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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第23話「渡せない言葉」

 記録室に、昨日の笑い声は残っていなかった。


 高い棚には白い背表紙が並び、薄い光だけが机の端を冷たく照らしている。

 紙の匂いと、インクのかすかな香り。

 窓の外では天界の庭が今日も乱れなく巡っていたが、この部屋の中にあるものは、どれも声を持たない。


 ルシフェルは机の前に座り、神から渡された本文の控えを開いていた。


 紙面は、いつも通り整っている。


 余分な言葉はない。

 乱れもない。

 必要なことだけが、必要な順に置かれていた。


 人の庭についての見届けは継続される。

 ミカエルとガブリエルは、地上における管理と観測を続ける。

 ラファエルは、必要に応じて天界側より補助を行う。

 ウリエルは、記録の照合と共有文の整備を助ける。

 ルシフェルは引き続き、本文の意図を天使たちへ共有し、混乱を避けること。


 そこで、ルシフェルの視線が止まった。


 ミカエル。

 ガブリエル。

 ラファエル。

 ウリエル。


 昨日、茶室にいた四人の名だった。


 焼き菓子を手に取りながら、昔の話に顔を赤くしていたミカエル。

 意地を張りながらも、声の端をやわらげていたガブリエル。

 笑いながら、場の角をほどいていたラファエル。

 淡々と事実を置きながら、誰より細かく覚えていたウリエル。


 その四人の名が、今は紙の上に並んでいる。


 正しい位置に。

 乱れなく。

 それぞれの務めとして。


 ルシフェルは、ゆっくりと息を吸った。


 何も間違っていない。


 ミカエルとガブリエルが地上を見届けることも。

 ラファエルが必要な時に補助を行うことも。

 ウリエルが記録を整えることも。

 自分が本文の意図を天使たちへ渡すことも。


 天界が滞りなく巡るために、それは必要なことだった。


 そうしてきた。

 ずっと。


 ルシフェルは本文を読み、そこにある意図をほどき、天使たちが迷わず動ける形へ整えてきた。

 その言葉があることで、天使たちは持ち場へ戻り、ミカエルは前へ立ち、ガブリエルは段取りを組み、ラファエルは必要な場所へ向かい、ウリエルは記録を保った。


 それは美しいことのはずだった。


 けれど、昨日の声がまだ耳に残っている。


 兄上がいてくださるなら、大丈夫だと思えます。

 兄さまがいてくださると、天界は落ち着く。

 兄さんの言葉を聞くと、皆、息がしやすくなるんだと思う。

 兄様の言葉は、父上の意図を乱さず、私たちにも届く形にしてくれます。


 どれも、飾るための言葉ではなかった。


 あの子たちは、自分を慕っている、信じてくれている。

 長い時間を共に過ごした兄として、そして天界を導く者として。


 だからこそ、紙の上に並んだ名前が、少しだけ遠く見えた。


 ルシフェルは机の上に新しい紙を置いた。

 天界へ回す共有文を書くための白紙だった。


 筆を取る。


 書くべきことは分かっている。


 人の庭についての見届けは、引き続き定められた天使たちによって行われる。

 地上の管理と観測は、ミカエルとガブリエルを中心に継続する。

 ラファエルは必要に応じて補助を行い、ウリエルは記録の照合を進める。

 各々、与えられた務めを継続し、過剰な介入を避け、混乱を生じさせないこと。


 書ける。


 あまりにも簡単に。


 ルシフェルの筆先は、白紙の上で止まった。


 書けば、皆は迷わない。


 ミカエルは、また背筋を伸ばして頷くだろう。

 ガブリエルはすぐに次の段取りを考えるだろう。

 ラファエルは穏やかに笑い、必要な時に動けるよう備えるだろう。

 ウリエルはその文を読み、正確に記録へ落とすだろう。


 そして天界は、今日も乱れず巡る。


 その光景が、ありありと見えた。


 見えてしまった。


 ルシフェルは筆を置いた。


 書けないのではない。


 むしろ、書けすぎる。


 そのことが怖かった。


 自分の言葉を通れば、父上の本文は天使たちに届く。

 短く、分かりやすく、迷わない形になる。

 そしてその瞬間、昨日茶室にいた四人は、またそれぞれの場所へ戻っていく。


 兄上、と呼んだ声も。

 兄さん、と少しだけ柔らかくなった目元も。

 兄さま、と笑った声も。

 兄様、と丁寧に置かれた言葉も。


 すべて、正しい位置へ戻っていく。


 それは悪いことではない。


 悪いことでは、ないはずだった。


 扉の向こうで、小さな気配がした。


「兄様」


 ウリエルの声だった。


「入っていいよ」


 扉が開く。


 ウリエルはいつも通り、余計な音を立てずに入ってきた。

 手には記録用の薄い束を抱えている。昨日の茶室で見せた幼さの残りは、もうほとんどない。


 そこにいるのは、記録を扱う大天使ウリエルだった。


「共有文の確認に来ました」


「うん」


 ルシフェルは白紙の上に置かれた筆を見る。


「まだ仕上がっていないんだ」


 ウリエルの視線が、わずかに動いた。


 驚きというほど大きなものではない。

 ただ、予想していた位置に物がなかった時のような、小さな間だった。


「兄様が、まだ?」


「珍しいかな」


「珍しいです」


 ウリエルは即答した。


「兄様は、父上の本文を受け取ったあと、必要な共有文へ整えるのが速い。内容が複雑な時ほど、むしろ速い傾向があります」


「よく見ているね」


「記録していますから」


「そうだった」


 ルシフェルは少し笑った。


 ウリエルは机の上の白紙を見た。

 そこには、まだ一文字も置かれていない。


「本文に不備がありましたか」


「ないよ」


「では、判断に迷う箇所が?」


「それも、ない」


 ウリエルは黙った。


 不備がない。

 迷いもない。

 それなら、なぜ文がないのか。


 その問いが彼の中に生まれたことは、顔を見れば分かった。

 だが、ウリエルはすぐには聞かなかった。


「兄様が待つと判断されたなら、待ちます」


 その言葉は、疑いではなく信頼だった。


 ルシフェルは、かえって答えに詰まった。


「……ありがとう」


「確認は、少し後に改めます」


 ウリエルは短く頭を下げた。

 それから扉へ向かいかけて、足を止める。


「兄様」


「なんだい」


「昨日の茶は、おいしかったです」


 思いがけない言葉だった。


 ルシフェルが目を瞬くと、ウリエルは少しだけ視線を逸らした。


「焼き菓子も」


「……そうか」


「はい」


「それは、よかった」


 ウリエルはそれだけ言うと、今度こそ部屋を出ていった。


 扉がゆっくりと閉まる。


 記録室には、また紙の匂いだけが残った。


 ルシフェルはしばらく、閉じた扉を見ていた。


 昨日のウリエルは、昔の話に少しだけ口元を緩めていた。

 今のウリエルは、兄様が待つなら待つと言った。


 どちらも同じウリエルだった。


 小さい頃、正しいことを言いすぎて相手を傷つけてしまった子。

 今もなお、言葉の置き方を考え続けている大天使。


 その名が、本文の中では役目として並んでいる。


 ウリエルは、記録の照合と共有文の整備を助ける。


 間違っていない。

 間違っていないのに……。


 ルシフェルはもう一度、白紙へ向き直り、また筆を取る。


 今度は、一行だけ書いた。


 人の庭についての見届けは、引き続き継続される。


 インクが、白い紙に黒く沈む。


 そこまでは書けた。


 次の行。


 ミカエルとガブリエルは、地上における管理と観測を続ける。


 筆先が止まる。


 ミカエル。

 ガブリエル。


 昨日の声が、また戻ってくる。


 兄上。

 兄さん。


 ルシフェルは目を閉じる。


 その名を書くことが嫌なのではない。

 彼らが務めを果たすことを否定したいわけでもない。


 ただ、自分がその名をここに置くことで、二人がまた迷わずその場所へ戻る。

 そのことだけが、指先を止めていた。


 書かなければ、次の動きは止まる。


 そのことも、ルシフェルには分かっていた。


 分かっているからこそ、筆先は白紙の上で動かなかった。


 自分の言葉は、そのためにある。


 それが、ルシフェルだった。


 神の意図を正しく読み、天へ渡す者。

 皆が迷わないように、短い言葉をほどく者。

 父上の本文を、天使たちにも届く形へ整える者。


 そう呼ばれてきた。

 そう在ってきた。


 ルシフェルは、静かに息を吐く。


 迷わずに済むことは、いつもよいことなのだろうか。


 昨日、胸に残った問いが、まだそこにあった。

 迷わずに進める道を、彼は何度も書いてきた。

 その道の先を、今さら見失ったわけではない。

 ただ、そこへ戻る足音だけが、昨日より少しはっきり聞こえた。


 ルシフェルは目を開けた。


 白紙の上には、一行だけがある。


 人の庭についての見届けは、引き続き継続される。


 その下は、白いままだった。


 正しく書くことはできる。

 必要な形へ整えることもできる。

 誰が読んでも分かるように、迷いのない言葉へ変えることもできる。


 だからこそ、いまは渡せなかった。


 机の端には、神から渡された本文の控えがある。

 その文字は、相変わらず正しい。


 ルシフェルはそれを見下ろす。


 父上の本文を疑っているのではない。

 四人の務めを否定したいのでもない。

 天界を乱したいのでもない。


 ただ、自分の言葉が、愛しい者たちをもう一度、迷わない場所へ戻してしまう。


 そのことだけが、胸の奥に残っていた。


 日が暮れることのない天界で、光は相変わらず白かった。

 記録室の紙も、机も、棚も、すべてがいつも通り整っている。


 ルシフェルは筆を持ったまま、長く動かなかった。

 正しく渡せる言葉ほど、いまは渡せなかった。

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