第43話 始まりの過去
第1部 過去への贖罪
「知っていることは、全て話します。陽だまりの楽園で、何があったのか」
そう口にしたあと、病室はしばらく静まり返ったままだった。
白い壁。
白い天井。
消毒液の匂い。
カーテン越しに滲む、夕方の光。
その中で、自分の呼吸の音だけがやけに耳につく。
けれど、いざ話し始めようとすると、喉の奥がひどく乾いていた。
俺にとって、あそこにあるのは辛い記憶ばかりだ。
良い思い出なんて、ほとんどない。
それでも、もう黙ったままではいられなかった。
「……陽だまりの楽園は、表向きには孤児院でした」
掠れた声が、白い病室に響く。
「でも、実態は全然違う。あそこは、孤児を集めて実験をする魔導研究施設でした」
蓮次が息を呑む気配がした。
重護も、八神も、シエラも、仙道も、何も言わない。
ただ、俺の言葉の続きを待っている。
「俺が、どうしてそこにいたのかは分からない。親のことも、そこへ連れてこられる前のことも、ほとんど覚えてない」
記憶の奥を探ろうとすると、白い靄みたいなものがかかる。
そこには確かに何かがあったはずなのに、手を伸ばしても掴めない。
名前も。
顔も。
声も。
そこへ来る前の俺が何者だったのかさえ、曖昧なままだ。
「物心ついた時には、もうそこにいました。そこで、“園長”と呼ばれていた人から、虐待としか言えないような実験を受けていました」
「園長?」
蓮次が低く聞く。
俺は小さく頷いた。
「久世綜一」
その名前を口にした瞬間、喉の奥がきつく締まった。
怒り。
嫌悪。
恐怖。
そういうものが、胸の奥から一気に込み上げてくる。
「職員や子どもたちからは、久世園長って呼ばれていました。いつも優しそうに笑っていて、声も穏やかで……外部の人間から見れば、子ども想いの良い園長に見えたと思います」
でも、違った。
あの笑顔の奥には、何の温度もなかった。
優しそうな声。
白衣。
細い指。
丁寧に整えられた言葉。
その全部がひどく人間らしく見えるのに、どこか決定的にずれていた。
「久世は、俺たちを人間としては見ていなかった。少なくとも、俺にはそう見えました」
泣いていても、震えていても、久世の声は変わらない。
痛がる俺を見ても、あの人は少しも顔を歪めなかった。
大丈夫だよ、と言う。
怖くないよ、と言う。
でも、その目は少しも俺を見ていなかった。
そこにあったのは、俺という子どもを見る目じゃない。
変化を見る目。
反応を見る目。
結果を見る目。
ただ、それだけだった。
「実験の詳しい内容は、あまり覚えていません。覚えているのは……白い部屋と、薬品の匂いと、身体の奥が焼けるような痛み。それから、何かを記録している久世の目くらいです」
そこまで言ったところで、胸の奥が嫌悪感で満たされる。
次に、あの人の名前を出すのが、一番辛かった。
「雪月さんは、そこで職員をしていました」
シエラの目が、僅かに動く。
俺は布団の上で拳を握った。
「その人は、俺にとっての育ての親で……本当の母親みたいに慕っていた人です」
声が詰まりかける。
目を閉じると、雪月の手の温度が蘇る。
無機質な空間。
薬品の匂い。
遠くで誰かが泣いている声。
その中で、雪月だけが普通に笑ってくれた。
実験体としてじゃなく、一人の子どもとして見てくれた。
「いつも笑顔で優しく接してくれて、どれだけ実験が辛くても、傷が増え続けても、雪月さんのところへ帰れば優しく抱きしめてくれて……安心して眠れた」
誰も何も言わなかった。
その静けさに背中を押されるように、俺は続ける。
「ある日、熱を出した夜がありました」
自分でも、そんな記憶がまだ残っていたことに少し驚いた。
「実験のあとで、身体がずっと震えていて……眠りたいのに眠れなくて。そしたら雪月さんが、朝までずっと手を握ってくれていました」
汗を拭いてくれた。
水を飲ませてくれた。
眠れない俺に、何度も名前を呼んでくれた。
大丈夫だよ。
ここにいるよ。
安心して、私は傍にいるからね。
あの場所で、俺を名前で呼んでくれる人はほとんどいなかった。
だから、その声だけは今でも覚えている。
「久世が俺を見る時、俺はただの実験体でした。でも雪月さんだけは、俺を人間として接してくれた」
喉の奥が熱くなる。
「それが、どれだけ嬉しかったのか……多分、今でも上手く言えません」
雪月がくれた温もりも、名前を呼んでくれた声も、抱きしめられてようやく眠れた夜も、今でも俺の中に残っている。
だから、それを任務だったなんて言葉で片づけることはできなかった。
白い部屋の冷たさよりも。
久世の声よりも。
あの人の温かさだけは、消えずに残っていた。
「でも、最後に覚えているのは、雪月さんが俺を庇ったところだけです」
喉の奥が痛い。
「たくさんの銃声が聞こえて、目を覚ました俺を抱きしめるみたいに庇って……それで、死にました」
そこから先は、何度思い出そうとしても思い出せない。
白い光。
血の匂い。
誰かの声。
けれど、どれも繋がらない。
「その後の記憶がありません。施設がどう壊滅したのかも、誰がどうなったのかも、俺が何をしたのかも、分からない」
自分で言っていて、ひどく無責任な話だと思った。
雪月は死んだ。
陽だまりの楽園は壊滅した。
俺は生き残った。
なのに、その一番大事な部分だけを覚えていない。
「きっと……神凪いおりさんは俺を憎んでると思います」
当然だと思った。
「俺は、雪月さんを直接は殺していなくても……俺が、雪月さんを死なせたようなものだから」
「瑛志くん」
シエラが、苦しそうに名前を呼んだ。
俺は顔を上げなかった。
こんな顔、見られたくはなかった。
「俺なんて、守ってさえいなければ……死ななかったかもしれないのに……」
そこまで言って、ようやく言葉が途切れた。
病室には、痛いほどの静寂だけが残る。
最初に口を開いたのは、重護だった。
「……胸糞悪ぃ話だな」
低い声だった。
怒っている。
でも、その怒りは俺に向いているものじゃなかった。
「でもな、一つだけ、お前のために言っておくぞ」
重護は俺を真っ直ぐ見ていた。
「雪月さんは、お前を仕方なく守って死んだのか?」
「それは……分からない。でも俺を庇ってさえいなければ――」
「俺は違うと思う」
重護は、俺の言葉を強く遮った。
「瑛志。雪月さんは、お前を守りたくて庇ったんだと思う。その結果、死んだとしてもだ」
「それは、今となっては確かめようがないじゃないか」
「そうだな」
重護は否定しなかった。
けれど、その目は逸れない。
「じゃあ、お前がそれまで見てきた雪月さんは、そんな程度の人だったのか?」
「……っ」
「違うはずだろ。お前が感じていた愛情も、温かさも、全部本物じゃなかったのか。少なくとも、それはお前が一番分かってるはずだ」
重護は俺の返答に怒っていた。
でも、その怒りは乱暴じゃなかった。
俺の逃げ道を塞ぐためじゃない。
俺が自分で壊そうとしているものを、真正面から止めようとしている声だった。
「そんなの、分からないよ……」
「いいや、分かるはずだ」
重護は低く言った。
「そうじゃなきゃ、そんな苦しそうな顔はしないはずだ。少なくとも、そんな顔になるくらいの愛情を、お前は受け取っていたはずだ」
何も返せなかった。
否定したいのに、できなかった。
そのやり取りを聞いていた仙道が、静かに口を開いた。
「僕も、神威君と同意見だ」
責めるでもなく、慰めるでもない声だった。
「神凪雪月さんは、鐡君を守りたくて庇ったんだと思う。それが君にとって、自暴自棄になるほどの傷になっていることも分かる。でも、君は今、生きている」
仙道は、真っ直ぐ俺を見る。
「それは、彼女が君に残した何よりの贈り物じゃないかな」
「……贈り物」
「うん。僕は神凪さんと深く関わる機会があったわけじゃない。でも、僕から見ても、あの人は愛情深い人だったよ」
「……? それは、どういう」
「ああ、言っていなかったね」
仙道は少しだけ目を伏せた。
「神凪さんは、天律警帝十守隊の弐番隊隊員だったんだよ」
病室の空気が、一瞬で変わった。
蓮次が目を見開く。
重護の眉が動いた。
八神も、ほんの僅かに表情を硬くする。
シエラも息を呑んでいた。
でも、誰より驚いていたのは、俺だった。
「雪月さんが……十守隊の隊員だった……?」
「うん」
仙道は静かに頷いた。
「陽だまりの楽園には、極秘任務で潜入していた。職員として振る舞いながら、内部で何が行われているのかを探っていたんだと思う」
雪月が、十守隊の隊員。
その事実は、すぐには飲み込めなかった。
じゃあ、あの人は最初から任務で俺に近づいたのか。
そう思いかけて、胸の奥が軋んだ。
でも、違う。
そう言い切れるだけの記憶が、俺の中にはあった。
実験のあとで震えていた俺を抱きしめてくれた腕。
夜中に泣いて起きた俺の背中を、何度も撫でてくれた手。
俺の名前を、当たり前みたいに呼んでくれた声。
あれまで任務だったとは、思いたくなかった。
思えるはずがなかった。
「俺は……そんなこと、何も知らずに……」
「知らされるはずがないよ。極秘任務だったからね」
仙道はそう言ってから、少しだけ言葉を選ぶように間を取った。
「記録の全部を僕が見られたわけじゃない。だから、あの日の任務が実際にどこまで進んでいたのか、神凪さんが何を掴んでいたのかは、まだ断言できない」
「記録の全部を見られたわけじゃない……?」
「うん」
仙道の声が、僅かに低くなる。
「神凪さんの潜入任務には、僕たちがまだ閲覧できない記録がある」
病室の空気が、また少しだけ変わった。
「閲覧できないって……仙道隊長でも、ですか?」
「そうだね。総監府預かりになっている部分がある。つまり、当時の上層部が直接管理していた案件だ」
総監府。
その言葉の意味を、俺はすぐには理解できなかった。
ただ、仙道が口にしたその響きには、普通の任務記録とは違う重さがあった。
雪月の任務。
陽だまりの楽園。
久世綜一。
そして、俺。
そのどれかが、当時の上層部にとって、ただの違法施設以上の意味を持っていたのかもしれない。
「でも、一つだけ言える」
仙道は続けた。
「神凪さんは、任務だから君を守ったわけじゃないと思う」
胸の奥が痛んだ。
「彼女自身の意思で、君を守ったんだと思う。君は、神凪さんが願った通りに生きている。それは、誇りに思ってもいいはずだ」
その言葉を聞いても、すぐには頷けなかった。
誇りに思うには、過去の記憶が邪魔をする。
受け取ったものが大きすぎて、どう抱えればいいのか分からない。
でも、否定もできなかった。
雪月が俺を守った。
それだけは、確かに覚えている。
「仙道隊長」
俺は、乾いた喉を無理やり動かした。
「俺は、雪月さんに何があったのかを知りたいです。この俺自身のことも、俺の中にいるナニカのことも、全部」
仙道は少しだけ目を細めた。
「それならまずは、陽だまりの楽園跡地に手掛かりがないか、もう一度調べる必要がありそうだね」
その声は静かだったが、どこか決意を含んでいた。
「僕も改めて調べてみるよ。それと、もう一度聞くけど、久世綜一について他に何か知ってることはあるかい?」
「……あいつのことは、ほとんど知りません。実験の前は恐怖に震えていて、実験の後はいつも気を失っていたので」
思い出そうとしても、浮かんでくるのは断片ばかりだった。
穏やかに整えられた表情と、その奥にあった観察者の目だけだった。
俺の話を聞いてから、シエラの身体にはずっと力が入っていた。
「久世綜一……その人が今どこにいるかは、分かっていますか?」
「分からない」
答えたのは仙道だった。
「少なくとも、陽だまりの楽園の事件では、久世綜一の遺体らしきものは見つかっていない」
「それは……」
「生きている可能性が高い、ということだね」
病室の空気が、また張りつめる。
シエラは顎に右手を添えて、考え込むように目を細めた。
「それなら、今もどこかで、何かを研究している可能性はありますね」
「充分にあり得る」
仙道は短く答え、それから俺を見る。
「鐡君。話してくれてありがとう」
その声は、責めるものでも慰めるものでもなかった。
「これで、一つはっきりした。君の過去は、今回の件と切り離せない」
「今回の件……」
「深蝕封界の事件そのものと、陽だまりの楽園が直接繋がっている可能性は、現時点では高くないと思う」
仙道は、そう前提を添えた。
「五年前の魔族侵攻災害は、天翔市全体を巻き込んだ大規模災害だった。けれど、陽だまりの楽園は市街地にあり、直接の被害は免れている」
俺は小さく頷く。
そこは大事な違いだった。
ゼルゲディアは、陽だまりの楽園を作った相手ではない。
久世綜一とも、直接の関係があるわけじゃない――と思う。
ただ、あの事件の後に、ゼルゲディアは俺の存在を知ったのだろう。
そこから、全部が繋がってしまった。
「この二つの事件は別物だと思う。でも、鐡君という一点で、異常が交差し始めている」
仙道の目が静かに細まる。
「だから、これはもう君一人の過去では済まない」
その言葉は、胸の奥へ深く残った。
陽だまりの楽園。
久世綜一。
神凪雪月。
神凪いおり。
深蝕封界。
ゼルゲディア。
そして、俺の中にいるナニカ。
それまで別々の点だったものが、一つずつ名前を持って、目の前に引きずり出されていく。
もう、知らないふりはできない。
俺だけが目を逸らしていれば済む話でもない。
「……俺は、何をすればいいですか」
自然と、そう聞いていた。
自分の声は思っていたより掠れていた。
でも、逃げるための問いじゃない。
仙道はすぐには答えなかった。
少しだけ考えるように目を伏せ、それから静かに口を開く。
「まずは休むことだ」
「休む……?」
「君は二日近く眠っていた。傷がないからといって、無事というわけじゃない。今の君は、身体の芯まで使い切っている状態に近い」
否定はできなかった。
実際、ただこうして身体を起こしているだけで、全身の芯まで使い切っている感覚がある。
「でも、それだけじゃないですよね」
蓮次が低く言った。
仙道は頷く。
「もちろん。僕としては、陽だまりの楽園に関する封印記録を再確認する。神凪雪月さんの任務記録、当時の現場封鎖記録、壱番隊が残した報告書――必要なものは全て調べ直す」
その言葉に、胸の奥が少しだけ冷えた。
記録。
俺の知らない俺の過去が、どこかに文字として残っている。
そう思うだけで、喉の奥が詰まる。
「学院側はどうなるんですか」
八神が静かに問う。
仙道は視線を八神へ向けた。
「深蝕封界の被害が大きすぎる。校舎の一部は修復が必要だし、生徒と教師の体調も万全とは言えない。少なくとも数日は、通常授業には戻せないと思う」
「休校になる、ということですか」
「そうなるだろうね」
重護が小さく息を吐いた。
「まぁ、あれで次の日から普通に授業って言われても困るけどな」
「うん。表向きには、大規模な魔術災害として説明される。S.C.A.L.E.が介入したことも隠さない。ただし、深蝕封界の詳細や、君たちが関わった部分まで全て公表するわけじゃない」
「辰巳のことは?」
蓮次の声が少し硬くなる。
辰巳。
その名前が出た瞬間、俺は思わず蓮次を見た。
「……辰巳が、どうかしたのか?」
病室の空気が、僅かに張りつめる。
仙道は表情を変えなかった。
「現時点では行方不明だ。状況証拠だけを見れば、関与は極めて濃い。でも、本人の身柄が見つからない以上、断定はできない」
「そうだ、取り巻き二人は……」
俺は言いかけた言葉を止めた。
仙道は少しだけ目を伏せる。
「魔獣に襲われた傷ではなかった。深蝕封界が完全に発動する前に、刃物で殺害されている。学院側にも、その事実は報告される」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
辰巳がやったのか。
そう聞くまでもない。
でも、それを口にしてしまえば、何かが決定的に変わる気がした。
「つまり」
八神が静かに言った。
「深蝕封界の後処理、辰巳剛毅の行方、陽だまりの楽園の再調査。それらが同時に進むことになる」
「そうだ」
仙道は短く答える。
「そして、その中心に鐡君がいる」
視線が、また俺に集まる。
胸の奥が締めつけられる。
けれど、さっきまでとは少しだけ違った。
重さの中に、逃げ道のなさだけじゃなく、進むべき方向のようなものが混ざり始めている。
「……俺も、調査に協力します」
気づけば、そう言っていた。
シエラが僅かに目を見開く。
蓮次も、重護も、八神も、何も言わない。
ただ、その言葉を受け止めている。
仙道は静かに頷いた。
「そう言うと思っていたよ」
「俺は、知らないままではいられません。知らなくちゃいけない」
「そうだね」
仙道の声は穏やかだった。
「ただし、今すぐじゃない。まずは君が動けるようになること。それから正式に話を進める」
「……はい」
返事をしながら、自分の手を見る。
傷はない。
けれど、あの中庭でキメラを解体した光景が、断片みたいに脳裏をよぎる。
首を失った異形。
血に濡れた石畳。
自分のものとは思えない、静かすぎる視界。
感触までは覚えていない。
それなのに、この手が何かをしたのだという感覚だけは、消えずに残っている。
そしてこの手は、雪月に守られた命を、今でも繋いでいる手だ。
罪なのか。
贈り物なのか。
まだ分からない。
でも、知らないまま目を逸らすことだけは、もうできなかった。
その日を境に、S.C.A.L.E.と学院はそれぞれ動き出した。
俺が病室で身体を休めている間にも、封印されていた記録が引き出され、深蝕封界の残骸には改めて調査の手が入った。
そして学院は、休校に向けて動き出していた。
数日後。
俺の端末に、天嶺学院高等学校から一通の通知が届くことになる。
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