第18話「まだ名のない芽」
それから数日、リリスはあの場所へ通った。
隠しているつもりはなかった。
けれど、誰かに説明するつもりもなかった。
水辺で小さな器に水を汲み、両手でこぼさないように運ぶ。
歩くたび、器の中で水が浅く揺れた。
草の葉が裾に触れ、花の匂いが風に混じる。
住まいから少し離れたその場所は、畑ほど整っていない。
土は柔らかいところもあれば、固く締まったところもある。近くには低い花が咲き、木々の枝のあいだから空が見えた。
そこに来るたび、リリスは少し息がしやすくなった。
ここは、何かのために作られた場所ではない。
誰かが、ここにいれば安心だと決めた場所でもない。
リリスが来たいと思って、来た場所だった。
まだ何も芽吹かない土に、水を少しだけ落とす。
濡れた土は色を濃くし、指先で触れると、かすかに沈んだ。
リリスはそれを見つめる。
変わっていない、何も起きていない。
それでも、昨日の自分がそこに残っている気がした。
一昨日の自分も、その前の日の自分も。胸の中で言った、「ここ」という小さな声が、土の下で消えずに残っている気がした。
だから通った。
言葉にできないものを、言葉にしないままにしないでおける場所だった。
その日も、リリスは昼の少し前にそこへ来ていた。
空には薄い雲が流れ、陽は強すぎず、風は花の頭をゆるく揺らした。
器の中の水が縁に当たり、小さな音を立てる。
いつもの場所に膝をつき、水を置こうとして、リリスは手を止めた。
土の表面が、少しだけ割れていた。
最初は、何かの跡かと思った。
小さな虫が通ったのか、風で土が崩れたのかもしれない。
けれど、違った。
割れ目のあいだから、細い緑が顔を出している。
まだ葉とも呼べないほど小さい。
土をつけたまま、曲がった背を持ち上げ、上から押さえる重さを押し返そうとしていた。
リリスは息を止めた。
水の音も、鳥の声も、風も、すぐそばにある。
それなのに、一瞬、すべてが遠く薄くなった。
残ったのは、目の前の、ほんの小さな緑だけだった。
ここに置いたものが、ここで息をした。
そう思った瞬間、胸の奥に熱が差した。
大きな花が咲いたわけではない。
光を放ったわけでもない。
誰かに祝福されたわけでも、名を与えられたわけでもない。
ただ、土が少し割れて、そこから緑が出ていた。
それだけだった。
それだけなのに、リリスはしばらく動けなかった。
やがて、器の水を指先ですくう。
一度にかけてしまうのが怖くて、ほんの少しだけ、芽のそばの土に落とした。
小さな水の粒が土に吸われて消える。
芽は揺れなかった。
ただ、そこにあった。
「あなたは……」
呼びかけて、リリスは少し迷う。
あなたは、何になるのかしら。
花になるのかしら。
夜になれば光るのかしら。
それとも、思っていたものとは違う何かになるのかしら。
どれも、まだ分からない。
分からないことが、少し嬉しかった。
リリスはそっと手を伸ばした。
触れない。
触れたら折れてしまいそうだったから、指先を少し離したところで止める。
その時、後ろで草を踏む音がした。
「リリス」
声は、前より少し遠くで止まった。
振り向くと、アダムが立っていた。
すぐ近くまでは来ていない。木々の影の手前で足を止め、こちらの様子を見ている。
リリスは逃げなかった。
器を持つ手に力を込めただけだった。
アダムの目が、土の上へ落ちる。
「芽が出たんだね」
リリスはゆっくり頷いた。
「ええ」
アダムは少し驚いた顔をしたあと、ほんのわずかに笑った。
「よかった」
その言葉は、自然に出たもののようだった。
どうすればいいかを考えた後の言葉ではなく、目の前にあるものを見て、ただ出てきた声だった。
リリスはもう一度、芽を見る。
「こんなに小さいのね」
「出たばかりだから」
そこまで言って、アダムは何かを続けかけた。
「これは、たぶん……」
言葉が途中で止まる。
リリスは顔を上げた。
アダムは口を閉じ、少し困ったように笑った。
それから、探るように言い直す。
「……言わない方がいい?」
リリスはすぐには答えなかった。
アダムは、続きを言わずに待っていた。
芽のそばで、器の底に残った水が薄く揺れている。
「まだ、花とも草とも呼べないわ」
リリスは芽を見つめたまま言う。
「どんなふうに育つのか、私にも分からないもの」
アダムは頷いた。
「名前は、つけないの?」
「まだいいわ」
答えは、思ったよりも早く出た。
「咲くまで、このまま見ていたいの」
アダムはその意味を考えるように、芽を見た。
それから、リリスを見る。
「名前がないと、困らない?」
「困らないわ」
「そう……」
アダムは本当に分からない顔をした。
けれど、今回はそれ以上言わなかった。
風が通り、芽の近くの草だけがわずかに揺れる。
小さな緑は、折れそうで、けれど折れなかった。
アダムは手にしていた空の水差しへ視線を落とす。
「水、持ってこようか」
リリスは少し考えた。
いらない、と言うこともできた。
自分でやる、と言うこともできた。
けれど、芽のそばの土は、もう少し水を欲しがっているように見えた。
それに、アダムは勝手に注ごうとはせず、どうしたいかを聞いてくれた。
リリスが自分が汲んできた水の器を見ると、ほとんど空になっていた。
「……お願いしてもいい?」
アダムは、少しだけ目を見開いた。
それから、嬉しそうにしすぎないように気をつけたのだろう。
口元だけを小さくゆるめる。
「分かった」
彼は距離を保ったまま水差しを受け取り、水辺の方へ歩いていった。
胸の奥に残った固いものが、これで無くなったわけではない。
怖さが消えたわけでもない。
けれど、今の「お願い」は、誰かに言わされたものではなかった。
アダムが戻ってくるまで、リリスは芽の前に座っていた。
まだ名はない。
まだ花でもない。
何色になるのかも、夜に光るのかも分からない。
けれどそれは、リリスが選んだ場所で、たしかに土を押し上げていた。
水辺の方から、アダムの足音が戻ってくる。
リリスは芽を見つめたまま、そっと息を吸った。
「まだ、このままでいて」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
名のない小さな緑は、ただそこにあった。




