある。


大天使である兄妹達のため、たくさんの天使達のため。

そして、彼らをそれぞれの場所へ戻すため。


どちらも、同じ紙の上に置ける。


「それは、分けられないのかな」


「分けることもできる」


神は言う。


「だが、彼らがそれぞれの務めに戻ることは、彼ら自身のためでもある。天使は自らの光を、その役目の中で澄ませる。役目を離れれば、迷いは深くなる」


ルシフェルは、伏せた目の奥で、昨日の茶室を思い出した。


焼き菓子を前に赤くなったガブリエル。

悔し涙をからかわれて反論したミカエル。

痛みに呑まれないことを覚えたラファエル。

言葉の渡し方を学び続けているウリエル。


彼らは、役目の中だけにいたわけではない。

けれど、役目から完全に離れた彼らを、ルシフェルはまだ知らなかった。


いや。

知らないのではない。

考えたことがなかった。


「父上」


「なにかな」


「なら、俺は?」


部屋の空気は変わらなかった。

けれど、ルシフェル自身の声だけが、少し遠く聞こえた。


「俺は、読むためにここに置かれているのかい?」


神は静かにルシフェルを見る。


「君は、私の本文を最も正しく読む者として置かれた」


その答えは、あまりにもまっすぐだった。


「だから君は、誰よりも遠くまで読める。言葉の表面だけでなく、まだ明らかでない揺れや、書かれなかった余白にも目が届く」


褒めているようにも聞こえた。

信頼しているようにも。


だが、その言葉はルシフェルの胸に、薄い輪のようにふりかかった。


「君が読むことで、天界は迷いを減らすことができる。私の言葉は、君を通ることで多くの者に届く形になる」


「それが、俺の役目」


「そうだよ」


静かな肯定だった。


怒りもない。

強制もない。

ただ、書かれていることを読み上げるような声。


ルシフェルは、自分の手元を見る。


紙が二枚ある。

神から渡された本文の控え。

自分が書きかけた共有文。


その間に、自分がいる。


神の言葉を読み、天使たちへ渡す。

父の本文と、天界のあいだに立つ者。


それが、ルシフェル。

ずっとそうだった。


「その本文の外に」


ルシフェルは、ゆっくりと言った。


「俺はいるのかな……」


神は答えるまでに、ほんのわずかな間を置いた。


迷いではない。

ただ、その問いを置くための棚を選ぶような間だった。


「今は、まだ本文の内側にいるよ」


ルシフェルは顔を上げた。


「今は…?」


「そう。君はまだ、ここにいるからね」


その声は、少しも冷たくなかった。

だからこそ、ルシフェルは言葉を失った。


神は続ける。


「君が私の言葉を読み、天界へ渡し、自らの務めを果たしている限り、君は本文の内にいる」


「では」


ルシフェルの声は、かすかに低くなる。


「……俺が迷うことも?」


「内にある」


神は即座に答えた。


「俺が……渡せなくなっていることも?」


「それも」


「俺が、ここに立って、父上へ問うていることも?」


「もちろん」


神は穏やかだった。


「迷いながら読む者として、君はまだ機能している」


その一言は、白い部屋の中に、音もなく落ちた。


大きな声ではなかった。

叱責でもない。

責められたわけでもない。


けれど、ルシフェルの胸の奥で、何かが冷えた。


機能している。


迷いながら読む者として。


その言葉は、あまりにも正確だった。

ルシフェルは、手の中の紙を見た。

神の本文と、自分の書きかけの文。


どちらの紙にも、まだ余白があった。

けれど、その余白さえ、すでに置き場を持っているように見えた。


ルシフェルは、しばらく何も言えなかった。


神は窓の外を見る。


「君が共有文をすぐに渡せないことも、現時点では大きな乱れではない」


「……大きな乱れ、じゃない」


「そうだ。君は止まっているのではない。慎重に読んでいる。必要なら待てばいい。君が言葉を整えた時、天使たちはそれを受け取り、また動くだろう」


「それで、天界は巡る」


「そうだ」


「そして俺も」


ルシフェルは言った。


「また、自分の場所へ戻る」


神はルシフェルを見た。


「君がそう選ぶなら」


選ぶ。


その言葉は、不思議なくらい静かだった。

ルシフェルは、その語が床に落ちる前に、手の中の紙を握り直した。


「父上」


「なんだい」


「もし、俺が自分の場所へ戻らなかったら」


神は表情を変えなかった。


「その時は、そのように記される」


あまりにも、自然な答えだった。


ルシフェルは目を伏せる。

怒ることはできなかった。

責めることもできなかった。


神は、自分を閉じ込めようとしているわけではない。

戻れと命じているわけでもない。

迷うなと叱っているわけでもない。


ただ、どちらでも書ける、と。


そのことが、何より遠かった。


「……そうだね」


ルシフェルは答えた。


声は整っていた。

少なくとも、神へ届く形では。


神は頷かなかった。

ただ、ルシフェルの手元にある二枚の紙を見る。


「共有文は、急がなくていい」


「いいのかい?」


「君が読んでいる途中なら、待とう」


待つ。


その言葉すら、神の口から出ると、優しさではなく保留のように聞こえた。


「君はよく読む」


神は言う。


「今もね」


ルシフェルは、その言葉に返事をしなかった。


やがて、胸に手を添え、軽く頭を下げる。


「……失礼するよ、父上」


「ああ」


神はそれ以上、何も言わなかった。


部屋を出ると、白い回廊が続いていた。


扉が背後で静かに閉まる。

音は小さかった。けれど、やけに遠くまで響いたように感じた。


ルシフェルは、手元の紙を見た。


神から渡された本文の控え。

自分が書きかけた共有文。


どちらも白い。

どちらにも、黒い文字が少しだけある。


人の庭についての見届けは、引き続き継続される。


その下の空白が、ひどく広く見えた。


迷いながら読む者として、君はまだ機能している。


神の言葉は、まだ耳の奥に残っていた。


ルシフェルは、ゆっくりと歩き出す。


回廊の窓の外には、天界の庭が見える。

白い花々は咲くべき場所に咲き、風は枝を乱さずに通り過ぎる。天使たちはそれぞれの務めへ向かい、光はどこまでも過不足なく注いでいた。


ここは、どこまでも白い。


神の本文の内側にある場所。

迷いさえも、いつか置くことのできる場所。


ルシフェルは足を止める。


窓の外、白い庭の向こうを見た。


何もないように見える。

ただ光が続いているだけに見える。

白は、どこまでも続いているように見えた。


その外は?という言葉が、ふいに浮かんだ。


だが、ルシフェルはそれを声にしなかった。


 ただ、書きかけの紙を持つ指先に、ほんの少しだけ力が入った。

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