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第13話「正しい答え」

その日、風は強くもなく、弱くもなかった。


水辺から少し離れた場所で、リリスは洗った果実を布の上に並べていた。陽に透かすと、薄い皮の内側に赤い色がゆっくり滲んでいる。指先に触れる実は、まだ少し冷たかった。


少し離れたところでは、アダムが何かを作っている。


折れた枝を組み直し、蔓を巻きつけ、雨を避けるための覆いを整えているらしい。

彼は時おり手を止め、リリスの方を見た。

何か言いたげな顔をして、それでも結局は何も言わずに、また作業へ戻る。


あの日から、そういう間が少し増えた。


アダムは前より慎重になっていった。

手を伸ばす前に一旦間を置く。

触れそうになると、思い出したように引くこともある。


けれどその一拍が、リリスを安心させるわけではなかった。

近づきかけて止まる手を見るたびに、肩に残った感触だけが先に戻ってくる。


布の上に最後の果実を置き終えた時だった。


「リリス」


振り向くと、ミカエルが立っていた。


白を基調とした式服に、深い青の差し色。

陽の下にいても、その輪郭はどこか鋭く、彼はいつものように真っ直ぐだ。

迷いのない立ち方で、迷いのない眼差しで、そこにいる。


「少し、話してもいいか」


リリスは果実から手を離した。


「……ええ」


ミカエルは彼女を急かさず、水辺の方へ歩き出した。


前を行く背中は大きい。歩幅は一定で、振り返らなくてもついてくると信じている足取りだった。

リリスはその後ろを歩いた。

草を踏む音だけが二つ、交互に続く。


水辺に着くと、ミカエルはそこでようやく足を止めた。


「アダムから少し話を聞いた」


リリスは何も言わなかった。


「君がまだ、彼を怖がっているようだと」


――怖がっている。


その言葉を聞いた瞬間、リリスは自分の指先が震えた事に気づき、

そっと衣の裾を握って落ち着こうとした。


――嫌だった。

――受け入れられなかった。


そのどちらでもなく、『怖がっている』と呼ばれる。

それだけで、自分の立っている場所から、少し後ろへ押し戻される様な気がした。


「……怖がっている、のかしら」


リリスがそう返すと、ミカエルは少しだけ表情をゆるめた。


彼は、責めているのではない。

ちゃんと話せば伝わると信じている顔だった。


「君自身がそう呼びたくないのなら、そうは言わない。だが、アダムは困っていた。君を傷つけたつもりはないのに、どうしてよいか分からないと」


リリスは水面を見る。

ゆるやかな波が、空の色を揺らしている。


「彼は、優しくしようとしていたのだと思うわ」


「なら、それでいいじゃないか」


ミカエルはすぐにそう言った。

あまりに早い返答だった。


リリスは顔を上げる。


「……それでいいの?」


「アダムは君を害そうとしているわけではない。乱暴に扱ったわけでも、軽んじたわけでもない。むしろ逆だ。彼は君を大切にしようとしている」


大切にしようとしている…。


その言葉に、アダムのあの声が重なる。


――大丈夫、僕は君を大事にするつもりだから。


リリスの肩が、ほんのわずかにこわばった。


「でも、私は嫌だったわ」


小さな声だった。

けれどミカエルは聞き落とさなかった。


「嫌、か」


彼はその言葉を繰り返し、考えるように一度黙った。


「リリス。嫌だと感じること自体が罪だとは言わない。だが、それだけで彼を遠ざけるのは違うだろう」


リリスは黙ったまま、ミカエルを見た。


「アダムは始まりの男だ。先に立つ責務がある。強い者が前に立ち、守るべき者を守ることは、不当ではない。君は軽んじられているわけじゃない。守られているんだ」


守られている。


その言葉は、自分が思っていたよりも心の近い場所へ響いた。

秩序や配置なら、まだ遠いところに置いておけた。

けれど、守る、守られる、前に立つ、後ろにいる。そう言われると、それはすぐに身体の距離になる。


いまも、ミカエルはリリスの少し前に立っている。


「……私は、守られたいわけじゃない」


声はかすれなかった。

けれど、自分でも驚くほど低かった。


ミカエルは眉をひそめる。


「それは、今はそう思っているだけだ。君はまだこの庭にも、彼にも慣れていない。怖れや戸惑いがあるのだろう」


「嫌だと思う私が、間違っているの?」


その問いには、さすがにミカエルもすぐには答えなかった。


風が二人の間を通り抜ける。

水辺の草が、寝返りを打つように揺れた。


「……間違いだとは言わない。だが、それだけを正しさとすることもできない。君はまだ、与えられた位置を自分のものとして受け取れていないだけだ」


受け取れていない。


リリスはその言葉を胸の内でなぞった。


位置を、

自分のものとして。

受け取る。


「伴侶って……嫌でも受け入れるものなの?」


ミカエルはそこで初めて、ほんの少し目を伏せた。


彼なりに慎重に言葉を選んでいるのだと分かる。

けれど、その慎重さは、リリスの問いに触れるためというより、崩れない形を探しているように見えた。


「嫌でも、とは言わない。だが、伴侶とは争うための関係ではない。共に歩み、支え合うために与えられたものだ。そのためには、いずれ受け入れねばならないこともある」


受け入れねばならないこと。


その響きに、別の記憶が薄くひらいた。


ガブリエルから聞いた、伴侶として予定されている役目の話。

身体の違い。

子を宿す側であること。

命を繋ぐということ。


あの時のリリスには、まだ遠い知識でしかなかった。

聞いても、どこか遠く、別の誰かのものように思えた。


けれど今、ミカエルがまっすぐこちらを見て告げる。


「君たちは始まりの二人なのだ。今はまだ戸惑っていても、いずれこの先へ続く役目を担うことになる」


あの時遠かった言葉が、今、急に身体の近くまで迫ってくるのを感じた。


喉が詰まる。

指先が冷たくなる。

目の前にあるはずの風景が、少しずつ遠ざかっていく。


どういうふうに?

何をもって?

どこまで?


その先を、はっきり言われたわけではない。

それでも、言われなかった部分まで、音を立てて近づいてくる。


ミカエルはその沈黙を、怯えとして受け取ったらしい。


「怖がる必要はない。アダムはきっと、君をきちんと支える。だから彼を信じればいい」


慰めのつもりなのだと分かった。

彼が、本気でそう思っていることも。


だから、余計に息がしづらかった。


リリスはようやく、かすかに息を吐いた。


「……そう」


それしか言えなかった。


もっと違うことを言いたかった気がする。

自分が聞きたかったのは、本当にこれだったのか?とも思う。


けれど、何をどう言い直せばよかったのかは、もう分からなかった。


ミカエルはその返答を、いくらか落ち着いたものとして受け取ったようだった。


「君が落ち着いたなら、それでいい。急がせるつもりはない。無理を言うつもりもない。だが、アダムを遠ざけすぎないでやってほしい」


その言い方まで、正しかった。

責めず、叱らず、それでも結論だけは変えない。


リリスは頷かなかった。

けれど否定もしなかった。


その曖昧さを、ミカエルは追わない。



話は終わったのだ。



 ――――



エデンへ戻る道すがら、リリスはほとんど何も聞いていなかった。

聞いていない、と言うより耳に入ってこなかった。


前を行く、ミカエルの足取りも、水の音も、葉の擦れる音も、来た時よりも遠かった。


顔をあげると、アダムの姿が見えた。

こちらに気づくと、彼はぱっと顔を明るくして手を振る。


「リリス!」


いつもの声だった。

少し高くて、嬉しそうで、疑いがない。


リリスも手を上げた。


振り返したつもりだった。

けれどそれは、自分でも驚くほど弱い動きだった。


「どうだった?」

「ミカエルは何か言ってた?」

「少しは気が晴れた?」


アダムの顔には、心配と安堵が並んでいた。

本気で彼女のことを気にかけているという顔だった。


少しは気が晴れた。


その言葉の向こうに、さっき聞いた声が重なる。


守られている。

彼を信じればいい。

いずれ受け入れねばならない。


アダムはただ、こちらを見ている。

いつものように、優しい顔で。


リリスは、その笑顔を見つめ返すことができなかった。

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