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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第20話「呼べないもの」

芽は、少しだけ大きくなっていた。


最初に土を押し上げた日の、曲がった細い緑とは違う。

今は小さな葉が二枚、光を受けるようにひらきかけている。まだ花とは呼べない。けれど、ただの土ではないことだけは、もう誰の目にも分かるほどになっていた。


リリスはその前に膝をつき、小さな器から水を落とした。


水は土に吸われ、濃い色を作って消えていく。

芽は揺れもせず、ただそこにあった。


リリスは、それを見るのが好きだった。


話しかけるわけでもない、名前を呼ぶわけでもない。

ただ眺める。

それだけで、この場所に来た時より、ずっと息がしやすくなっていた。


住まいの近くでは、アダムが作物の様子を見ているはずだった。

水路の流れや、作物の成長、実がつく場所。

彼はそれらをよく見て、必要ならすぐ手を入れる。

その丁寧さが悪いものだとは思っていなかった。


アダムは本当に、この庭をよく見ている。

よく見て、よく覚えて、よく整える。


ただ、自分の前にある小さな芽は、まだ整えられる前のままでいてほしかった。

 


「リリス」


声は、少し離れたところから聞こえ、振り向くとアダムが立っていた。

以前より近づきすぎない場所で足を止めている。

水を入れた器を持ってはいたが、こちらへ差し出すことはせず、まずリリスの顔を見た。


「そっちに行ってもいい?」


リリスは瞬いた。


それから、頷く。


「ええ」


アダムは慎重に歩いてきた。

土を踏まないよう、芽のある場所を避けて、少し横に膝をつく。


「少し大きくなったね」


その声には、ただの驚きがあった。

自分の考えを先に述べるのではなく、目の前のものを見てありのままを言葉にしたものだった。


「ええ」


「ちゃんと育ってる」


「そうね」


短いやりとり。

それでも、リリスの肩は強ばらなかった。

しばらく芽を見ていたアダムは、少し困ったように首を傾げる。


「それで……これは、なんて呼ぶの?」


リリスはその問いにすぐには答えなかった。

葉は小さい。

茎も細い。

夜になれば光る花になると聞いているけれど、まだその姿はどこにもない。


「まだなんて呼ぶかわからないわ」


アダムは目を丸くした。


「わからない?」


「ええ」


「でも、名前がないと、君にこの芽の話をするとき困らない?」


「困らないわ」


「どうして?」


「見れば分かるもの」


それを聞いたアダムは少し考え込む。


「見ていない時は?」


リリスは顔を上げた。


「え?」


「離れている時は、どう呼べばいい?たとえば、僕が君に“あの芽に水をやったよ”と言いたい時とか。君が僕に“あれを見に行きたい”と言う時とか」


言っていることは分かった。

アダムにとって、名は誰かと何かを分け合うためのものなのだろう。

遠くにあるものを呼び、誰かに伝え、また戻ってくるためのもの。

それはきっと、間違っていない。


けれどリリスは、まだこの小さな芽を、離れたところへ持ち出したくなかった。


「まだ、離れたところで呼ばなくていいの」


アダムは黙ってしまった。


自分の言葉がきっと足りていないことを知っていた。

けれど、それ以上どう言えばいいのかは分からなかった。


ただ、今はまだ。


この芽がここにあることを、ここで見ていたい。


アダムは芽からリリスへ視線を戻した。


「……名前をつけないままでも、君は平気なんだね」


「ええ」


「僕は、少し落ち着かない」


リリスは少しだけ不思議そうに彼を見る。


「どうして?」


「呼べないから。何かがそこにあるのに、呼び名がないと、どう扱えばいいのか分からなくなる」


リリスは芽を見下ろした。


「扱わろうとしなくていいと思うの。きっと、こうやって見ているだけでもいいものもあるわ」


アダムは困ったように笑った。


「君は、そうなんだね」


その時、近くの草が音を鳴らしながら揺れた。

二人とも音のする方に顔を向けると、低く咲いた花の間から、白く長い生き物がするりと姿を見せた。

光を受けた体は、草の緑の上で細い線のように見える。赤い瞳が一度だけこちらを向き、舌が空気を確かめるように動いた。


リリスの目元が、ほんの少し和らいだ。


「また、あの子だわ」


アダムの背中がわずかに固くなる。


「こっちにも来るのか」


「知っているの?」


「何度か見ている」


アダムは白い体が花の根元を通るのを目で追った。


「いつも、庭の中央の方にいるんだ。父上が大切にしろと仰った、二本の木の近くに」


「そうなの?」


「うん。だから、少し気になる。危ないのか、そうじゃないのか、まだ僕にも分からない。名前も、まだ思い浮かばない」


白い体が芽のそばを通り過ぎようとして、アダムが思わず身を乗り出した。


「待って、そこは……」


踏むな、と言いかけたのだろう。


けれどその生き物は芽には触れず、細い体をくねらせ、土の盛り上がりを避けるようにして進んでいく。


リリスはそれを見て、小さく笑った。


アダムが振り向く。


「笑うところ?」


「だって、ちゃんと避けていってくれたわ」


「偶然かもしれないじゃないか」


「そうかしら?」


白い生き物は、花の影に半分隠れながら、また舌を出した。


リリスは少し身をかがめる。


「私たちの話をちゃんと聞いているのかもしれないわ」


アダムは眉を下げる。


「名前がないのに?」


「名前がなくても、耳はあるかもしれないじゃない」


「こんなに長い体のどこに耳があるんだろう?」


「それは、わからないわ。でもきっとあると思う」


アダムは本当に困った顔をした。

その顔が少しおかしくて、リリスの口元に笑みが残る。

それは、作ったものではなかった。


リリスのその顔を見て、アダムはしばらく黙った。

嬉しそうにも、驚いたようにも見える。

何かを言いかけて、けれど言わずに、白い生き物へ視線を戻した。


白い生き物は、草の奥へ向かって進んでいく。


アダムは何か呼ぼうとした様子だったが、やはり名前がでてこないのか口を開けたまま、


「……待って」


それだけしか出てこなかった。


白い生き物は止まらない。

聞こえなかったのか、聞こえていたのかもわからない。

やがて草の中へ溶けるように消えていった。


アダムはその跡を見つめていた。


「やっぱり、呼べないと困る」


リリスは草が揺れた場所を見ていた。


「あの子は、今ここにいたわ」


「うん」


「名前がなくても、あの子だって分かったわ」


「君にはね」


アダムの声には、少しだけ寂しさが混じっていた。


リリスはその声を聞いて、胸の奥が小さく痛んだ。


彼を困らせたいわけではない。

彼を遠ざけたいわけでも、傷つけたいわけでもない。


それでも、急いで差し出したくないものがあった。


リリスは芽のそばに手を置いた。

土はまだ湿っている。

名前の代わりに、その湿り気だけが手のひらに残った。


アダムは水の器を置いた。


「水、足す?」


リリスは少し考えた。


「少しだけ」


「分かった」


アダムは、芽に直接かけなかった。

リリスがしていたように、芽の少し横の土へ水を落とす。


水はゆっくり染みていく。


「これくらい?」


リリスは土を見た。


「ええ。ありがとう」


アダムは器を置いたまま、少しだけ離れて座った。


近くはない。

けれど、遠すぎもしない。


二人のあいだに、芽があった。


名のない小さな緑。

まだ呼ばれないまま、風に揺れている。


リリスはそのそばに手を置いた。


白い生き物にも、まだ名はない。

この芽にも、まだ名はない。


それでも、どちらも今日ここにあった。


呼べなくても。

触れなくても。

今はまだ、名前が無くても。


リリスはそのことを、まだうまく説明できない。


ただ、芽のそばの土に手を置いていると、やはり少しだけ息がしやすかった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


この物語の続きを、また夜のどこかで見届けていただけたら嬉しいです。

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