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夜と流星のマージナリア  作者: はなの かぬれ
第一章 創世・エデン編

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第19話「名のないまま」

白い回廊には、午後の光が長く差し込んでいた。


柱の影は床の上に薄く伸び、遠くを行く天使たちの羽音は、壁に触れる前にほどけて消えていく。

窓の外では、天界の庭が相変わらず乱れなく巡っていた。

花は咲くべき場所に咲き、葉は落ちるべき時を違えず、風さえ余分なものを運ばない。


ルシフェルは、その回廊の途中で足を止めていた。


手には、神から渡された新しい『本文』の控えがある。


一度は読み終えた。

けれど、今日も閉じきれずにいた。


書面に並ぶ文字は、いつもと同じように整っている。

記された言葉は、どれも正しい位置を与えられていた。

 


女は独自の場所に植えた種の芽吹きを確認した。

男は命名を控え、これを見守った。

名称未定の芽は、現時点で分類を待つ状態にある。

また、園内には未命名の生物が一体残るが、巡りに支障はない。

両者の距離には一部調整が見られる。

 


ルシフェルの視線は、同じ行の上を何度か往復した。


女。


その一語は、ひどく整っていた。

伴侶でも、個の名でもなく、ただ分類としてそこに置かれている。


男。

女。

芽。

生物。


紙の上では、みな同じ白の上に黒く並んでいた。


乱れてはいない。

間違ってもいない。


それでも、視線がそこで止まる。


名称未定の芽。

未命名の生物。


名のないものが、同じ紙の上に二つある。


片方は、まだ呼ばれないまま見守られているもの。

もう片方は、まだ呼び名が届かないまま残っているもの。


その違いは、書面の上では薄く、どちらも、名が置かれていないものとして記されている。


ルシフェルは書面から目を離し、窓の外へ視線を向けた。


天界の庭にある花々には、名がある。

咲く場所も、季節も、扱われ方も定められている。

名を持つことで、ほかのものと結ばれ、記録され、呼ばれ、守られる。


それは美しいことのはずだった。


美しく、正しい。

少なくとも、そう教わってきた。


なのに。


まだ名を持たない時間は、ただ名を待つためだけにあるのだろうか。


ルシフェルは書面を閉じ、神の部屋へ向かった。


 


白い扉は、すでにひらいていた。

奥は相変わらず白く、余分なものがない。

 


それだけで、そこが神の場所だと分かる。


いつものように窓辺に立つ神の背へ、ルシフェルは胸に手を添え、軽く頭を下げた。


「父上」


「なんだい、ルシフェル」


神は振り向かなかった。

だが、その声は最初から問いを待っていたようだった。


ルシフェルは手元の書面を見下ろす。


「名がないものについて、聞きたい」


「ああ」


神の返答は短かった。

許可というより、空いていた場所へ言葉が置かれたようだった。


「本文には、名称未定の芽と、未命名の生物が並んでいた。どちらも、名がないものとして記されている」


「そうだね」


「それらは同じものなのかい?」


そこで神は、ゆっくりと振り向いた。


白に近い灰の瞳が、いつもの様にルシフェルを見る。

見つめているようで、見つめてはいない目。


「名がまだ置かれていないという点では、同じだ」


ルシフェルは紙の端を指で押さえた。


「名を待っているものと、名を置かれずに見られているものも?」


神の表情は変わらなかった。


「それらはいずれ分けて記述できる」


いずれ。


その言葉は穏やかだった。

急がないという響きすらある。


けれど、白い部屋によく馴染みすぎていた。

机の上にも、窓辺にも、置き場を失ったものは何ひとつないように見える。


ルシフェルは、すぐには返せなかった。


「……いずれ書けることと、今そのまま見ることは、同じなのかな?」


「同じではないよ」


神はそう答えた。


「だが、今そのまま見ることも、いずれ記述へ至るまでの一部だ。名がなくとも、そこに在ることは観測できる。動きも、関係も、変化も残せる。そして時が満ちれば、それはより正確に分けられる」


より正確に。


その言葉が落ちても、神の部屋の白さは揺らがなかった。

紙の端を押さえるルシフェルの指だけが、わずかに強くなる。


「名を与えられないまま在ることは、できないのかい?」


神は、怒らなかった。

驚きもしなかった。


「一時的には可能だ」


「一時的には?」


「そうだ。だが、世界の中で長く扱われるには、名が要る。名がなければ、他のものと結べない。呼べず、残せず、渡せない。名は、孤立したものを世界へ接続するためのものでもある」


ルシフェルは、その理を知っていた。


名がなければ呼べない。

呼べなければ、残しにくい。

残せなければ、守ることも難しくなる。


知っている。

だからこそ、言葉が重かった。


「では、名をつけずに見守る時間は」


ルシフェルはゆっくりと言った。


「"名づけへ向かう途中"としてしか、扱われないのかい?」


神はルシフェルを見た。


「未定のものは、未定として記される。未命名のものは、未命名として残される。それは排除ではないよ、ルシフェル。まだ、その名を待っているだけだ」


「待っていない場合は?」


その問いは、思ったよりも小さく出た。


神はほんのわずかに間を置いた。


迷いではない。

新しい棚を用意するような間だった。


「待っていない、と?」


「そう、名を与えられることを待っているのではなく、名のないまま見られることを、望んでいる場合は?」


「それもまた、記述できる」


ルシフェルは息を止めた。


「名づけを保留する意志として、あるいは、未分類の状態を望む一時的な傾向として。必要なら、より正確に書き分けられる」


最後の言葉は、薄い光のように落ちた。


いずれ、より正確に……。


ルシフェルの手の中で、紙がわずかに鳴った。

指に力が入っていたことに、自分で気づく。


神は窓の外へ目を向けた。


「急ぐ必要はない。保留も、未定も、待機も、途中にあるものとして残る。そして、残るものはいずれ読める」


ルシフェルは何も言えなかった。


神の言葉は変わらない。

そこに怒りはなく、焦りもない。


いつかすべては書ける。

いま書けないものも、待てばいい。

まだ名のないものも、いずれ分けられる。


それは、世界を続ける者の確信だった。


「……そうか」


ルシフェルは、ようやくそう答えた。


声は整っていた。

少なくとも、神に届く形では。

 


 

 ◇

 

 


部屋を出ると、回廊の白さが目に戻ってきた。


さっきまでと同じ光。

同じ柱。

同じ影。


何も変わっていない。


ルシフェルは手にした『本文』の控えを見下ろした。

紙は閉じている。けれど、中にある文字だけが、やはり閉じた内側でまだ残っている気がした。


名称未定の芽。

未命名の生物。


紙の上では、どちらもまだ名がないものとして扱われる。


けれど本当に同じなのだろうか。


名が届かないもの。

名を急がれずに見られているもの。

名づけを待たない時間。


その違いは、まだ本文のどこにもない。


「今日は閉じているんだな」


声がして、ルシフェルは顔を上げた。


ベルゼブブが回廊の向こうから歩いてくる。

書類の束を片腕に抱え、いつものように歩幅は乱れない。


「閉じているよ」


ルシフェルが答えると、ベルゼブブは手元の紙へ一瞥をくれた。


「閉じているだけだろ」


ルシフェルは笑った。


「君は手厳しい」


「当たり前だ」


ベルゼブブは足を止めずに通り過ぎかける。

だが数歩行ったところで、ふと止まった。


「ルシフェル」


「なんだい」


「開いていなくても、読んでいる顔をするな」


そう言って、彼は振り返りもせずに歩いていった。


ルシフェルはその背を見送る。


返事はしなかった。

できなかったのではない。


ただ、何を返せばいいのかが、少しだけ分からなかった。


やがて、彼はもう一度、閉じた本文に目を落とした。


名称未定。


名ではないはずのその語が、白い紙の上ではもう、ひとつの場所を与えられていた。

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