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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第22話「兄と呼ぶ声」

 ミカエルとガブリエルが天界へ戻ったのは、白い光が少しやわらいだ頃だった。


 エデンから戻ったばかりの二人は、式服の乱れこそなかったものの、地上の気配をかすかにまとっていた。

 土の匂い、水の湿り気。

 天界の風とは違う、重さのある空気。


 それは、ほんのわずかなものだった。

 けれど、天の白い回廊の中ではよく分かった。


 ミカエルはいつも通り背筋を伸ばし、深い青の差し色は曇らず、歩幅も乱れていない。

 ただ、肩の奥にまだ解けきらない力が残っている。


 ガブリエルも同じだった。

 橙の差し色を揺らしながら、報告に必要な紙束を抱えている。

 視線はまっすぐで、足取りも速い。けれど、まだ目元に力が残っている。


 二人が神の部屋へ向かう回廊の手前で、声がした。


「おかえり、ミカエル、ガブリエル」


 二人は同時に足を止めた。


 白い柱のそばに、ルシフェルが立っていた。

 銀の髪が肩先に流れ、白に紫を差した式服が、回廊に差し込む光に自然と馴染んでいる。

 手には本も紙もない。

 ただ、二人を迎えるためにそこにいたように見えた。


 ミカエルの顔が、一瞬だけゆるむ。


「兄上」


 その声は、報告に向かう大天使のものではなかった。

 ほんの少しだけ、昔に戻った声だった。


 ガブリエルもすぐに姿勢を正した。


「兄さま。ただいま戻りました」


「無事でよかった」


 ルシフェルはそう言って、二人を順に見る。


「二人とも、よく務めているようだね。父上の本文で読んでいるよ」


 その言葉に、ミカエルはかすかに胸を張った。


「当然です。兄上に任された以上、務めは果たします」


「父上から任されたんだよ、ミカエル」


「それでも、兄上が私たちへお伝えになりましたから」


 迷いのない返答だった。


 ルシフェルは少しだけ困ったように笑う。


「君は昔から、そういうところ、変わらないね」


「変わっていないでしょうか」


「うん。いい意味で」


 ミカエルはその言葉を真面目に受け止めたらしい。

 少しだけ、誇らしげに頷いた。


 ガブリエルはその横で、ルシフェルをじっと見ていた。


「兄さまは、ここで待っていてくださったのか?」


「うん。ちょうどお茶を淹れようと思っていたところなんだ」


「それは偶然か?」


「さて、どうだろうね」


 ルシフェルがとぼけた様に笑うと、ガブリエルは目を細めた。


「偶然ではないな」


「そう思うかい?」


「兄さまは、そういう時ほど偶然の顔をする」


 その返しに、ルシフェルは楽しそうに笑った。


「なら、見破られてしまったね」


「見破るも何も、昔からだ」


 そう言ったガブリエルの声は、少しだけやわらかかった。


「報告の前に、休んでいくといい。ラファエルとウリエルも呼んである」


 ミカエルが目を瞬く。


「ラファエルとウリエルも?」


「せっかくだからね。皆で顔を合わせる機会は、近頃あまりなかっただろう?」


 ガブリエルは一瞬、何か言いかけた。

 報告が先だ、と言おうとしたのかもしれない。


 だが、ルシフェルがあまりにも穏やかに見ていたので、結局言葉を飲み込んだ。


「少しだけなら」


「うん。少しだけ」


 そう言うルシフェルの声は、昔から変わらない。

 急かさず、押さず、けれど気づけばそこへ向かってしまう声だった。


 白い花の咲く庭に面した小さな茶室には、すでにラファエルとウリエルがいた。

 ラファエルは窓辺で庭を眺めていたが、ミカエルとガブリエルを見るなり、顔を明るくする。


「おかえり、二人とも!」


「ただいま、ラファエル」


 ミカエルが頷く。


 ウリエルは椅子に座ったまま、手元の薄い紙を閉じた。


「予定より少し早かったですね」


「エデン側の見届けが一段落した。必要な報告もまとまっている」


 ガブリエルが答える。


「なら、休んでからでいいね」


 ラファエルが言うと、ウリエルはちらりとルシフェルを見た。


「兄様がそう判断されたのでしょう」


「俺はただ、お茶を淹れただけだよ」


「兄様が淹れたなら、休めという意味です」


「ウリエルは本当に、昔から言い切るね」


「事実です」


 その声に、ラファエルが小さく笑った。


 ミカエルとガブリエルも席につく。

 ルシフェルは慣れた手つきで茶を注いだ。カップの中で淡い琥珀色が揺れ、薄く湯気が立つ。

 皿には、小さな焼き菓子が並んでいた。

 形は揃いすぎず、少しだけ不格好なものも混ざっている。

 けれど、焼き色はやわらかく、甘い香りがした。


 ラファエルが目を細める。


「兄さんの焼き菓子、久しぶりだね」


「最近はあまり作れていなかったからね」


「ベルゼブブは食べたのですか」


 ウリエルが唐突に言った。


 ルシフェルは一瞬だけ瞬く。

 それから笑った。


「どうしてそこでベルが出るんだい?」


「兄様が作ると、まず彼に勧める傾向があります」


「押しつけてはいないよ。勧めているだけだ」


「実質的には同じです」


「ウリエル」


 ガブリエルがたしなめる。

 だが、口元は少し緩んでいた。


 ミカエルが焼き菓子を一つ取る。


「兄上の作るものは、昔から変わりませんね」


「そうかな」


「はい。形は昔より整っていますが、味は近い気がします」


 その言葉に、ガブリエルの手がぴたりと止まった。


 ラファエルがすかさず笑う。


「ガブリエル、思い出してるの?」


「……何をだ」


「小さい頃、ご飯を全然食べなかったこと」


 ガブリエルの眉がわずかに上がった。


「ラファエルッ!」


「だって本当のことだよ」


「兄さま、その話はもういい!」


 ルシフェルはカップを置きながら、目を細める。


「懐かしいね。あの時のガブリエルは、本当に頑固だった」


「兄さままで!」


「これいや、食べたくない、おいしくない、だったかな」


 ルシフェルがあまりに正確に真似るものだから、ミカエルが思わず咳き込んだ。

 ラファエルは声を立てて笑い、ウリエルも口元に手を添える。

 ガブリエルは顔を赤くした。


「それは覚えていなくていいことだ!」


「片時も忘れたことはないよ」


 その言葉に、茶室の空気が少しだけ変わった。

 からかう響きではなかった。

 穏やかで、深くて、当然のような声だった。


 ルシフェルは続ける。


「あの頃、世話をしてくれていた天使たちがずいぶん困っていてね。どうしたものかと思って、俺が作ってみることにしたんだ」


 ラファエルが頷く。


「それでガブリエルが食べたんだよね」


「兄さんの作った料理なら食べる、と」


 ウリエルが付け足す。


「ウリエル!!」


 今度はガブリエルの声が少し強くなる。


「事実です」


 声をたててラファエルが笑った。

 ミカエルは真面目な顔で焼き菓子を見つめていた。


「私は、あの時とても羨ましかった」


 全員の視線がミカエルへ向く。

 彼は少しだけ気まずそうにする。


「ガブリエルだけが、兄上に料理を作っていただいていたので」


「ミカエルは我慢していたね、欲しいなら欲しいと言えばよかったのに」


 ルシフェルがなんでもない事の様に言う。


「私は四人の中では兄ですから」


「君も小さかったよ」


「それでも、ガブリエルよりは兄でした」


 ガブリエルが横目で見る。


「そういうところは、昔からだな」


「何がだ」


「すぐ我慢する」


「お前もすぐ意地を張る」


「兄さん、ミカエルが今」


「二人とも、昔に戻らなくてもいいよ」


 ルシフェルがそう言うと、ラファエルが楽しそうに笑った。


「兄さまがみんなの分も作ってくれるって言った時、僕、すごく嬉しかったな」


「ラファエルは素直に、ぼくも食べたいと言ったね」


「うん。だって本当に食べたかったから」


 ウリエルは少し視線を落とす。


「私は、それに続きました」


「素直に、ぼくも、と言っていたね」


 ルシフェルの声には、ひとつひとつ棚から取り出すような響きがあった。


「そうしたら、四人ともキッチンに集まってしまって。作るより、小さい君たちを火に近づけないようにする方が大変だった」


「ミカエルが鍋を持とうとしていましたよね」


 ウリエルが言う。


「手伝おうとしただけだ」


「熱い鍋でした」


「だから兄上が止めてくださった」


「兄様が止めなければ、火傷していました」


「なっ、私はそこまで不注意ではない」


「小さい頃のミカエルは、かなり前に出るタイプでした」


「ウリエル!」


「事実です」


 ラファエルがまた笑う。

 ガブリエルも今度はこらえきれず、小さく吹き出した。


 その笑い声が、茶室にふわりと広がる。


 ルシフェルはそれを見ていた。


 ミカエルは背筋を正したまま、焼き菓子の欠片を皿の端へ寄せている。

 ガブリエルは目を逸らしているのに、口元だけがまだ笑っている。

 ラファエルの笑い声が、茶室の角を少しやわらげていた。

 ウリエルは何も言わず、匙の向きを直している。


 みな、大きくなった。


 けれど、あの頃のままでもあった。


 ルシフェルはカップへ視線を落とす。

 茶の表面に、窓の白い光が揺れていた。


「ミカエルが剣の稽古で泣いたこともあったね」


「兄上!その話はもういいです!私は泣いてなど…!」


 今度はミカエルが声を上げた。


「泣いていたよ」


「泣いていません!」


「悔しくて、目が赤くなっていた」


「それは、汗がっ!」


「天界の稽古場で、汗が目に入るほど動いていたなら、それはそれで心配だね」


 ラファエルが口元を押さえる。

 ガブリエルはここぞとばかりに言う。


「あの時のミカエルは泣いていたな」


「ガブリエル!!」


「私は見た」


「なぜ見ていた!」


「見える場所で泣く方が悪い」


「泣いていない!」


 ウリエルが短く言う。


「泣いていました」


「ウリエルまで……」


 ルシフェルは笑った。


「悔しかったんだろう?」


 ミカエルは、しばらく黙る。

 やがて、少しだけ視線を伏せた。


「……はい」


 その返事だけは、今のミカエルのものだった。

 大天使としての彼が、昔の自分を認める声だった。


 ルシフェルはやさしく続ける。


「あの時、君はすぐにもう一度やると言った。手が震えていたのに」


「負けたまま終わるのが嫌だったのです」


「うん。知ってる」


 ルシフェルの声は変わらない。


「だから、もう一度構えようと言った。でも、その前に手を休めることも覚えよう、とも言った」


 ミカエルはその言葉を覚えていたのだろう。

 目を伏せたまま、ゆっくり頷く。


「兄上は、悔しさを否定しませんでした」


「否定するものではないからね」


「だから、私は続けられたのだと思います」


 茶室が少し静かになる。

 ラファエルが、自分のカップに触れながら言った。


「僕は、治療の力を使う時に泣いたよ」


「ラファエルは自分から言うのか?」


 ガブリエルが驚いたように見る。


「だって、隠していても兄さんは覚えてるもの」


 ラファエルは笑う。


「小さい頃、怪我をした天使の痛みに引っ張られすぎて、僕まで動けなくなったことがあったんだ」


「覚えているよ」


 ルシフェルが頷く。


「兄さんが言ったんだ。全部引き受けなくていいって」


 ラファエルの声は、いつもより低かった。


「痛みを見捨てることと、痛みに呑まれないことは違うよ、って」


 ウリエルが静かに目を伏せる。


「その言葉は、記録に残っています」


「記録したのかい?」


 ルシフェルが少し驚く。


「必要だと思いました」


「君らしいね」


 ウリエルは、その言葉に口元をわずかに緩めた。


「私は、正しいことを言って相手を怒らせたことがありました」


「それは一度ではないだろう」


 ミカエルが言う。


「ミカエル」


「事実だ」


 ガブリエルが肩をすくめる。


「今のはミカエルが正しい」


 ウリエルは平然としている。


「では、何度かありました」


 ラファエルが笑いをこらえている。


 ルシフェルは、穏やかにウリエルを見る。


「君は正しかった。でも、相手は傷ついた」


「はい」


「だから、正しいことは刃にもなると話したね」


「覚えています」


「渡し方を覚えようか、とも」


 ウリエルはカップへ視線を落とした。


「兄様は、私の言葉を否定しませんでした」


「君は間違っていなかったからね」


「でも、そのままでは届かなかった」


「うん」


「今でも、難しいです」


「知っているよ」


 その返事に、ウリエルは少しだけ目を上げた。


「でも、君はずっと考えている」


 ルシフェルは言う。


「だから大丈夫だよ」


 ウリエルは何も言わなかった。

 けれど、カップを持つ指先がわずかに緩む。


 ガブリエルはそれを見て、少しだけ笑った。


「兄さまは本当に、全部覚えているのだな」


「言っただろう。片時も忘れたことはない」


 ルシフェルは四人を見渡した。


「君たちが初めて俺を呼んだ日のことも」


 その一言で、四人の空気が変わった。


 ミカエルが目を瞬く。

 ガブリエルはほんの少しだけ身じろぎする。

 ラファエルは懐かしそうに目を細め、ウリエルは静かに視線を落とした。


 ルシフェルの声が、少しだけ遠いものを見るようになる。


「父上が君たちを俺の前へ連れてきた。四人ともまだ小さくて、羽も今よりずっと頼りなかった」


「兄上」


 ミカエルが小さく言う。


「君は真っ先に聞いたね」


 ルシフェルはミカエルを見る。


「ルシフェル様のことは、なんと呼べばいいのでしょうか、って」


 ミカエルの顔が少し赤くなる。


「……言いました」


「とても大きな声だった」


「申し訳ありません」


「謝ることじゃないよ」


 ルシフェルは笑う。


「俺も少し困った。様と呼ばれるのは遠い気がしたし、同じ大天使として学んでいくのに、壁を作るのも違う気がした」


 あの日の光を、彼は今でも覚えていた。


 白い部屋。

 神の声。

 小さな四人。


 神は言った。


 この子たちは、君の下につき、天界を共に支える。

 導き、学ばせ、共に整えるように。


 その言葉を、ルシフェルは当たり前のように受け取った。


 小さなミカエルは、まっすぐに彼を見上げていた。

 ガブリエルは少し警戒するように眉を寄せ、ラファエルは好奇心で目を輝かせ、ウリエルはもう何かを考えている顔をしていた。


 ルシフェルは少しだけ膝を折り、四人と目線を近づけた。


「そうだね」


 自身もまた、幼かった。

 彼はその時の声を思い出す。


「同じ父上のもとで働くことになるし。でも、俺が最初に生まれているから」


 少し考えて、笑った。


「俺が、お兄ちゃん、かな?」


 最初に反応したのは、ガブリエルだった。


「……にいさん?」


 その声は小さく、試すようだった。


「そうだね」


 ルシフェルが頷くと、ラファエルがぱっと笑う。


「にいさまですね!」


 ウリエルは少し考えてから、丁寧に言った。


「……あにさま」


 最後にミカエルが、背筋を伸ばして言う。


「あにうえ!よろしくお願いします!」


 そのあまりに真剣な顔に、ルシフェルは笑ってしまった。


「うん。よろしく。みんな」


 茶室に、しばらく誰の声もなかった。


 今の四人は、あの日とは違う。

 羽も強くなり、目も遠くを見られるようになった。

 それぞれの役目を背負い、それぞれの場所へ行ける。


 けれど、呼び方だけは残った。


 兄上。

 兄さま。

 兄さん。

 兄様。


 それらは長い時間の中で、それぞれの形に馴染んでいった。


 ミカエルが、静かに口を開く。


「兄上が、そう呼んでいいと言ってくださったから、私はここまで来られました」


「大げさだよ」


「大げさではありません」


 ミカエルはまっすぐルシフェルを見る。


「兄上は、いつも先にいてくださった。我々が迷わないように」


 ガブリエルも続ける。


「兄さまがいてくださると、天界は落ち着く」


 ラファエルは穏やかに頷く。


「兄さんの言葉を聞くと、皆、息がしやすくなるんだと思う」


 ウリエルは少し考えてから言った。


「兄様の言葉は、父上の意図を乱さず、私たちにも届く形にしてくれます」


 ルシフェルは、四人の顔を順に見た。


 誰も、飾るために言ってはいなかった。

 それが分かるから、返す言葉を少しだけ探した。


 この子たちは自分をを慕っている。

 敬っている。

 信じている。


 そのどれにも、嘘はない。


 だからこそ、胸の奥にわずかな痛みが残った。


 この子たちが呼んでいるものを、ルシフェルは疑いたくなかった。


 兄上。

 兄さま。

 兄さん。

 兄様。


 そのどれもが愛おしい。


 けれど、それらは同時に、彼が長く立ってきた場所の名前でもあった。


 ルシフェルは微笑んだ。


「ありがとう」


 その声は穏やかだった。

 いつもの彼の声だった。


「俺も、君たちがいてくれてよかったと思っているよ」


 四人が、少しだけ目を見開く。


「本当だ。君たちが小さかった頃から、今までずっと」


 ルシフェルは言う。


「俺は君たちの兄でいられて、嬉しかった」


 その一言に、ミカエルの表情が強く揺れた。


「兄上」


 ガブリエルも目を伏せる。

 ラファエルは笑おうとして、少しだけ失敗した。

 ウリエルは何かを言いかけて、言葉を選べなかった。


 だから、しばらく誰も何も言わなかった。


 茶は冷めていく。

 けれど、その静けさは嫌なものではなかった。


 やがて、ウリエルが小さく咳をする。


「兄様」


「なんだい」


「今の言い方は、少し昔を懐かしみすぎています」


 ルシフェルは瞬いた。

 それから、小さく笑う。


「そうかな」


「はい」


「ウリエルには敵わないね」


「事実です」


 そのやりとりに、ようやく場の空気が戻る。

 ラファエルが笑い、ガブリエルも息を吐き、ミカエルは肩の力を抜いた。


 しばらくして、ミカエルとガブリエルは報告へ向かうため席を立った。

 ラファエルとウリエルも、それぞれの務めへ戻ることになる。


 茶室の扉の前で、ミカエルは振り返った。


「兄上」


「うん」


「兄上がいてくださるなら、大丈夫だと思えます」


 まっすぐな言葉だった。


 ルシフェルは、変わらず微笑む。


「君たちなら、俺がいなくても大丈夫だよ」


 ミカエルは少しだけ困ったように笑った。


「そのように言われては困ります。我々はまだまだ兄上から学ばせて頂いているのですから」


「……そうか」


「はい」


 その返事は、疑いを知らなかった。


 ガブリエルは、ミカエルの後ろでじっとルシフェルを見ていた。


「兄さま」


「なんだい、ガブリエル」


「……少し、お疲れではありませんか」


 ミカエルが驚いたようにガブリエルを見る。

 ラファエルも目を向ける。

 ウリエルだけは、何も言わずにルシフェルを見た。


 ルシフェルはほんの少しだけ目を丸くし、それからやわらかく笑った。


「君たちほどじゃないよ」


「そう、でしょうか?」


「そうだよ。二人とも、地上の気配をずいぶん持って帰ってきている」


「兄さま」


「大丈夫」


 その言葉は、あまりにも穏やかだった。


 ガブリエルはまだ何か言いたそうにしていた。

 けれど、ミカエルが扉の向こうを見る。


「ガブリエル、そろそろ」


「……分かっている」


 ガブリエルは一度だけ唇を引き結ぶ。

 そして、ルシフェルへ頭を下げた。


「戻ります」


「うん。待っているよ」


 その言葉に、ガブリエルの表情が少しだけほどけた。


 四人が順に茶室を出ていく。


 ミカエルは振り返らず、まっすぐ歩く。

 ガブリエルは一度だけ振り返りかけて、結局前を向いた。

 ラファエルは扉の前で小さく手を振り、ウリエルは最後に短く会釈をした。


 扉が閉まる。


 茶室には、白い静けさだけが残った。


 さっきまで、笑い声があった。

 呼び声があった。

 兄と呼ぶ声が、いくつも重なっていた。


 ルシフェルは、使われたカップを見つめる。


 ミカエルのカップは、きちんと中央へ置かれている。

 ガブリエルのカップは、少しだけ端に寄っている。

 ラファエルの皿には、焼き菓子の小さな欠片が残っている。

 ウリエルのカップの横には、紙片を置いたように角度の揃った匙があった。


 兄上がいてくださるなら、大丈夫だと思えます。


 兄様の言葉は、私たちにも届く形にしてくれます。


 その声が、耳の奥に残っていた。


 ルシフェルは、ゆっくりと窓の外を見る。


 白い庭は今日も整っている。

 花は咲く場所を違えず、風は通るべき道を通り、光は過不足なく注いでいる。


 迷わずに済むことは、いつもよいことなのだろうか。


 その問いは、まだ声にはならなかった。


 ただ、冷めていく茶の香りの中で、静かに彼の胸へ残った。

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