第12話「伴侶という距離」
日下がりのエデンには、まだ陽の気配が濃く残っていた。
木々の間にひらけた小さな花畑で、背の低い花が一面に揺れている。
色の薄いもの、深いもの、丸い花弁、細い花弁。風が通るたび、花の頭がばらばらの速さで傾いた。
蜜の匂いに誘われたのか、小さな鳥が一羽、リリスの指先にとまっていた。
もう一羽は肩に移り、羽をふるわせながら首をかしげる。
その様子に、リリスは自然と笑みがこぼれた。
指に触れる細い足の感触も、肩に乗る小さな重みも、怖がらずにそのまま受け取る。
少し離れた場所から、アダムがリリスを見ていた。
花畑の真ん中に座り、小鳥に囲まれている彼女の後ろ姿を見て、もうずいぶん、この庭に馴染んだのだと思った。
自分の教えたことを素直に覚え、獣や鳥ともこうして過ごせる。
そう見えることが、アダムには素直に嬉しかった。
「リリス」
呼ばれて、リリスが振り向く。
その拍子に、鳥たちは驚いたのか軽い羽音を残して飛び立った。
「アダム、どうしたの?」
アダムは答えかけて、そこで息を止めた。
リリスの膝の上に、白く長い生き物が横たわっていた。
腕に頭と長い体を預け、赤い瞳だけが細く光を返している。
「リリス!」
「え?」
「そ、それは……」
リリスは蛇を見下ろし、それから面白そうに目を細めた。
「この子、不思議だと思わない?ずいぶん体の長い子なの。それに他の子たちと違って、ふわふわした毛も羽もないのよ。つるつるしているの!足もないのに、どうやって歩いているのかしら。あなた、本当に不思議な子ね」
そう言って、その生き物をひょいと持ち上げる。
白い体が腕から垂れ、赤い舌がちろちろと空気を舐めた。
アダムは思わず一歩近づいた。
「危ないよ!前に見たんだ。その子には鋭い牙がある」
「でも、大人しいわ。ほら」
「でも……」
リリスは蛇を抱いたまま、ふと首を傾げる。
「この子はなんて名づけたの?」
「え?」
「もう名前をつけたんでしょう? 前に見たのよね?」
アダムは一瞬、言葉に詰まった。
「うん……それは、そうなんだけど…。思い浮かばなくて」
「そうなの?」
リリスはくすりと笑った。
「珍しいのね。いつもならすぐに名前を付けちゃうのに」
「リリス、からかわないでくれよ……」
困った顔をするアダムを見たあとで、リリスはもう一度、蛇と目を合わせた。
「あなたには、まだ名前がないんですって。いい名前をもらえるといいわね」
その生き物は言葉の終わりを待っていた様に、するりとリリスの腕から離れた。白い体は草と花のあいだを滑り、やがて見えなくなる。
アダムはそこでようやく息をついた。
本気で驚いていたのだろう。
その様子が少しおかしくて、リリスはまた笑った。
花畑の上を、さっきの鳥たちが遠くへ飛んでいく。
羽音が小さくなっても、リリスの口元にはまだ笑みが残っていた。
それから少しして、二人は住まいのそばの畑へ戻った。
この暮らしにも、いくつか決まった手つきが生まれている。
どこで水を汲むか。
どこへ苗を植えるか。
どのあたりに実のなる作物を置くか。
小さな寝床のそばには、二人で整えた畝がいくつか並んでいた。
リリスは、両手で包んでいた小さな袋を開いた。
中には、粒の細かな種が入っている。
「このあいだ、見回りの天使たちに花はどうやって咲くのか聞いたの。そしたら、花も作物と同じで種から育つんですって。それでね、ミカエルが管理用に持っていた種を少し分けてくれたの。これは夜になると光るんですって!ここに植えてもいい?」
アダムは畝を見下ろしたあと、すぐに答えた。
「そこは赤い実の成る作物を植えるための場所なんだ。だから、花は後でいいよ。先にこっちを植えよう。この庭には花はたくさん咲いているじゃないか」
リリスは、種の入った袋を握ったまま顔を上げる。
「でもね――!」
「いろいろ考えてくれてありがとう、リリス」
穏やかな声だった。
遮ったことにも、たぶん気づいていない。
頼るような、感謝するような顔のまま、アダムはもう次の段取りへ進んでいる。
「……ええ」
リリスは袋の口をそっと閉じた。
命じられたわけではない。
怒られたわけでもない。
ただ、手の中の小さな種が、急に置き場所をなくしたように思えた。
「僕はわかってるよ。君がこの住まいをよくしようとしてくれてること。二人の住まいだものね。作物が育ったら、その花を植えて、雰囲気をよくしていこう」
「……そうね」
アダムは満足そうに頷いた。
それから、何のためらいもなく続ける。
「君は僕のためにいろんな提案をしてくれる。本当に、君がいると僕の心まで明るくなるよ」
その言葉と一緒に、アダムの手が伸びた。
肩に置かれる。
組むように、包むように。
そこからそのまま、髪へ触れようと指が滑った。
――近い。
そう思うより先に、リリスの身体がこわばった。
肩がすくみ、息が喉で止まる。
指先から袋の感触が遠のいた。
「……やめてっ」
絞り出したような声だった。
大きくはない。
けれど、はっきりしていた。
アダムの手が止まる。
「リリス、どうしたの?」
「どうって……」
「そんなに怖がることじゃないだろう?僕たちは伴侶なんだ」
「……それは、知ってる……けど……」
アダムは眉を下げた。
怒ってはいない。
本当に戸惑っている顔だった。
「驚かせてしまったんだね。大丈夫、僕は君を大事にするつもりだから」
大事にする。
その声はやわらかく、だからこそ、リリスの喉を細くふさいだ。
「……そ、そういうことじゃないの……」
言葉がうまく出てこない。
肩に残った手の重さだけが、まだ消えない。
「嫌だったの……私は、嫌だった」
アダムは何も言えなかった。
その顔には、怒りよりも先に、ただ理解できないという色が浮かんでいた。
風が、二人のあいだを抜けていった。
土の匂いだけが濃く残る。
――――
夕方近くになると、空の色は少しやわらぎ、畑の上の影も長くなった。
夕方近くになると、アダムの声はいつもの明るさに戻っていた。
少し驚かせた。
まだ慣れていない。
おそらく、それくらいのこととして受け取っている。
だから、いつも通りに声をかけてくる。
「水を飲もうよ」
「果実も取ってきたんだ。一緒に食べよう」
リリスは受け取り、拒まなかった。
けれど指先が触れそうになるだけで、肩がまた小さく固くなる。
アダムはその顔を見て、気遣うように笑った。
「もう怒ってない?」
「……ええ」
「僕たちは一緒に生きる伴侶なんだから、そんなに身構えなくてもいいじゃないか。こういうのにも、そのうち慣れるよ」
慣れる。
その一言だけが、リリスの中で、いつまでも浮いて沈むことはなかった。
彼にとって、あれは慣れていないだけのことなのだ。
怖がることではなく、拒むことでもなく、いつか自然になるはずのもの。
リリスは果実を持ったまま、指に力を込めた。
皮の薄いところが、爪の形にわずかにへこんだ。
「……そう」
それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
――――
夜になると、リリスはいつも通り、ひとり水辺に出た。
昼に触れられた肩へ、自分の手を置く。
その上からもう片方の手で抱くようにして、ゆっくり息を吸った。
水面には星が落ちていた。
揺れるたびに細かく砕け、またひとつの光へ戻っていく。
アダムが悪意でやったのではないことは、わかっている。
きっと彼にとっては当然のことだった。
伴侶だから。
そういうものだから。
だとしたら。
リリスは肩を押さえる手に、少しだけ力を込めた。
この身体が先に拒んだことは、どこへ行けばいいのだろう。
水辺の空気は冷たかった。
それでも、肩に残る感触はなかなか薄れなかった。
戻ると、寝床には、さっきまで眠っていたはずのアダムがうっすらと目を開けていた。
こちらの気配に気づいたのだろう。
「おかえり」
眠たげな声だった。
「冷えなかった?こっちへおいでよ」
彼は責めない。
咎めない。
ただ、当たり前のように迎え入れる。
リリスは少しだけ息を吐き、いつものように横になった。
けれど今日は、ほんの少しだけ距離を取った。
アダムに背を向ける。
肩が、身体が触れない場所を選ぶ。
それだけのことなのに、心臓が妙に早かった。
アダムは何も言わない。
気づいていないのか、気づいても意味を計っていないのか、それはリリスには分からない。
やがて、規則正しい呼吸が聞こえ始めた。
リリスは、横になっても、落ち着かなかった。
肩に置かれた手。
髪へ伸びてきた指。
大事にする、と言った声。
リリスは自分の手を見た。
少しだけ震えている。
それに気づいて、胸元で握り込む。
泣くほどではなかった。
まだ、泣き方も知らなかった。
ただ、身体を小さく丸める。
目を閉じても、近づいてきた手の気配だけが消えない。
伴侶だから、そういうものなの?
正しいのは、向こうなの?
――――なら、私のこの『嫌』は、いったいなんなの?




