第16話「ここに咲くもの」
翌日の昼前、エデンには薄い雲が流れていた。
陽は強すぎず、木々の影も濃すぎない。
水辺には細かな光が浮かび、風が通るたび、草の穂が低くなびいた。
獣たちは木陰で眠り、鳥たちは枝の上で羽を整えている。
アダムが作った日陰の場所には、葉の隙間から細い光が落ちていた。
リリスはそこに座っていた。
草を編んだ敷物は柔らかい。背を預けるための枝も、座るにはちょうどよい高さに組まれている。
風はよく通り、暑さの感じるような陽は避けられる。
水場も畑も、住まいも見える。
やはり、よく考えられた場所だった。
けれど、そこに座っていると、自分の輪郭まで少しずつ整えられていくようで、少しだけ胸が詰まる様だった。
リリスは膝の上に置いた手を見る。
指先には、昨日の土の感触がまだ残っている気がした。
小さなくぼみを作り、そこへ一粒だけ種を置いた。
土をかぶせ、指で押さえた。水の代わりに、葉に残った露を落とした。
――ここ。
その言葉だけが、夜が明けても消えなかった。
「リリス」
畑の方から声がした。
アダムが水路の縁に膝をつき、手についた泥を払っている。
彼は振り返り、こちらを見て笑った。
「少し水を足してくるよ。君はそこで待っていて」
リリスは頷いた。
アダムは水瓶を抱えて、畑の奥へ向かう。
その背が木々の影に隠れてから、リリスはゆっくり立ち上がった。
日陰を出ると、陽が額に触れ、風の匂いが少し変わる。
リリスは、昨日の場所へ歩き出した。
住まいから少し離れた、花の匂いが濃くなるあたり。
白い花の咲く場所を越え、木々のあいだから空がひらける、小さな場所。
そこだけ、昨日と同じように土の色が少し濃かった。
まだ芽は出ていない。
何も変わっていない。
それでも、リリスにはすぐに分かった。
昨日、自分の指が触れた場所だった。
それだけで、胸の奥に少し空気が入った。
リリスは膝をつき、葉に残っていた露を指先で集める。
小さな雫を、また土の上へ落としていった。
足りるのかは分からない。
これで育つのかも知らない。
それでも、何かをしてやりたかった。
土に触れる。
昨日より少しだけ乾いている。指先でそっと押さえると、粒の細かな土が爪の端に入り込んだ。
その感触を確かめていた時だった。
「リリス、そこにいたんだ」
背後から声がして、リリスの手が止まる。
振り向くと、アダムが立っていた。
水瓶を片手に持ったまま、不思議そうにこちらを見ている。
相変わらず、怒ってはいない。
責めてもいない。
ただ、本当に分からないという顔だった。
「何をしてるの?」
リリスは土の上から手を離した。
「……花の種を植えたの」
アダムは瞬いた。
「ここに?」
その声には、驚きだけがあった。
リリスは頷く。
「ええ」
アダムは周囲を見回した。
水辺からも、畑からも、住まいからも少し離れた場所。花は咲いているが、作物を育てるために整えた土地ではない。
「でも、ここは畑から離れているよ?水も運びにくいし、僕が作った日陰からも遠い。植えるなら、住まいの近くの方がいいんじゃないかな?」
リリスは、住まいの近くで既に赤い実のなった場所を思い出して、すぐには答える事ができなかった。
アダムの言うことは、きっと間違っていない。
水は近い方がいい。世話をするなら、目の届く場所がいい。育てるなら、土を整えた場所がいい。
水瓶の口から、雫がひとつ落ちた。
土の上ではなく、アダムの足元に。
「ここがよかったの」
リリスは言った。
アダムは困ったように眉を下げる。
「どうして?」
リリスは答えられなかった。
なぜなら、理由はいくつもあるようで、どれも理由として差し出すには足りないものだったから。
木々のあいだから空が見えるから、風が通るから、昨日ここに来た時、少し息ができたから。
ただ、ここがよかった。
それだけだった。
「ここじゃなくても、花は咲くだろう?」
アダムはやさしく言った。
「育てたいのなら、ちゃんと育つ場所を選んだ方がいい。君が植えたいなら、僕も一緒に考えるよ。君のためにも、その方がいいと思う」
君のため。
その言葉が胸の奥に落ちて、沈まなかった。
リリスは土に触れていた手を握る。
爪の間に入った土が、かすかに痛い。
「……私のため、って言わないで」
アダムの顔から、明るさが少し消えた。
「え?」
「私のため、って言わないで」
声は大きくなかった。
けれど同じ言葉を繰り返したことで、自分でもそれがどれほど嫌だったのか分かった。
アダムは水瓶を下ろした。
「リリス、僕は君を困らせたいわけじゃないんだ」
「知ってるわ」
リリスはすぐに答えた。
それは本当だった。
アダムが困らせようとしていないこと。
傷つけようとしていないこと。
大事にしようとしていること。
全部、知っている。
「知ってる。でも、苦しいの」
アダムは何も言えなくなった。
風が通った。
低い花が揺れ、二人の足元で影が崩れる。
「苦しいって……」
アダムの声は小さかった。
「僕は、どうすればいいの?」
水瓶の取っ手を握る手に、少し力が入る。
「僕は…触れないようにしてる。君が嫌がらないように、気をつけてる。君が休める場所も、作った。花を植えたいなら、こうやって一緒に考えようとしてる!」
そこで、彼は一度言葉を切った。
「でも……それも違うんだろう?」
リリスは唇を開きかけた。
けれど、言葉が出てこない。
違う。
そう言いたい。
でも、何がどう違うのか。
どこから説明すればいいのか。
自分でもまだ、ちゃんと掴めていない。
アダムは続けた。
「君が何を嫌がるのか、僕には分からない。教えてくれれば、そうするから……」
それは、きっと正しい言葉だった。
分からないから、聞く。
教えてもらえれば、直す。
そのはずなのに、リリスの胸は余計に詰まった。
教えればいい。
言えばいい。
正しい扱い方を、彼に渡せばいい。
そうすれば、アダムはきっと従ってくれるのだろう。悪気なく、真面目に、大切に。
けれどその瞬間、また自分が、言葉が、別の何かの形にされてしまう気がした。
「……今は、言えないの」
ようやく、それだけが出た。
アダムは困った顔のまま、リリスを見る。
「言えないなら、僕には分からないよ」
「……そうね」
リリスは頷いた。
「分からないと思う」
その言葉に、アダムは傷ついたような顔をした。
リリスの胸が痛む。
彼を傷つけたいわけではなかった。
それでも、もう「ごめんなさい」とは言えなかった。
言えなくて俯くことしかできなかった。
ここで謝ったら、自分の中の何かまで引き渡してしまう気がした。
アダムはしばらく黙っていた。
やがて、目を伏せる。
「……分かった。今日は、もう戻ろう」
彼は土には触れなかった。
植えた場所を掘り返すことも、移そうとすることもしなかった。
ただ、分からないものを見るような目で、その小さな土の跡を見た。
それから、水瓶を持ち直す。
「水が必要なら、あとで持ってくる。ここは、少し乾きやすそうだから」
リリスは顔を上げた。
アダムは迷うように視線を揺らした。
「……それも、いらない?」
言葉の端に、戸惑いが滲んでいた。
リリスは首を振る。
「水は、いると思うわ」
「わかった」
アダムは少しだけ息を吐いた。
「じゃあ、あとで持ってくる」
そう言って、彼は住まいの方へ戻っていった。
背中は、いつもより少し小さく見えた。
リリスはその小さな背を見送る。
アダムは、変わらずやさしかった。
気づかってくれた。
それなのに、胸の奥はまたギュッと詰まっていった。
彼の足音が遠ざかってから、リリスはもう一度、土の前に膝をついた。
何も芽吹いていない。
何も変わっていない。
ただ、昨日よりも少し濃い土がそこにある。
自分の指の跡が、まだわずかに残っている。
リリスは土の上に手を置いた。
手のひらで、やわらかな盛り上がりを隠すように。
誰かに見つけられても。
理由を聞かれても。
正しい場所ではないと言われても。
ここがよかった。
その気持ちだけは、もう譲れなかった。




