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第1話「光の届く場所」

夜空を、一筋の光が裂いた。

星のように美しい。そう呼ぶには、あまりにも迷いがない。

それは天から地へ、ただ一直線に落ちていく。


天から落ちた光を、人は堕落と呼ぶ。

けれど私は、それを“選択”と呼ぶ。



――『夜と流星のマージナリア』――



その光がまだ、ルシフェルと呼ばれていた頃。


そこは、何ひとつ乱れのない場所だった。


影は決められた位置にやわらかく伏し、白い花々は咲くべき時を違えない。風は吹いても衣の裾を乱さず、満ちる光にも過不足がなかった。


神の言葉によって整えられたこの天には、欠けも、余りもない。

あるべきものが、あるべきところにある。

そうであることを、誰も疑わない。


白い花に囲まれた庭園の奥、光を透かすガゼボの中で、一人の天使が本を読んでいた。


白に近い銀の髪が肩先で流れ、伏せた睫毛の影が頬に落ちている。紫を差した白の式服も、背に揃う六枚の羽根も、この庭の光の中では目立つことすらない。ただ、そこにあるべくしてあるように馴染んでいた。


頁を繰る指先に迷いはない。卓上の紅茶からは、淹れたばかりの香りがまだ立っている。

一頁を読み終え、彼は静かにカップを取り、ひとくちだけ口をつけた。


その時だった。


顔を上げるより先に、視線だけが庭園の向こうへ流れる。石畳を踏む足音が、まっすぐこちらへ近づいてきていた。


やがて姿を現したのは、同じ白の式服に深い青を差した、長い金髪の青年だった。足取りに迷いはない。だがガゼボに近づくにつれ、その端正な顔にわずかなためらいが混じる。


「兄上……いえ、失礼しました。ルシフェル様、またここにいたんですね。父上がお呼びですよ」


本から目を上げたルシフェルが、ふっと笑う。


「やあ、ミカエル」


それだけで、ミカエルの肩から少し力が抜けた。咎められているわけでもないのに、どうしてか身構えた気配がほどける声だった。


「やれやれ。紅茶を淹れたばかりだというのに。今日は何をご所望かな、我らが父上は」


言いながら本を閉じる。閉じられた頁のあいだから、白い栞がひとつ覗いた。


ミカエルは小さく息をつく。呆れというより、何度も繰り返してきたやりとりへの苦笑に近い。


「ルシフェル様。終わったら皆でお茶にしますから」


「それはとてもいいね」


ルシフェルは立ち上がった。長い指がカップの取っ手を離れ、揃えられた羽根がかすかに揺れる。

その背を、ミカエルが静かに待つ。


この天は、父なる神が整えた世界だった。


与えられた名と役目は、それぞれの光が曇らぬよう、過不足なく並べられている。

その中でも、最初に生まれた天使ルシフェルは、最も高みに近い場所に立つ存在だった。


神の言葉を最も深く理解し、それを他の天使たちへと届ける者。

誰よりも美しく、誰よりも穏やかで、長く皆を導いてきた光。

そしてミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルたち四大天使にとっては、敬愛すべき兄でもあった。


ガゼボを出たルシフェルのあとを、ミカエルが半歩後ろから追う。


二人が白い回廊へ出ると、向こうから書類の束を抱えた天使が歩いてくるのが見えた。暗い茶の髪に、眼鏡の奥の静かな目。姿勢は崩れず、歩幅は一定で、抱えた書類の端まできちんと揃っている。庭園の静けさとは別の、運ばれ、整理され、滞りなく処理されるものだけが纏う気配を、その天使は持っていた。


ベルゼブブだった。


彼はルシフェルの姿を認めると、足を止めることもなく言った。


「呼ばれたのか」


「うん。君も忙しそうだね」


「いつも通りだ」


「後で話そう」


「……手短にな」


それだけ言って通り過ぎていく。

ミカエルがわずかに眉を寄せる横で、ルシフェルは小さく笑った。


「相変わらずだね」


天界でルシフェルにその調子で声をかける者は、そう多くない。


「あなたが相手だからでしょう」


言ってから、ミカエルは少しむっとしたように前を向く。

ルシフェルは何も返さず、ただ楽しそうに目を細めた。


回廊の先、最も高い棟にある部屋へ辿り着くころには、庭園の花の香りも遠のいていた。


神の部屋は、広かった。


豪奢というより、余分がない。白い石で組まれた空間の奥には大きな窓があり、その向こうに天界のすべてを見渡せる。書棚も机もあるのに、そこには暮らしの痕跡がひとつもない。ここに置かれたものは、使われるためというより、そこにあること自体が定められているように見えた。


窓辺に、一人の男が立っていた。


白に近い金の髪は長く、片側へ流された三つ編みが静かに胸元を越えて落ちている。

身に纏うのは礼拝衣に似た白い長衣。飾りは乏しいのに、なぜかそれ以上のものを足す余地がなかった。


どこかルシフェルを思わせるものはある。だが、似ているのは輪郭だけだった。

白に近い灰の瞳は、こちらへ向いているはずなのに、見つめられている感じが薄い。

口元には笑みのようなものがあったが、その理由はどこにも着地していない。

その背中には温度がない。広がる白を見下ろす姿は、世界そのものをひとつの文章として読んでいるようだった。


「遅かったね、ルシフェル」


振り向かないまま、神が言う。


ルシフェルは胸に手を添え、軽く会釈した。


「やあ、父上。紅茶を淹れたところだったんだ」


「そうか。それは悪いことをしたね」


ようやく神が振り向く。口元はわずかに笑んでいるようにも見える。

だがそれが喜びなのか、ただそういう形を取っただけなのかは分からない。


「それで、今日は何かな、父上」


ルシフェルはにこやかに問う。


「これを最初に聞くのは君であるべきだろう。以前話した、“神の似姿”のことだ」


一瞬だけ、ルシフェルの瞳が揺れた。


「以前話していた、あなたを象った“人間”という存在のことだね。男と女を創り、命を繋ぎ、数を増やす」

「地上に満ちる命を託し、この世界の隅々まで広がって、物語を編んでいく……そういう存在だったね」


「そうだ」


「それがどうかしたのかな?」


「始まったんだ」


あまりにも何でもないことのように、神は言った。


ルシフェルは一瞬、目を見開く。だが次の瞬間には、伏せた睫毛の影の奥へそれを隠し、かすかに笑った。


「……そうか。随分急なことだね」


「ついさっき、始まりとなる舞台を創った。庭はすでに整えた」


庭。


その言葉に、ルシフェルの視線がほんのわずかに止まる。だが口元の笑みは崩れない。


「だから俺が呼ばれたのかな。それで、何をすればいいんだい?」


「君には、私の物語を最も正しく読む読者でいてもらわねばならない」


「そうだったね」


「今後、人の住まう庭の管理はミカエルとガブリエルに任せる。必要なら他の天使たちも揃えるように。そう彼らに伝えてくれ」


「仰せのままに。父上」


神は再び、窓の向こうへ目を向けた。

その視線の先にあるのは、まだ始まったばかりの地上と、そこへ置かれたばかりの未来だった。


「人は、どんな物語を見せてくれるのだろうね。ルシフェル」


その声は穏やかだった。

けれどそれは期待とも違う。もっと遠い、観測に近い静けさだった。


ルシフェルは少しだけ困ったように笑う。


「……さあ。想像もつかないよ」


部屋を辞したあと、回廊の先にはミカエルだけでなく、ガブリエル、ラファエル、ウリエルの姿もあった。


「兄上」


とっさにそう呼びかけたミカエルの横で、ガブリエルが一歩進み出る。


「父上は何と?」


「人の住まう庭ができる。管理はミカエルとガブリエルに任せるそうだ」


ミカエルはすぐに身を正した。

ガブリエルはその言葉の先を確かめるように、ルシフェルを見つめる。

ラファエルは場の空気ごと受け止めるように目を細め、ウリエルだけが何も言わず、わずかに視線を落として考え込んでいた。


反応の形は違っても、四人ともルシフェルの次の言葉を待っていた。


肩を並べれば、それは見慣れた光景になる。

兄と、弟妹たち。

最も整えられた天の、最も正しい場所にある景色。


そこに、何ひとつ足りないものなどないはずだった。


なのに、その時。


ふと、ルシフェルは白の向こうへ目をやった。


まだ何も見えないはずのその先で、

神の物語の頁が、音もなくめくられたような気がした。


何が書かれたのかを、彼はまだ知らない。

それがやがて、自分の足元まで届くことも。

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