表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/17

第12話「伴侶という距離」

日下がりのエデンには、まだ陽の気配が濃く残っていた。


木々の間にひらけた小さな花畑で、背の低い花が一面に揺れている。

色の薄いもの、深いもの、丸い花弁、細い花弁。風が通るたび、花の頭がばらばらの速さで傾いた。


蜜の匂いに誘われたのか、小さな鳥が一羽、リリスの指先にとまっていた。

もう一羽は肩に移り、羽をふるわせながら首をかしげる。


その様子に、リリスは自然と笑みがこぼれた。

指に触れる細い足の感触も、肩に乗る小さな重みも、怖がらずにそのまま受け取る。


少し離れた場所から、アダムがリリスを見ていた。


花畑の真ん中に座り、小鳥に囲まれている彼女の後ろ姿を見て、もうずいぶん、この庭に馴染んだのだと思った。

自分の教えたことを素直に覚え、獣や鳥ともこうして過ごせる。

そう見えることが、アダムには素直に嬉しかった。


「リリス」


呼ばれて、リリスが振り向く。

その拍子に、鳥たちは驚いたのか軽い羽音を残して飛び立った。


「アダム、どうしたの?」


アダムは答えかけて、そこで息を止めた。

リリスの膝の上に、白く長い生き物が横たわっていた。


腕に頭と長い体を預け、赤い瞳だけが細く光を返している。


「リリス!」


「え?」


「そ、それは……」


リリスは蛇を見下ろし、それから面白そうに目を細めた。


「この子、不思議だと思わない?ずいぶん体の長い子なの。それに他の子たちと違って、ふわふわした毛も羽もないのよ。つるつるしているの!足もないのに、どうやって歩いているのかしら。あなた、本当に不思議な子ね」


そう言って、その生き物をひょいと持ち上げる。

白い体が腕から垂れ、赤い舌がちろちろと空気を舐めた。


アダムは思わず一歩近づいた。


「危ないよ!前に見たんだ。その子には鋭い牙がある」


「でも、大人しいわ。ほら」


「でも……」


リリスは蛇を抱いたまま、ふと首を傾げる。


「この子はなんて名づけたの?」


「え?」


「もう名前をつけたんでしょう? 前に見たのよね?」


アダムは一瞬、言葉に詰まった。


「うん……それは、そうなんだけど…。思い浮かばなくて」


「そうなの?」


リリスはくすりと笑った。


「珍しいのね。いつもならすぐに名前を付けちゃうのに」


「リリス、からかわないでくれよ……」


困った顔をするアダムを見たあとで、リリスはもう一度、蛇と目を合わせた。


「あなたには、まだ名前がないんですって。いい名前をもらえるといいわね」


その生き物は言葉の終わりを待っていた様に、するりとリリスの腕から離れた。白い体は草と花のあいだを滑り、やがて見えなくなる。


アダムはそこでようやく息をついた。

本気で驚いていたのだろう。

その様子が少しおかしくて、リリスはまた笑った。


花畑の上を、さっきの鳥たちが遠くへ飛んでいく。

羽音が小さくなっても、リリスの口元にはまだ笑みが残っていた。


それから少しして、二人は住まいのそばの畑へ戻った。


この暮らしにも、いくつか決まった手つきが生まれている。

どこで水を汲むか。

どこへ苗を植えるか。

どのあたりに実のなる作物を置くか。

小さな寝床のそばには、二人で整えた畝がいくつか並んでいた。


リリスは、両手で包んでいた小さな袋を開いた。

中には、粒の細かな種が入っている。


「このあいだ、見回りの天使たちに花はどうやって咲くのか聞いたの。そしたら、花も作物と同じで種から育つんですって。それでね、ミカエルが管理用に持っていた種を少し分けてくれたの。これは夜になると光るんですって!ここに植えてもいい?」


アダムは畝を見下ろしたあと、すぐに答えた。


「そこは赤い実の成る作物を植えるための場所なんだ。だから、花は後でいいよ。先にこっちを植えよう。この庭には花はたくさん咲いているじゃないか」


リリスは、種の入った袋を握ったまま顔を上げる。


「でもね――!」


「いろいろ考えてくれてありがとう、リリス」


穏やかな声だった。

遮ったことにも、たぶん気づいていない。

頼るような、感謝するような顔のまま、アダムはもう次の段取りへ進んでいる。


「……ええ」


リリスは袋の口をそっと閉じた。


命じられたわけではない。

怒られたわけでもない。


ただ、手の中の小さな種が、急に置き場所をなくしたように思えた。


「僕はわかってるよ。君がこの住まいをよくしようとしてくれてること。二人の住まいだものね。作物が育ったら、その花を植えて、雰囲気をよくしていこう」


「……そうね」


アダムは満足そうに頷いた。

それから、何のためらいもなく続ける。


「君は僕のためにいろんな提案をしてくれる。本当に、君がいると僕の心まで明るくなるよ」


その言葉と一緒に、アダムの手が伸びた。


肩に置かれる。

組むように、包むように。


そこからそのまま、髪へ触れようと指が滑った。


――近い。


そう思うより先に、リリスの身体がこわばった。

肩がすくみ、息が喉で止まる。

指先から袋の感触が遠のいた。


「……やめてっ」


絞り出したような声だった。

大きくはない。

けれど、はっきりしていた。


アダムの手が止まる。


「リリス、どうしたの?」


「どうって……」


「そんなに怖がることじゃないだろう?僕たちは伴侶なんだ」


「……それは、知ってる……けど……」


アダムは眉を下げた。

怒ってはいない。

本当に戸惑っている顔だった。


「驚かせてしまったんだね。大丈夫、僕は君を大事にするつもりだから」


大事にする。


その声はやわらかく、だからこそ、リリスの喉を細くふさいだ。


「……そ、そういうことじゃないの……」


言葉がうまく出てこない。

肩に残った手の重さだけが、まだ消えない。


「嫌だったの……私は、嫌だった」


アダムは何も言えなかった。


その顔には、怒りよりも先に、ただ理解できないという色が浮かんでいた。


風が、二人のあいだを抜けていった。

土の匂いだけが濃く残る。


――――


夕方近くになると、空の色は少しやわらぎ、畑の上の影も長くなった。


夕方近くになると、アダムの声はいつもの明るさに戻っていた。

少し驚かせた。

まだ慣れていない。

おそらく、それくらいのこととして受け取っている。


だから、いつも通りに声をかけてくる。


「水を飲もうよ」

「果実も取ってきたんだ。一緒に食べよう」


リリスは受け取り、拒まなかった。


けれど指先が触れそうになるだけで、肩がまた小さく固くなる。


アダムはその顔を見て、気遣うように笑った。


「もう怒ってない?」


「……ええ」


「僕たちは一緒に生きる伴侶なんだから、そんなに身構えなくてもいいじゃないか。こういうのにも、そのうち慣れるよ」


慣れる。


その一言だけが、リリスの中で、いつまでも浮いて沈むことはなかった。


彼にとって、あれは慣れていないだけのことなのだ。

怖がることではなく、拒むことでもなく、いつか自然になるはずのもの。


リリスは果実を持ったまま、指に力を込めた。

皮の薄いところが、爪の形にわずかにへこんだ。


「……そう」


それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。

 


――――


 

夜になると、リリスはいつも通り、ひとり水辺に出た。


昼に触れられた肩へ、自分の手を置く。

その上からもう片方の手で抱くようにして、ゆっくり息を吸った。


水面には星が落ちていた。

揺れるたびに細かく砕け、またひとつの光へ戻っていく。


アダムが悪意でやったのではないことは、わかっている。

きっと彼にとっては当然のことだった。


伴侶だから。

そういうものだから。


だとしたら。


リリスは肩を押さえる手に、少しだけ力を込めた。


この身体が先に拒んだことは、どこへ行けばいいのだろう。


水辺の空気は冷たかった。

それでも、肩に残る感触はなかなか薄れなかった。




戻ると、寝床には、さっきまで眠っていたはずのアダムがうっすらと目を開けていた。

こちらの気配に気づいたのだろう。


「おかえり」


眠たげな声だった。


「冷えなかった?こっちへおいでよ」


彼は責めない。

咎めない。


ただ、当たり前のように迎え入れる。


リリスは少しだけ息を吐き、いつものように横になった。

けれど今日は、ほんの少しだけ距離を取った。


アダムに背を向ける。

肩が、身体が触れない場所を選ぶ。


それだけのことなのに、心臓が妙に早かった。


アダムは何も言わない。

気づいていないのか、気づいても意味を計っていないのか、それはリリスには分からない。

やがて、規則正しい呼吸が聞こえ始めた。


リリスは、横になっても、落ち着かなかった。


肩に置かれた手。

髪へ伸びてきた指。

大事にする、と言った声。


リリスは自分の手を見た。

少しだけ震えている。


それに気づいて、胸元で握り込む。


泣くほどではなかった。

まだ、泣き方も知らなかった。


ただ、身体を小さく丸める。

目を閉じても、近づいてきた手の気配だけが消えない。


伴侶だから、そういうものなの?


正しいのは、向こうなの?


――――なら、私のこの『(いや)』は、いったいなんなの?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ