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第17話「独自の場所」

アダムは、水瓶を持ったまま、畑の端に立っていた。


リリスの姿は見えない。

木々の向こう、住まいから少し離れた場所にいるのだろう。

昨日、彼女が花の種を植えた場所だ。


水は汲んできた。

けれど、すぐに持っていくことはできなかった。


――水は、いると思うわ。


リリスはそう言った。

だから持っていけばいい。

乾きやすい場所なら、水が要る。

それは間違っていないはずだ。


それなのに、足が動かなかった。


僕は、何をしても違うのだろうか。


アダムは水瓶の縁を握った。

指についた土は乾いて、白く浮いている。


触れないようにした。

急かさないようにした。

彼女のための場所を作った。

花を植えたいというなら、一緒に育つ場所を考えようと思った。


それでも、リリスは苦しいと言った。


アダムには、その言葉の奥が分からなかった。


「アダム」


声に振り向くと、ミカエルが立っていた。


白の式服に深い青を差し、陽の下でもその姿は揺らがない。見回りの途中なのだろう。彼はアダムの手元の水瓶を見て、それから顔へ視線を戻した。


「何かあったのか」


アダムは一瞬迷ったが、ミカエルに問いかけられたことに、どこかほっとしてもいた。


「ミカエル」


水瓶の重さが、急に手の中で増したようだった。


「僕は、どうすればいいんだろう」


ミカエルの表情が引き締まる。


「リリスのことか」


アダムは頷いた。


「僕は、彼女を困らせたいわけじゃないんだ。でも、何をしても違うみたいなんだ。触れないようにしても、近づきすぎないようにしても、彼女のための場所を作っても苦しいって……」


言葉にしていくほど、水瓶の縁を握る指に力が入った。


「昨日、リリスが僕の知らない間に、僕の知らない場所に花の種を植えたんだ。住まいから離れたところだった。僕は、もっと育ちやすい場所を一緒に考えようと提案したんだ。でも、それも違ったらしい」


ミカエルは黙って聞いていた。


「リリスは何と言った」


「私のためって言わないで、と。それから……苦しい、とも」


アダムの声が落ちる。


「僕は、彼女を苦しめたいわけじゃない」


「それは分かっている」


ミカエルはすぐに答えた。

声に迷いはなかった。


「君が彼女を気遣っていることは、私にも分かる。だからこそ、急いで答えを出そうとしすぎない方がいい」


アダムは顔を上げた。


「急いでいるつもりはないんだ」


「君にそのつもりがなくても、彼女にはそう感じられることもある」


ミカエルは水辺の方へ視線をやった。

低い草が風に撫でられ、同じ方向へ倒れては戻っている。


「リリスは、まだ落ち着ける場所を探しているのかもしれない」


アダムは、その言葉を聞いた。


「落ち着ける場所……」


「君のそばを拒んでいる、というだけではないのだろう。君のそばにいるためにも、少し離れた場所が必要なことはある」


ミカエルは、まっすぐにアダムを見た。


「君が彼女を思って場所を作ったように、彼女にも、彼女自身で選びたい場所があるのだと思う。ならば、急がせるな。彼女が安心できる場所を、君も尊重してやればいい」


ミカエルの言葉は整っていた。

だからだろう、アダムには、それが答えのように聞こえた。


その時、近くの木陰から、もうひとつの羽音が降りた。


ガブリエルだった。


彼女は二人の会話を最後まで聞いていたのか、途中からなのか、何も言わずに近づいてくる。


「ガブリエル」


ミカエルが名を呼ぶ。


「ちょうどよかった。リリスには、慣れるための場所が必要なのだ。君もそう思うだろう、ガブリエル」


ガブリエルはすぐには答えなかった。

橙の差し色が、風に揺れる。


「……それだけだろうか」


ミカエルが眉を寄せる。


「何かあるのか?」


「分からない」


ガブリエルは正直に言った。


「ただ、彼女はいつも、こちらが示した言葉の少し外を見ている気がする。こちらが答えを渡すと、その答えの端を見るように思う」


アダムには、その意味がよく分からなかった。

ミカエルもすぐには返さない。


ガブリエルは短く息をついた。


「だが、ミカエルの言うことも分かる。アダム、今はリリスの件は急がせない方がいい」


ミカエルは頷いた。


「なら、方針は同じだ」


ガブリエルはそれ以上、説明しなかった。

ただ一度、アダムの持つ水瓶を見てから、リリスのいる方角へ目を向ける。


「水を持っていくなら、置いて帰ってくるんだ。渡すことまで答えにしない方がいい」


アダムは水瓶を見下ろした。


「……分かったよ」

 


 ◇


 

リリスは、花の種を植えた場所にいた。


まだ芽は出ていない。

土の色が少し違うだけだ。

昨日、指で押さえた跡も、風と乾きで薄くなっている。


それでも、リリスにはそこが分かった。


――ここ。


そう思ったことが、まだ土の中に残っているようだった。


背後で草を踏む音がした。


振り向くと、アダムが水瓶を抱えて立っていた。

彼は少し離れたところで足を止める。


「リリス」


「……アダム」


アダムは前より慎重だった。

距離を測るように、目の前の土を見てから、リリスを見る。


「水を持ってきたから、ここに置いておくね」


リリスが返事をする前に、彼は水瓶を低い草の横へ置いた。

それから、少し下がる。


「ミカエルに相談したんだ」


その言葉に、リリスの身体が小さく止まる。

アダムはそれに気づかないまま続けた。


「君は、君だけの場所が欲しかったんだね」


リリスは顔を上げた。


君だけの場所。


その言葉は、きれいに整っていた。

やわらかく、悪意がなく、きっと誰かが考えてくれた答えだった。


アダムは、どこか安心したように話す。


「僕は、君が僕の隣を嫌がっているのかと思っていた。でも、そうじゃないんだろう?君は、僕の隣で安心するために、自分の場所も欲しかったんだね」


リリスの中で、何かが遠くなる。


君だけの場所。

安心するため。

僕の隣で。


その言葉のどれもが、種を植えた土の上を覆いつくした。

言葉が置かれるたび、そこにあったはずの「ここ」が見えなくなる。


「……違う」


小さな声だった。


けれど、アダムは聞いた。


「違う?」


「そういうことじゃないの」


アダムの顔に困惑が浮かぶ。


「でも、君はここを選んだんだろう?それは、君が安心できる場所が欲しかったからじゃないの?」


リリスは土を見る。


芽の出ていない場所。

ただ、自分が選んだだけの場所。


安心。

自分だけの場所。

馴染むため。


どれも近いようで、どれも違った。


「私の言葉を、別のものにしないで」


アダムは息を止めた。


「別のものにしたつもりはないよ。僕は、君を理解したいだけなんだ」


アダムの声は切実なものだった。

だから、また、リリスには苦しかった。


分かりたい。

知りたい。

教えてほしい。


そう言われるたび、まだ名前のないものに、先に輪郭を引かれてしまう。


「私も……」


リリスは口を開いた。


けれど、続きはすぐに出てこない。


私も、何を分かってほしいのか分からない。

私も、どう言えばいいのか知らない。

私も、ただ苦しいだけなの。


どれも、言葉になる前に喉の奥でちりぢりになっていく。


「……まだ、言えないの」


ようやく、それだけが落ちた。


アダムは黙っていた。


リリスは土の上に手を置く。


「だから、お願い。先に決めないで」


風が吹いた。

低い花が揺れ、水瓶の中の水がかすかに音を立てる。


アダムはまた傷ついたような顔をしたけれど、怒らなかった。


「……分かった」


その返事は、分かったというより、これ以上どうすればいいのか分からない者の声だった。


「水は、そこに置いておくね。使いたければ使って」


リリスは頷いた。


「ありがとう」


アダムは少しだけ笑おうとして、うまく笑えないまま、住まいの方へ戻っていった。


リリスはその背中を見送った。


謝りたい気持ちはあった。

けれど、謝ったらまた、自分の言葉がどこかへ戻されてしまう気がした。


土の下には、まだ芽の出ない種がある。


リリスは水瓶を引き寄せた。

指で少しだけ水をすくい、土の上へ落とす。


ここ。


声にはしなかった。

けれどその言葉だけは、誰にも渡さずに胸の内へ戻した。

 


 ◇

 


天界では、午後の光が白い回廊を満たしていた。


ルシフェルは、神から渡された新しい『本文』の控えを手にしていた。

歩きながら読んでいたわけではない。

ただ、読み終えたあとも、閉じることができずにいる。

 


女は独自の場所を求めた。

男はこれを理解しようと努め、距離の調整を試みている。

なお関係の破綻には至らず、庭の巡りに大きな乱れはない。

 


ルシフェルは足を止めた。


独自の場所。


その言葉だけが、白い紙の上で妙に収まりがよかった。

収まりがよすぎる。


「まただ」


声に出したつもりはなかった。

だが、回廊の向こうで足音が止まる。


「何が、”また”だ」


ベルゼブブだった。


書類の束を抱え、眼鏡の奥からこちらを見ている。

通りがかっただけにしては、あまりにも間がよかった。


ルシフェルは本文を伏せる。


「聞こえていたのかい」


「聞こえるように言うな」


「独り言だよ」


「お前の独り言は大抵面倒だ」


ルシフェルは少し笑った。


「手厳しいね」


ベルゼブブは近づいてきた。

視線が、ルシフェルの手元の紙へ落ちる。


「またエデンか」


「そうだね」


「また読んだのか」


ルシフェルはすぐには答えなかった。

それから、いつものようにやわらかく言う。


「読むために置かれているからね」


ベルゼブブの眉が、わずかに動いた。


「その言い方はやめろ」


ルシフェルは瞬く。


「何か変だったかい?」


「変だ」


短い返答だった。


「お前は、読むためだけにここにいるわけじゃない」


その言葉は、回廊にまっすぐ落ちた。

大きな声ではないのに、妙にはっきり残る。


ルシフェルは少しだけ目を伏せた。


「……そう言ってくれるのは、君くらいだね」


「茶化すな」


「茶化してはいないよ」


「なお悪い」


ベルゼブブは書類を抱え直した。

その表情はいつも通り冷えている。

けれど、いつもより視線だけが少し鋭かった。

 


こいつは昔から読まなくていいものまで読もうとした。


閉じた本の背。

行間。

置かれなかった言葉。

誰も気にしない小さな間。


ベルゼブブは、書面を見たあと、それを持つルシフェルの指を見た。

文字の方が、彼を離していないように見えた。


「ルシフェル」


ベルゼブブが名を呼ぶ。


「なんだい」


「その紙を一度閉じろ」


ルシフェルは少しだけ驚いた顔をした。


「命令かい?」


「忠告だ」


「君から?」


「俺からだ」


しばらく、二人は黙っていた。


やがてルシフェルは、ゆっくり書面を二つ折りにして閉じる。


白い紙が重なり、文字が見えなくなる。

それだけのことなのに、回廊の光が少し戻ったように見えた。


「これでいいかな」


「しばらく開くな」


「厳しいね、これが俺の仕事なのに」


「他の仕事をしろ」


ルシフェルは薄く笑った。

その笑みは、いつもより少し疲れていた。


「ありがとう、ベル」


ベルゼブブは顔をそむける。


「礼を言うな、気色が悪い」


「ひどいな、傷つく」


「もういい」


そう言って、ベルゼブブは歩き出した。


けれど数歩進んだところで、足を止める。


「ルシフェル」


「うん?」


「読むなとは言わない」


ベルゼブブは振り返らなかった。


「だが、読まれる側になるな」


ルシフェルは返事をしなかった。


ベルゼブブは、それ以上待たずに去っていく。

回廊には、紙の匂いと遠い羽音だけが残った。


ルシフェルは閉じた控えを手にしたまま、しばらく立っていた。


――女は独自の場所を求めた。


その一文は、もう見えていない。

けれど、閉じた紙の内側でまだ動いているように思えた。


独自の場所。


それは、本当にその名でよかったのか。


問いは消えなかった。

けれどベルゼブブに言われた通り、ルシフェルはその後、控えを開かなかった。

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