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第14話「白い余白」

白い花に囲まれたガゼボに、傾きかけた光が差していた。


朝の澄みきった白ではない。

午後の光は花びらの端に薄い金を含ませ、石造りの床へ長い影を伸ばしている。

風はほとんどなかった。

けれど庭のどこかで葉が擦れ、遠くの回廊から天使たちの羽音が届いては、白い空気の奥へ消えた。


ルシフェルは、開いた本の前に座っていた。


卓上の紅茶はまだ湯気を残し、白い皿には焼き菓子がいくつか並んでいる。

形は揃っていて、焼き色も悪くない。

 

頁はめくられていない。 

彼の目は、本ではなく、その横に置かれた書面へ向いていた。


神から渡された、エデンについての本文の控えだった。

そこにあった一文だけが、目の奥に焼き付いている。


女は接触への戸惑いを示したが、拒絶として固定する段階にはない。

始まりの二人はなお距離を測る過程にあり、庭の巡りに大きな破綻はない。

 


――破綻はない。


それは正しいのだろう。

少なくとも、本文の上では。


ルシフェルは本へ視線を戻した。

文字は、紙の上に整って並んでいる。

けれど、どれも彼の内側まで入ってこなかった。


「またサボりか」


声がした。


顔を上げると、ガゼボの入口にベルゼブブが立っていた。

暗い茶の髪は乱れず、眼鏡の奥の目はいつも通り冷えている。

片手には書類の束。

ここへ来るためだけの用件ではないらしく、通りがかったついで、という顔をしていた。


ルシフェルは、いつもの笑みを浮かべる。


「珍しいね。君から来てくれるなんて」


「たまたまだ」


「久しぶりに焼き菓子を作ったんだ。食べていくかい?」


ベルゼブブは皿を見た。

それから、ルシフェルを見る。


「……作ったのか」


「うん。見ての通り」


「仕事は」


「休憩だよ」


「お前の休憩は長い」


「君に言われると、なんだか説得力があるね」


ベルゼブブは返事をしなかった。

だが、結局ガゼボの中へ入ってくる。書類を卓の端へ置き、皿から焼き菓子をひとつ取った。


ルシフェルは目を細める。


「食べてくれるんだね」


「毒見だ」


「相変わらず手厳しいな」


ベルゼブブは焼き菓子を口に入れた。


一度噛む。

二度目で、眼鏡の奥の目がわずかに動いた。

甘さでも焼きでもない。

いつもなら最初に立つ香りが、少し遅い。


「……作り方を変えたのか」


ルシフェルの笑みが、そこでぴたりとやんだ。


「……何も変えたつもりはないんだけどね」


「今までどれだけお前の菓子を押し付けられてきたと思ってる」


「全部食べてくれていたのかい? それは嬉しいね。どうして今まで感想のひとつもくれなかったのかな」


「はぐらかすな」


短い声だった。

低く、まっすぐだった。


ルシフェルはカップを取る。

紅茶の表面に、白い花の影が揺れていた。


「そういうところを見逃さないね、君は本当に」


「お前の隠し方が下手なだけだ」


「そうかな。俺はけっこう上手いと思っていたんだけど」


「周りが見ていないだけだ」


ルシフェルはいつものように笑ったつもりだった。


ベルゼブブは二つ目の焼き菓子には手を伸ばさない。

かわりに、テーブルに置かれた書面へ目をやった。


「エデンか」


「読んだのかい?」


「見えた」


「行儀が悪いな」


「見えるように置くな」


ルシフェルは答えず、書面の端に指を置いた。


「父上の本文は、今日も綺麗だったよ」


「ならいいだろう」


「綺麗すぎるんだ」


ベルゼブブは黙った。


午後の光が、焼き菓子の載った皿の白をさらに白くする。

ルシフェルの声は穏やかだったが、いつもの軽さはそこになかった。


「間違ってはいない。余分もない。綺麗に収まっている」


指先が、紙の端を押さえる。


「だからこそ、何かが落ちている気がする」


「何が」


「それが、まだうまく言えない」


ベルゼブブは息を吐いた。


「またそれか」


「また、かな」


「お前は昔から、閉じた本の背まで読もうとする」


ルシフェルは目を見開き、それから苦笑した。


「面白い言い方だね」


「褒めてない」


「分かってるよ」


「読まなくていいところまで読んだんだろ」


ルシフェルは返事をしなかった。


庭では、白い花が身じろぎもせず咲いている。

風はないはずだった。

それでも、どこかの枝先だけがかすかに揺れていた。


「ベル」


「なんだ」


「もし、誰かが『嫌だ』と言ったとして」


ベルゼブブの視線が上がる。


「その嫌が、まだ拒絶として扱うには早いと言われたら」


ルシフェルは伏せた紙を見下ろした。


「それは、どこに置かれるんだろうね」


ベルゼブブはすぐには答えなかった。

出された紅茶に手を伸ばし、けれど飲まずに置く。


「俺に聞くな」


「うん」


「ただ」


ルシフェルが顔を上げる。


「そこにあるものを、ないことにする必要はないだろう」


短い言葉だった。

慰めでも、解答でもない。


それでもルシフェルは、その言葉を聞いて、目元の力を抜いた。


「……そうだね」


ベルゼブブは持ってきた書類を揃え立ち上がる。


「行く」


「もう?」


「お前と違って仕事がある」


「焼き菓子、もうひとつ食べていかないかい?」


ベルゼブブは皿を見た。

ひとつだけ取り、残りはそのままにする。


「全部食うと思うな」


「残念だ」


「味を戻しておけ」


それだけ言って、ベルゼブブはガゼボを出ていった。


ルシフェルはしばらく、その背を見送っていた。

やがて、書面を手に取る。


紙は軽い。

けれど、そこに置かれた言葉だけは、重い感触がした。

 


 ◇


 

神の部屋は、相変わらず余分がない。


白い石の床、高い窓、整いすぎた机と書棚。

暮らしの匂いはない。

そこにあるものはすべて、そこにあるべきだから置かれているように見えた。


窓辺に、神が立っている。


「来たね、ルシフェル」


振り向かないまま、神は言った。


ルシフェルは胸に手を添え、軽く頭を下げる。


「父上」


「今日の本文のことかな」


「分かっていたのかい」


「君なら読むだろうと思っていた」


その返事には、誇りも驚きもなかった。

ただ、そうなるものがそうなった、という響きだけがある。


ルシフェルは手にしていた書面を見下ろした。


「接触への戸惑い、とあったね」


「そう記した」


「拒絶として固定する段階にはない、とも」


「そうだ」


「それは、本当に戸惑いなのかい?」


そこでようやく、神は振り向いた。


白に近い灰の瞳が、ルシフェルを見る。

見つめているようで、見つめていない目だった。


「現時点では、そう記すのが妥当だ」


「妥当」


ルシフェルは、その語を小さく繰り返した。


「その者は、嫌だと示したんだろう?」


「そうだね」


「それでも、拒絶ではない?」


「拒絶として世界へ固定するには早い」


神の声は、どこにも引っかからなかった。


「始まりにいる者たちは、まだ互いの距離を知らない。触れ、戸惑い、計り直す。その過程をすべて異常として記せば、物語は始まる前に閉じてしまう」


言葉だけを見れば、何ひとつ間違っていない。


だからこそ、ルシフェルは息を吸うことを忘れた。


「なら、拒絶ではないものとして扱われるあいだ、その忌避感はどこに置かれるんだい」


神は答える。


「置かれているよ」


「本文の中に?」


「揺れとして」


ルシフェルの指が、持っていた書面の端を押さえた。

薄い紙は、指の下で小さな皺を作った。


見落としではなかった。


その一語は、部屋の白さによく馴染んでいた。

書棚は乱れず、机は整い、窓からの光は過不足なく床へ落ちている。

どこにも欠けはない。

どこにも汚れはない。


その中で、嫌、という小さな形だけが、白い紙の上で別の名を与えられていた。


「……父上」


「なんだい」


「庭が巡っていることと、そこにいる者が息をしやすいことは、同じなのかな?」


神は、わずかに首を傾けた。


「君は、そこを読むのだね」


責める声ではなかった。

むしろ、確認に近かった。


ルシフェルは何も言えなかった。


神は窓の外へ目を向ける。

白い天界は、今日も乱れなく巡っている。

遠くの回廊を行く天使たちは、それぞれの役目のために動き、光は過不足なく敷かれていた。


「すべてを一度に名付ける必要はない。途中にあるものは、途中にあるものとして記される」


ルシフェルの手の中で、書面がかすかに音を立てる。


「彼らはまだ始まりにいる。そして、庭は巡っている」


神は言葉で記すときの様に、正しい言葉を、正しい順でその場に置いた。

ルシフェルは、そのどこかに手をかけようとしたが、掴めるものはなかった。

どの言葉も滑らかで、欠けがなく、反論の指を差し入れる隙間がなかったからだ。


ルシフェルは持っていた書面を二つ折りにして伏せた。


「……そうだね」


声はいつも通りだった。

少なくとも、そう聞こえるように整えた。


神はただ、ルシフェルを見ていた。


「君はよく読む」


「父上がそう望んだんだろう?」


「そうだ」


神は口元を動かした。

笑みにも見えた。そういう形を取っただけにも見えた。


「私の物語を最も正しく読む読者でいてほしいからね」


ルシフェルは、それ以上何も言わなかった。


 

 

 ◇


 

 

ガゼボへ戻ると、紅茶は冷めていた。

皿の上には、焼き菓子がひとつだけ残されていた。


――味を戻しておけ。


ルシフェルはそれを見て、かすかに笑う。


「律儀だね」


返事はない。

白い花だけが、午後の光の中で揺れている。


彼は椅子に腰を下ろし、閉じた書面の上に指を置いた。


接触への戸惑い。

拒絶として固定する段階にはない。

大きな破綻はない。


どれも正しい。

どれも、間違ってはいない。


けれど、そのどれにも、そこにあったはずの忌避感は入りきらない。


風はほとんどなかった。

それでも白い花は、かすかに揺れていた。


ルシフェルは、読み終えたはずの本文を見下ろす。


閉じた紙の向こうで、まだ読めない一行だけが残っていた。


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