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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第21話「読まれる者」

白い回廊の端に、夕方のような光が差していた。


天界に夕暮れというものがあるわけではない。

少なくとも、地上のように陽が傾き、空の色が滲んでいくわけではない。


それでも、その日の光は朝より淡く、柱の影を長く床へ落としていた。白い石の上に、薄い線がいくつも並んでいる。


ベルゼブブは書類の束を抱えたまま、足を止めた。


回廊の奥、窓際にルシフェルが立っている。


手には、神から渡されたであろう『本文』の控えがあった。

文字のある面は伏せられている。


それなのに、ベルゼブブには、ルシフェルがまだ何かを読んでいるように見えた。

 


あれは昔からそうだった。


神が世界をどう創造し、天界をどう整え、天使たちをどこへ配したのか。

誰がどの役目を担い、どの言葉がどこまでを示し、どこから先をまだ置いていないのか。


ルシフェルは、それを誰より正確に読んできた。


ただし、読んでいたのは神の内側ではない。

神が世界を記した言葉、天界へ渡された本文、運用される形になった記述。

その一節を読み、意図をほどき、必要な言葉へ整え、天使たちへ渡す。


ベルゼブブは、その姿を何度も見ている。


ルシフェルは読んでいた。

迷わずに。

静かに。


読むことで、天界にくまなく光を渡し、迷いをはらい、滞りなく巡らせていた。


だからこそ、今の姿は奇妙だった。


人の庭についての本文を読んでいるはずだった。

まだ始まったばかりの、地上の一角に置かれた庭の話。

神の似姿として作られた男と女、定められた二人の話。


そのはずだ。


なのに、あれは、白い余白の奥に、自分の立ち位置まで見てしまったような顔をしていた。


本文を読んでいる。

そう言うには、沈みすぎている。




「今日はもう伏せているのか」


声をかけると、ルシフェルはゆっくり振り向いた。


「やあ、ベル」


いつも通りの声だった。

やわらかく、少し人懐っこく、こちらの用件など最初から気にしていないような声。


「君こそ、こんなところでどうしたんだい。書類を抱えたまま迷子かな」


「お前と違って、迷子になるほど暇じゃない」


「ひどいな。俺だって暇ではないよ」


「暇ではない奴は、伏せた紙の前で立ち止まらない」


ルシフェルは手元を見下ろす。

それから、かすかに笑った。


「確かに、そうかもしれないね」


否定しなかった。


ベルゼブブは眉をひそめた。


いつもなら、もう一つ二つ軽口が返ってくるところだった。

こちらがうんざりするほど滑らかに、何事もなかったような顔で。


今日は、そこで話が切れた。


窓の外では、白い庭が乱れなく巡っている。花は咲き、天使たちは通り、遠くの棟から鐘にも似た音がかすかに響いては消えた。


ルシフェルは、伏せた本文の端を指先で押さえている。


強く握っているわけではない。

ただ、離していない。


「何を読んだ」


ベルゼブブは聞いた。


「伏せたよ」


「聞き方を変える」


ベルゼブブは一歩近づく。


「何が残った」


ルシフェルは答えなかった。

その沈黙だけで、十分だった。

ベルゼブブは小さく息を吐く。


「お前は最近、読む顔じゃない」


「どんな顔かな、それは」


「紙に引かれている顔だ」


ルシフェルの笑みが、そこで止まった。


ほんの一瞬だった。

他の者なら気づかなかっただろう。


ミカエルなら、疲れているのだと思うかもしれない。

ガブリエルなら、何かを抱えていると気づいても、自分の言葉に迷うかもしれない。

ラファエルなら心配し、ウリエルなら書面を確認するかもしれない。


ベルゼブブは、そのどれもしなかった。


ただ見ていた。


「……君は」


ルシフェルが言う。


「本当に、嫌なところを突く」


「今さらだろう」


「そうだったね」


ルシフェルはかすかに笑い、窓辺から離れた。

そのまま近くの小卓へ歩く。


そこには、誰かが用意したであろう紅茶があった。

湯気はもう薄い。茶の表面には、窓の光だけが冷たく乗っている。


ルシフェルはカップを手に取った。

けれど、口をつける前に止まる。


「冷めているね」


「置いたままにするからだ」


「淹れ直してくれるかい?」


「自分でやれ」


「前はもう少し優しかった気がするんだけど」


「お前の記憶違いだ」


それで、ようやく空気が少し戻る。

ルシフェルは、口をつけることなくカップを静かに戻した。


ベルゼブブは、ただそれを目で追っていた。


「それで」


「うん?」


「何が残った」


同じ問いを、もう一度置く。


ルシフェルはしばらく黙った。

やがて、伏せた紙を小卓の上へ置く。


「父上の本文は、今日も正しかったよ」


「だろうな」


「間違いはない。余分もない。誰が読んでも、そうとしか受け取れないように書かれている」


「ああ」


「俺はそれを読める」


ベルゼブブは答えない。


「父上がどこまでを定めて、どこから先を置いているのか。何をまだ待っているのか。どの言葉を天界へ渡せば、皆が迷わず動けるのか」


ルシフェルの声は穏やかだった。


「俺は、そういうふうに造られた」


その言い方に、ベルゼブブの目が細くなる。


「造られた、か」


「……違うかな」


「知らん」


「君ならそう言うと思った」


「言わせるな」


ルシフェルは目を伏せた。


「最近、本文を読むとね」


そこで一度、言葉が止まる。


「その中に、俺の立つ場所まである気がするんだ」


ルシフェルが読んでいるものは、人の庭について書かれた本文のはずだった。

なのに、その白い余白の奥に、自分の立ち位置まで置かれている気がすると言う。


それを聞いたベルゼブブは動かなかった。


神の言葉を最も正しく読む者。

父上の意図を、天へ渡す者。

皆が迷わぬように、言葉をほどく者。


どれも、天界で何度も聞いた言葉だった。


誰かが誇らしげに口にした言葉。

若い天使たちが憧れと共に囁いた言葉。

ミカエルやガブリエルが、迷いなく信じてきた言葉。


ルシフェルは続ける。


「神の言葉を最も正しく読む者、それは、間違っていないんだ」


「……」


「俺は、実際にそうしてきた」


「そうだな」


「父上の言葉を受け取って、天へ渡してきた。皆が動けるように。迷わないように。正しく巡るように導く光」


ベルゼブブは書類の束を抱え直した。


「でも、そうするほど」


ルシフェルは、伏せた紙に視線を落とす。


「俺もまた、父上の本文の中にいる気がする」


白い回廊に、短い沈黙が落ちた。


遠くで羽音がした。

誰かが角を曲がり、また遠ざかっていく。


ベルゼブブは、そこでようやく小卓の向かいに立った。


「お前は紙の中にはいない」


「そうかな?」


「紙の中にいる奴が、俺の仕事場に来て茶を冷ますか?」


ルシフェルは目を瞬いた。

それから、ほんのわずかに笑う。


「それは確かに、迷惑だね」


「迷惑だ」


「でも君は、いつも茶を出してくれる」


「黙らせるためだ」


「それでも出してくれる」


ベルゼブブは舌打ちこそしなかったが、表情はそれに近かった。


「話を逸らすな」


「逸らしたつもりはなかったんだけど」


「逸れてる」


「そうか」


ルシフェルは、今度は否定しなかった。


伏せた紙の端に、まだ指が触れている。

離しているのに、離れていない。


ベルゼブブはそれを見た。


「ルシフェル」


「なんだい」


「もう一度言う。読むなとは言わない」


ルシフェルが顔を上げる。


「それがお前の役目なら、読めばいい」


「……うん」


「だが、読まれる側にはなるな」


その言葉に、ルシフェルはすぐには答えなかった。


小卓の上で、伏せた紙がわずかに揺れる。

窓の隙間から入った風のせいだった。


「読まれる側」


「ああ」


「それは、どういう意味かな」


「自分で考えろ」


「優しくない」


「答えを渡したら、お前はそれも読むだろう」


ルシフェルは黙った。


ベルゼブブは、そこで口を閉じた。

続ければ、また紙が一枚増えるだけだ。


しばらくして、ルシフェルは小さく息を吐いた。


「ベル」


「なんだ」


「俺は、父上の記す本文を疑いたいわけじゃない」


「知ってる」


「父上が間違っていると言いたいわけでもない」


「それも知ってる」


「なら、今の俺は何をしているんだろうね?」


ベルゼブブは答えなかった。


答えがないわけではない。

だが、それを自分が言うべきではないことだけは分かっていた。


ルシフェルが探しているものは、誰かに渡される答えではない。

渡した瞬間、それはまた別の紙に載る。


だからベルゼブブは、ただ言った。


「知らん」


ルシフェルは、かすかに笑った。


「君は本当に、助けてくれないんだね」


「助けてほしいのか」


返事は、すぐには来なかった。


ルシフェルは伏せた紙へ目を落としたまま、やがて言う。


「……分からない」


その声は、ひどく静かだった。


ベルゼブブは、その静けさの方が気に入らなかった。


怒っている方がまだいい。

迷っている方がまだいい。

いつものように、困った顔で茶を飲み、こちらの仕事を邪魔している方がよほどましだった。


これは違う。


「分からないなら」


ベルゼブブは言った。


「今は、それで止めておけ」


ルシフェルが目を上げる。


「止める?」


「答えにするな」


短く言い切る。


「分からないものを、急いで綺麗な言葉にするな。お前まで、それをするな」


ルシフェルの瞳が、わずかに揺れた。


ベルゼブブは、それ以上言わなかった。


「……そうだね」


ルシフェルはようやく言った。


「まだ、答えにしない方がいい」


「そうしろ」


「前言撤回ししょう。今日は君にしては、ずいぶん優しい」


「二度と言うな」


「うん。覚えておくよ」


「忘れろと言っている」


ルシフェルは少しだけ笑った。


今度の笑みは、さっきよりは薄くなかった。


けれどベルゼブブは安心しなかった。

笑ったから戻った、などと思えるほど、彼は楽観的ではない。


小卓の上には、冷めた紅茶と、伏せられた本文の控えがある。

白い紙は、裏返しても白かった。


やがてベルゼブブは書類を抱え直した。


「行く」


「もう?」


「仕事がある」


「君はいつもそれだね」


「お前も少しは見習え」


「見習ったら、君の仕事場へ遊びに行けなくなる」


「来るな」


「それは困るな」


「俺は困らない」


いつものやりとりだった。

けれど、まったく同じではなかった。


ベルゼブブが歩き出すと、背後でルシフェルが言った。


「ベル」


足を止める。

振り返らない。


「ありがとう」


ベルゼブブはしばらく黙った。


それから、低く返す。


「だから例を言うな。言われるようなことはしていない」


「うん」


「読め」


一拍置く。


「ただし、沈むな」


それだけ言って、ベルゼブブは今度こそ歩き出した。


回廊を曲がる直前、彼は一度だけ横目で振り返った。


ルシフェルはまだ小卓のそばに立っていた。

手は本文に触れていない。


ただ、伏せた紙を見ている。


まだ、どちらとも言えなかった。


ベルゼブブは小さく息を吐き、角を曲がった。


白い回廊には、また静けさが戻る。


ルシフェルはしばらくその場に立っていた。


やがて、伏せていた紙を手に取る。

開きはしなかった。


窓の外では、天界の庭が今日も過不足なく巡っている。


彼は、文字を伏せたままの紙を胸元に寄せるでもなく、机へ戻すでもなく、ただ手に持っていた。


その紙の中に、自分の名はない。

あるはずがない。


けれど、そこに自分の役目だけが、どこまでも白く残っている気がした。

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