第3話「冷えた紅茶」
足音だけで、誰が来るのかはだいたい分かる。
白い回廊を、ためらいもなく、それでいて妙に気楽な調子でこちらへ歩いてくる足取り。
急いでもいないくせに遠慮もなく、来る前からその場の空気をわずかに崩していくような気配。
ベルゼブブは手元の書類から目を上げず、小さく息を吐いた。
「……来たな」
次の瞬間、扉が開く。
「やあ、ベル。まだ仕事かい? 相変わらず熱心だね」
明るい声だった。
いつも通り、少しだけ人懐こくて、こちらの作業を止めることに何のためらいもない声。
ベルゼブブはようやく顔を上げた。
「お前がサボっているだけだろう」
「サボってはいない。今は休憩だ」
「便利な言い訳だな。お前の休憩とは、人の仕事を遅らせることらしい」
「ははは、俺にそんなことを言ってくれるのは君だけだよ」
そう言って、ルシフェルは勝手知ったる場所のような顔で部屋の奥へ入ってくる。
白を基調とした式服の裾が揺れ、胸元の光の意匠がひときわ淡くきらめいた。
ベルゼブブは机の端に置いたままのティーポットへ手を伸ばした。
「それに、なんだかんだお茶は淹れてくれるんだね」
「お前は茶を出せば静かになるからな」
ルシフェルは目を細める。
「それはつまり、黙って座っていろということかい?」
「理解が早くて助かる」
ルシフェルはくすりと笑い、向かいの椅子へ腰を下ろした。
いつもならここから、もう二つ三つ余計な言葉が続く。
どうでもいい軽口を重ねて、こちらがうんざりする頃にやっと本題が出てくる。
だが今日は、静かすぎた。
ベルゼブブはティーカップに琥珀色を注ぎ、片方をルシフェルの前へ置く。
礼もそこそこに手を伸ばしたルシフェルは、立ちのぼる香りを一度吸い込み、それからゆっくり口をつけた。
「お茶を淹れるのが上手くなったね」
「淹れざるを得なくなったからな」
「誰のおかげだろうね」
「さあな」
そこで、話が切れた。
部屋の静けさが一段深くなる。
いつのまにか、窓辺から差し込む光だけが机の上に白く落ちていた。
ベルゼブブは数枚だけ紙をめくってから、淡々と口を開く。
「お前の兄妹たちがエデンへ降りたそうだな」
向かいで、カップを持つ指がほんのわずかに止まった。
「そうだね」
返事はいつも通りやわらかい。
だが、その先が少し遅れた。
「ミカエルもガブリエルも使命感に満ちていたよ。ラファエルもウリエルも支えるはずだ。
きっと皆でうまくやるだろう。天界のことも、二人が残ったおかげで滞りなく回っている」
そこから先に続くはずの軽さが、来なかった。
ベルゼブブはそこで初めて、はっきりとルシフェルを見た。
にこやかな顔は崩れていない。
声も穏やかだ。
けれど、目の焦点だけがどこか定まりきらない。
「……なんだ?」
ルシフェルが目を上げる。
「なにが?」
「何を考えてる」
一拍の沈黙。
それからルシフェルは、少しだけおかしそうに笑った。
「わかるのかい?」
「知りたくはない」
ベルゼブブは書類を揃えた。
「だが妙だ」
その返しに、ルシフェルは何も言わなかった。
ただ、カップの中へ視線を落とす。
湯気はもうほとんど立っていない。
さっきまで熱かったはずの紅茶は、話の途切れた時間のぶんだけ静かに冷めていた。
しばらくして、ルシフェルがぽつりと言った。
「……なぁ、ベル。君は自分に与えられた役目をどう思ってる?」
ベルゼブブは手を止めた。
問いの意味が分からなかったわけではない。
ただ、その問いをこの男が口にすること自体が妙だった。
「……急に何だ」
「いや」
ルシフェルは視線を上げないまま、カップの縁を指先でなぞる。
「お前がそんなことを聞くのは妙だ」
「……そうかな。そうかもしれないね。少し、考えただけだ」
その言い方が、余計に奇妙だった。
ベルゼブブは何も返さない。
ルシフェルも、それ以上は続けなかった。
部屋の中には、紙の匂いと、冷めかけた茶の香りだけが残る。
やがてルシフェルはカップを置いた。
「ごちそうさま。もう行くよ」
立ち上がる。
それはごく自然な動作のはずなのに、ベルゼブブの中に小さな引っかかりが残った。
おかしい。
いつもならこちらが追い立てるまで帰ろうとしないくせに、今日は自分から切り上げようとしている。
紅茶もまだ残っている。
それも、もうほとんど冷めてしまっている。
「おい、待て」
ルシフェルが扉の手前で足を止めた。
「……なんだい?」
「何があった」
振り向いた顔は、穏やかだった。
だが、それだけだった。
「何を考えてる」
しばしの沈黙のあと、ルシフェルはかすかに目を伏せた。
「……話してもいいのかい?」
ベルゼブブは眉一つ動かさず答える。
「そのために来たんだろう」
その言葉に、ルシフェルはようやく息をついた。
再び椅子へ戻る。その動きは、さっきよりわずかに遅い。
「父上は、人に意味を与えると言った」
ベルゼブブは黙って聞いていた。
「関係を与え、場所を与え、役目を与えると。それは正しい。美しいことのはずだ」
「ああ」
「なのに」
ルシフェルの指先が、冷えたカップの縁に触れる。
「少しだけ、腑に落ちなかった」
ベルゼブブはそこでようやく視線を上げた。
「何が」
ルシフェルは、かすかに笑った。
困った時の、あの曖昧な笑みだった。
「それが、まだうまく言えない」
ベルゼブブはしばらく何も言わなかった。
「そうか」
ルシフェルは目を閉じるでもなく、ただ少しだけ視線を落とした。
「お前がそう感じたなら、何かあるんだろう」
ベルゼブブの声は平坦だった。
ルシフェルはその言葉に、ようやくほんのわずかに表情をゆるめた。
「……だろうね」
それきり二人とも黙った。
机の上には、飲みかけの紅茶が二つ。
片方はもともと手を付けられずに冷めかけていて、もう片方も、今はほとんど同じ温度まで落ちていた。
ベルゼブブは新しく淹れ直そうとはしなかった。
ルシフェルも求めなかった。
冷えたままの紅茶が二つ、静かな部屋の中に残っていた。




