第15話「戻れない庭」
カエルと話をしてから、何日かが過ぎた。
エデンは変わらず美しい。
水は澄み、木々は実を重くし、風は花の匂いを運んでくる。
獣たちは草を食み、鳥は枝から枝へ移り、夜になれば星の光にも似た草が地のあちこちで淡く灯った。
果実を渡すとき、アダムは指が触れないよう、持ち方を変えるようになった。
水辺へ行くときも、先に手を取らない。
振り返って、「行く?」と聞いた。
リリスがしゃがみ込んで何かを見ているときも、以前のようにすぐ隣へ屈みこまず、少し離れたところで足を止める。
「リリス、それを見るの?」
リリスがうなずくと、アダムはそこで笑った。
「うん。じゃあ、待っているよ」
彼は繊細なまでに、行動や言動に慎重になっていた。
それはリリスにも分かった。
分かるたびに、喉の奥が少し狭くなる。
アダムが悪い顔をしているのなら、嫌だと言えばよかった。
怒っているのなら、怖いと言えばよかった。
けれど彼は、ずっとやさしい。
やさしい顔で、考えて、気をつけて、リリスのための形を探そうとしている。
それなのに、そのたびに肩の奥が固くなった。
何かが触れる前から、身体のほうが先に身構えてしまう。
リリスは自分の手を見た。
この手は、花には触れられる。
鳥の足の細さも、うさぎの胸の小さな鼓動も、名前のない白く長い生き物のなめらかな肌も、怖いとは思わなかった。
なのに、アダムの手が近づくと、どうして息が止まるのだろう。
その答えはまだ、どこにもなかった。
住まいのそばには、小さな畑ができていた。
アダムが決めた畝には、赤い実をつける作物の苗が並んでいる。
土は丁寧にならされ、水の通り道も整えられていた。
リリスは時々、その端に座った。
膝の上には、小さな袋がある。
ミカエルが管理用に持っていた種を、少しだけ分けてくれたものだった。
夜になると光る花だという。
リリスは袋の口を開け、掌に数粒だけ出してみる。
小さく、軽く、息を吹けば飛んでしまいそうな粒だった。
ここに植えてもいい、と言いかけた場所には、もう別のものが植えられている。
この庭には花はたくさん咲いているじゃないか。
アダムの声は、今も耳に残っていた。
リリスは種を眺めては、また袋に戻すを繰り返していた。
さりっと、かすかな音がする。
種同士が触れ合うだけの、ほとんど聞こえない音。
その音を何度か繰り返し聞いているうちに、アダムが戻ってきた。
腕には、蔓や葉のついた枝を抱えている。
額にはうっすら汗が滲んでいたが、顔は明るかった。
「リリス、少し見てほしいものがあるんだ」
リリスは袋の口を閉じた。
「何?」
「こっち」
アダムに案内されたのは、住まいのすぐそばだった。
畑と水場のあいだに、葉を重ねて作られた小さな日陰がある。
枝を組み、蔓で支え、雨が落ちても少しはしのげるようになっていた。
中には、草を敷いた座る場所まである。
「ここなら、君も安心して過ごせると思うんだ」
アダムは嬉しそうに言った。
「水場にも近いし、畑も見える。僕が作業していても、君のことがすぐ分かる。君も困らないだろう?」
声には、疑いがない。
リリスは言われたその日陰を見てみる。
葉の隙間から、細い光がいくつも落ちている。
風が通れば涼しいだろう。
座れば、畑も、水場も、アダムの姿も見える。
とても、よく考えられた作りだった。
「……私の場所って、ここなの?」
アダムが瞬いた。
「うん」
あまりにも素直な返事。
やはり疑いなどない声音だった。
「君が休める場所だよ、君のために作ったんだ」
「私のため……」
リリスは繰り返した。
「そう。君はここにいれば安心だ」
「ここにいればいいの?」
「そうだよ」
アダムは笑う。
「僕の側、僕の隣だよ」
その言葉は、きっと甘いものとして渡された。
大切にするつもりで。
近くにいてほしいという気持ちで。
けれどリリスの胸の奥では、何かがすっと冷えた。
僕の側、僕の隣だ。
アダムが作った場所。
アダムが見える場所。
アダムが安心だと思う場所。
「私が、ここを選んでいなくても?」
言ってから、自分でも少し驚くほどの低い声だった。
それを聞いてアダムはもっと驚いた顔をする。
「選ぶって……」
彼には、その選ぶという意味が本当に分からないらしかった。
「リリス、君は僕の伴侶だろう?僕たちは一緒に生きるんだ。だから、君の場所は僕のそばにあるんじゃないのかな」
彼の声はやわらかかった。
責めてはいない。
ただ、自分にとってあまりにも当然のことを、丁寧に説明しているだけだった。
リリスは、日陰の中を見た。
よく整えられていて、雨も避けられて、陽あたりも抑えられて、近くには水もあり、アダムが見える。
ここにいれば、困らない。
そうなのだろう。
困らない場所。
守られる場所。
「……ありがとう」
リリスはぽつりと礼を言った。
アダムの顔が明るくなる。
「気に入った?」
リリスは少しだけ笑った。
「よくできてると思うわ」
嘘ではなかった。
それ以上の言葉は、出てこなかった。
アダムは満足そうに頷き、畑の方へ戻っていった。
次は水路の流れを直すのだと言っている。
声はいつものように明るい。
リリスはしばらく、その場に立っていた。
葉の影が足元に揺れている。
アダムの作った日陰は、たしかに涼しそうだった。
午後の光が傾き始めるころ、アダムは畑の反対側へ回り、水路に詰まった葉を取り除いているらしかった。
背中を向け、時々土をならしている。
リリスは、日陰に座っていた。
座ってみれば、たしかに過ごしやすい場所だった。
けれど、そこから見える景色は、
畑。
水場。
住まい。
アダムの背中。
全部が見えるかわりに、全部から見られていた。
リリスはその日陰から立ち上がった。
種の袋を握りしめる。
足音を立てないようにしたわけではない。
ただ、花の匂いがする方へ行きたかった。
住まいから少し離れると、草の背が少し高くなる。
水辺を越え、白い花の咲く場所を過ぎ、何度かひとりで来たことのある、小さな開けた場所へ出た。
木々のあいだから空が見える。
昼と夜の境目には、ここに最初の星が落ちてくる。
足元には、まだ何も植えられていない柔らかな土があった。
近くには低い花が咲き、風が通るたび、色の違う花弁が別々のリズムで揺れていた。
リリスはその場に膝をつき、指で土を掘り始めた。
深くはない、ほんの小さなくぼみを作るだけ。
袋を開けると、掌の上に数粒の種が転がった。
そのうちの一粒だけを選ぶ。
理由は分からないし、いらなかった。
ただ、それがよかった。
リリスはその一粒を土の上へ置いた。
誰かに言われた場所ではなく、アダムが決めた畝でもなく、作物のための場所でもない。
ここに咲いてほしいと思った場所。
ただ、それだけだった。
土をそっとかぶせて指先で軽く押さえる。
かける水は持っていなかったので、近くの葉に残っていた露を指で集め、ほんの少しだけ落とした。
それで足りるのかは分からない。
でも、そこに種を置きたかった。
ここに。
リリスは土に触れたまま、しばらく動かなかった。
新しく動かした土は、周りより少しだけ色が濃い。
指で押さえた跡も、消えきらずに残っている。
遠くから、アダムの声がした。
「リリス?」
様子を伺うような、探すような声だった。
リリスは顔を上げた。
木々の向こうに、住まいの方の光が見える。
早く返事をしなければ。
そう思った。
けれど、すぐには立ち上がらなかった。
もう一度だけ、土の上に指を置く。
ここ。
それから、リリスはようやく立ち上がり、住まいの方へ歩き出した。
「……ここにいるわ」
声は大きくない。
けれど、風に消えるほど弱くもなかった。
彼女の指先には、まだ自分で選んだ土の感触が残っていた。




