第2話「白い庭の子どもたち」
「人の住まう庭ができる。管理はミカエルとガブリエルに任せるそうだ」
ルシフェルがそう告げると、四人のあいだに短い沈黙が落ちた。
最初に反応したのは、やはりミカエルだった。
背筋がすっと伸びる。ただでさえ真っ直ぐな立ち姿が、さらに張りつめる。
「承知しました、兄上」
その隣で、ガブリエルはもう次の段取りへ意識を向けているようだった。
「それで、配置は? 役割分担はどうなる?」
ラファエルは二人の声を聞きながら、それより先にルシフェルの顔を見ていた。
兄の様子を確かめるように、そっと視線を置いている。
やがて、やわらかな声で言う。
「ミカエルとガブリエルなら大丈夫だね」
その横で、ウリエルだけは黙っていた。
考え込む時の癖なのか、視線がわずかに落ちている。
しばらくしてから、彼は口を開いた。
「……人は、自らを増やしていく存在なのが、やはり不思議だ」
ミカエルが振り向く。
「そこが気になるのか?」
「この計画を知らされてからずっと気になっていた。庭を守り、育み、増えていく。父上は、人にずいぶん多くを任せるつもりらしい」
「そのようだ」
ガブリエルは低く繰り返し、それからルシフェルを見る。
「父上は、どこまで話された?」
「庭はすでに整えられているそうだよ。地上の中でも、人のために特別に用意された場所だと」
ルシフェルは四人を見渡しながら、ゆるやかに言葉を継いだ。
「食べるものに困ることはない。多くの木々が育ち、獣も鳥もそこに集う。人はその場所を守り、育み、そこで生きる。そして、自らを増やしていく」
「なら、まずは周囲の確認が必要ですね」
ミカエルの声に、もう迷いはなかった。
「水場と、暮らしに使えるものの把握も要るな。人がどのように過ごせるのか、庭を先に見ておきたい」
ガブリエルもすぐに続く。
「もし痛みを感じたり、弱ったりするなら、その時にどう支えればいいのかも考えたいな」
ラファエルが言う。
「増える、という前提があるなら、寿命や変化もあるはずだ」
最後に、ウリエルが落ち着いた声で結んだ。
四人の声が、少しずつ重なっていく。
ルシフェルは、それにひとつずつ答えた。
「ミカエル、まず守ることだけを考えるのは早いよ。まだ、人が何を怖がるのかも分からない」
「……はい、兄上」
「ガブリエル、焦らなくていい。配置はあとでいくらでも整えられる」
「ですが、兄さま」
「分かっているよ。君が人のために考えたいのも、整えておきたいのも」
ガブリエルは小さく口をつぐみ、それでも納得しきれない顔で息を吐いた。
「ラファエル、それは多分、これから分かる」
「うん。でもね、兄さん、もし人が痛みを感じるなら、先に知っておきたいと思って」
「ウリエル」
「……なんです」
「そこまで難しい顔をしなくてもいい」
「兄様、そういう問題ではありません」
「君にはそうか」
最後の返答だけ、ルシフェルは少し笑った。
四人はそれぞれ違う形で、この新しい話を受け取っていた。
けれど、誰もが同じようにルシフェルの言葉を待っていた。
昔から、そうだった。
彼らが今よりずっと小さかった頃。
白い衣の裾を掴んでは、口々に問いを投げてきた。
何と呼べばいいのか。どこへ行けばいいのか。どうすればうまく飛べるのか。
みな、今よりずっと軽く、声も高かった。
つい昨日のことのように思い出せるのに、その時間はもうずいぶん遠い。
「兄さん、どうしたの?」
ラファエルの声で、ルシフェルはゆるやかに現実へ戻った。
「いや」
首を振って、いつものように微笑む。
「皆、大きくなったなと思っていただけだよ」
「今さらですか」
「今さらだね」
「兄上はたまにそういうことを言う」
「そういうところは、昔から変わらない」
ミカエルとウリエルとガブリエルが、それぞれ少しずつ違う調子で返す。
ラファエルだけが、くすくすと笑っていた。
「兄さんは、昔から順番に僕たちの話を丁寧に聞いてくれるよね」
その何気ないひと言に、ミカエルが頷く。
「聞きすぎるくらいです。しかも全部抱えようとする」
「しかも、それを当然のように引き受けてしまう」
ガブリエルが言い、ルシフェルは困ったように肩をすくめた。
「褒められている気がしないな」
「褒めてはいません」
「でも、みんな兄さんが好きだから言えるんだよ」
ラファエルがそう付け足すと、ガブリエルは少しだけ視線を逸らした。
ミカエルは腕を組み、ウリエルはまだ何かを考えている。
「では、準備を始めよう」
最初にそう言ったのはガブリエルだった。
「父上のお言葉なら、早い方がいい。必要な天使たちも集めないと」
「俺も行こう」
「僕も手伝うよ。ほら、ウリエルも」
ラファエルが穏やかに笑って、ウリエルの腕を引く。
ウリエルは露骨に嫌そうな顔こそしなかったが、考え込んだまま惹かれている。
皆の意識は、すでに新しく始まる庭へ向いていた。
弟妹たちがそれぞれの役目へ向かっていく姿を、ルシフェルは見送っていた。
「兄さま?」
ガブリエルの声に、ルシフェルは顔を上げた。
「なんだい?」
「兄さまは、人の住まう庭には来られないのか?」
その問いに、ミカエルもラファエルもウリエルも、わずかに視線を向けた。
ルシフェルは少しだけ考えるように間を置いてから、やわらかく言った。
「そうだね。俺は残念ながら、相変わらず父上の対話役だ」
「そう……」
ガブリエルは小さく頷いた。
納得したようでもあり、していないようでもある声色だった。
「だから、任せたよ。ガブリエル」
そう言って、ルシフェルはいつもの癖のように手を伸ばした。
頭を撫でようとして、しかしその手はぱし、と軽く払われる。
「……っ! 兄さま! もう子供扱いをしないで」
「ごめん、つい」
困ったように笑うルシフェルを見て、ガブリエルは一度だけ唇を引き結んだ。
それから、少しだけ視線を伏せる。
「……でも。任せて、兄さま」
「うん」
その返事は、どこまでもやわらかかった。
ほどなくして、人の住まう庭――“エデン”のことは、天界全体へと伝えられた。
神が地上に、特別な庭を用意したこと。
そこは見た目に美しく、食べるものに困らぬよう多くの木々が育ち、獣や鳥たちとも調和して暮らせる場所であること。
人はそこで、その庭を守り、育み、やがて数を増やしていく存在であること。
そして、その中央には神が特別に置いた木が二つあること。
ルシフェルは父の言葉を受け取り、それを少しも違えずに天界へ伝えた。
それが長く自分に与えられてきた役目であり、今も変わらぬ立ち位置だった。
父の新しい物語が始まり、弟妹たちはそれぞれ役目を得た。
天は整い、物事は正しい順で動いている。
それは喜ばしいことであるはずだった。
――――
神は言った。
「彼らには役割を与えよう」
「関係を与え、場所を与え、意味を与えよう」
「そうすれば彼らは、世界の中で迷わずに済む」
それは、疑いようもなく整った計画だった。
ルシフェルもまた、いつも通り誇りと敬意をもってその言葉を受け取っていた。
神の言葉は、今日も少しも乱れていない。
世界が続いていくための、正しい一文だった。
だからルシフェルは、いつものように頷いた。
いつものように理解し、いつものように他の天使たちへ渡した。
けれど、その奥にひとつだけ、すぐには消えない言葉があった。
意味を与えよう。
正しいはずのその言葉が、ほんのわずかに胸の底へ残った。
――――
弟妹たちはそれぞれ、自分の役目を果たすため歩き始めていた。
ミカエルはまっすぐ前を見て、ガブリエルは必要なものを考え、ラファエルは穏やかに笑い、ウリエルは黙って思索の中にいる。
その背を見ながら、ルシフェルは思う。
どうか皆が、自分に与えられた役目を果たし、天の光と共にあれますようにと。
それは偽りのない願いだった。
けれど胸の底には、まだ問いとも呼べない小さなものが沈んでいた。
それが何に触れて生まれたのか、ルシフェル自身にもまだ分からなかった。




