第42話 向き合うべきもの
第1部 過去への贖罪
白い天井だった。
ぼんやりとした意識のまま見上げていると、その白さが少しずつ輪郭を持ち始める。
鼻の奥に届く消毒液の匂い。
静かな機械音。
乾いた喉。
薄く張りつめた空気。
そこでようやく、自分が病院のベッドに寝かされているのだと分かった。
「……っ」
起き上がろうとして、身体の奥から鈍い疲労が広がった。
痛みじゃない。
力が入らない。
手足の先まで、一度全てを使い切ったあとのように空っぽだった。
息を整えながら、ゆっくり右手を持ち上げる。
動く。
指も曲がる。
そこで反射的に、胸元へ手をやった。
キメラに裂かれたはずの肩。
踏みつけられた胸。
電撃で焼かれた身体。
どれも、感触の上では何も残っていなかった。
「……なんでだ」
掠れた声が、自分でも驚くくらい弱い。
傷がない。
あれだけやられたのに、皮膚の上には目立った跡が残っていない。
けれど、無事とは言えなかった。
傷だけが消えて、その代わりに戦いの反動だけが身体の奥へ残っている。
こんな感覚は久しぶりだった。
そして、もう一つ。
俺は、あのキメラたちをどうやって倒したのかを覚えていない。
ゼルゲディアが現れたことは覚えている。
刻印付きのキメラが再召喚され、身体が限界に近かったことや追い詰められたところまでは覚えている。
なのに、ぽっかりとそこだけ穴が空いている。
その事実が、身体の重さよりもずっと不気味だった。
「起きましたか」
静かな声に顔を向けると、窓際の椅子に座っていたシエラが立ち上がった。
淡い夕方の光が、白いカーテン越しに差し込んでいる。
シエラはほっとしたように息をついたが、その顔はどこか強張っていた。
「シエラ……無事だったんだね」
「はい」
「……みんなは」
まず最初に出たのは、その言葉だった。
「蓮次と重護と八神は。講堂のみんなは、どうなった」
シエラは少しだけ目を細めて、それから静かに答えた。
「命に別状はありません」
胸の奥の何かが、そこでようやく少しだけ緩む。
「講堂にいたみなさんは、全員助かっています。重傷者は出ましたが、命に別状はありません」
「……そっか」
「ただ、みなさんかなり消耗しています。八神くんも、蓮次くんも、神威くんも、無傷ではありません」
それはそうだろうと思う。
あの状況で、何事もなく済むはずがない。
「俺は……どれくらい寝てたんだ?」
「丸二日近くです」
シエラは言葉を選ぶように、少しだけ間を空けた。
「昨日の夜までは、一度も目を覚ましませんでした」
「……そっか」
自分の声が、どこか遠く聞こえる。
窓の外に目を向けても、現実感が薄かった。
学院の赤黒い空も、不朽桜も、キメラも、ゼルゲディアも、全てに現実味がない。
なのに、身体の重さだけが、あれが現実だったと教えてくる。
「シエラ」
「はい」
「俺、中庭で何をした?」
シエラの目が、ほんの僅かに動いた。
それだけで、答えが簡単なものではないと分かる。
「……私が分かるのは、講堂の様子と、そのあとに起きたことだけです」
「それでもいい」
シエラは小さく頷いた。
「講堂にいた私たちからでも分かるくらい、中庭を起点に白い光が広がりました。学院全体に流れていた魔力が一度大きく乱れて、その直後、中央実技演習場と第一体育館の反応も、それに呼応するように消滅しています」
「そうだったんだね。その後の俺は……」
言いかけたところで、病室の扉がノックされた。
「入るぞ」
聞き慣れた声だった。
扉が開いて、蓮次、重護、八神が順に入ってくる。
三人とも、無事とは言いづらかった。
蓮次は肩から腕に包帯を巻き、重護は脇腹を庇うように立っている。
八神も肩口を痛めているのか、腕の動きが少し硬い。
それでも、三人とも自分の足で立っていた。
「……よかった」
思わず、それが口から出た。
重護が鼻を鳴らす。
「そりゃあ、こっちのセリフだろ」
「まったくだ」
蓮次も苦笑する。
八神だけはいつも通りに頷いた。
「起きたなら何よりだ」
「みんな……」
それ以上の言葉が出なかった。
シエラが椅子を引いてくれたことで、三人はそれぞれ病室の中へ入る。
重護はベッドの近くまで来るなり、じっと俺を見て、小さく息を吐いた。
「……顔色は最悪だな」
「そっちは」
「俺は見ての通りだ。まだ見た目通り傷が痛むけど、死ぬほどじゃねぇ」
それを聞いて、少しだけ口元が緩みそうになる。
重護が軽口を叩けるなら、少なくとも言葉通り死ぬほどではないんだろう。
「それで」
蓮次が俺を見る。
「何があったか覚えてるのか?」
「途中までは覚えてる。でも、何がどうなって俺がここにいるのかは全然分からない」
その言葉で、三人の表情が僅かに変わった。
やっぱりそうか、と言うように。
「どの部分まで覚えてるんだ?」
八神が短く聞く。
「ゼルゲディアっていう魔人が出てきたところまでは覚えてる。それで、刻印付きのキメラがもう一体出てきて、そいつと戦ったことも。だけど、そのあとの記憶がない。気づいたら病院だった」
病室が静まる。
最初に口を開いたのは、重護だった。
「理屈は分かんねぇ。俺も気絶してたからな」
真っ直ぐな声だった。
「でも、中庭を起点に結界内が白い光に包まれなかったら、講堂のみんなも、俺たちも死んでたんだとよ」
重護はそこで一度、短く息を吐く。
「第一体育館の魔獣は一回ぶっ倒した。けど、同じやつがまた出てきて、あのままなら、俺はその場で死んでたな」
その言い方に、軽さはなかった。
蓮次も続ける。
「中央実技演習場の方も、似たようなもんだった。一度は魔獣を倒した。でも、また同じ魔獣が召喚されて、そこで意識を失った」
「……そうだったのか」
最後に八神が言う。
「講堂の魔獣たちも同じタイミングで消滅した。侵食の進行も鈍って、講堂にいたみんなが助かったのは、あの光があったからだ」
そこまで聞いても、俺の中にはまだ空白が残る。
全員の話が、逆にその空白を色濃くしていた。
俺は確かに、中庭で何かをした。
そして、この事件は解決した。
学院全体に走っていた深蝕封界の脈動が乱れた。
なのに、俺が何をしたのかは全く覚えていない。
「全然思い出せない……」
低く呟く。
「そこが一番大事なところなんだがな」
蓮次たちは何も言わなかった。
代わりに、病室の扉がまたノックされる。
今度は一度だけ、控えめに。
「入るよ」
仙道遼司だった。
病院の白い廊下を背に、いつも通りの穏やかな顔で入ってくる。
けれど、その目だけはいつもよりずっと静かで、軽さがなかった。
「起きたんだね」
「……はい」
「体調はどうだい?」
「特にケガとかはないです。でも、全身がすごい重いです」
「そうだろうね」
仙道はそれを当然みたいに受け止めた。
その反応が、逆に胸へ引っかかる。
仙道は病室の中を一度見渡してから、俺のベッド脇まで来る。
「ちょうどいい。みんな一度ここで整理しておきたいと思ってたところなんだ」
そう言って、仙道は壁際へ寄った。
「まず結論から言うと、深蝕封界は解除された。今もS.C.A.L.E.の隊員が現場の事後処理に入ってる。ゼルゲディアの関与も、ほぼ間違いない」
短く、無駄のない整理だった。
「講堂にいた人たちも全員助かってる。結界が解かれた直後に僕たちが突入して、学院中を調査した。悔しくも、学院全体では犠牲者は数人出たものの、被害は最小限に抑えられたと思ってる」
そこまで聞いて、ようやく肩の力がほんの少しだけ抜けた。
けれど、全部が終わったとは思えなかった。
身体の奥に残る重さも、記憶に空いた穴も、何一つ解決していない。
仙道はそこで一拍置いてから、俺を見る。
「ただし、中庭で起きたことだけは別だ」
静かな声だった。
「鐡君。君の中で、まだ整理のついていないものがあるのは分かる。でも、今回の件は君の過去と切り離して考えられない」
その言葉に、自然と身体が強張る。
仙道は続ける。
「僕自身は五年前の現場にはいなかった。魔族侵攻災害の別件で動いていたからね。でも、壱番隊には記録が残っている」
記録。
その響きだけで、息が詰まりそうになった。
仙道は一度だけ、言葉を止めた。
それは、言うべきか迷った静けさではなかった。
言えば、もう戻れなくなる。
そんなことを分かった上で、それでも口にするための間だった。
「その記録に残っていた場所の名前が――“陽だまりの楽園”だ」
頭の奥が、ひどく静かになる。
仙道の口から、その名前が出るとは思っていなかった。
陽だまりの楽園。
あの場所を、そう呼ぶ度に未だに胸のどこかが冷える。
楽園なんて名前は、あそこに一番似合わない。
仙道はさらに言う。
「そして、そこで死亡が確認された人物の一人に、神凪雪月という名がある」
その瞬間だった。
その名前が、突きつけられた刃みたいに胸へ鋭く刺さる感覚があった。
「……かん、なぎ?」
口に出して、やっと自分でもその重みを理解する。
雪月の名字を、俺は知らなかった。
あの場所では、ずっと“雪月さん”で充分だった。
あの人も、自分から名字を口にすることはなかった。
けれど、神凪という名字には覚えがある。
合同実技演習で助けた少女。
そこで、全てが繋がった。
神凪雪月。
その名が頭の中で反芻された瞬間、別の顔が浮かぶ。
――神凪いおり。
演習場で助けた時の、あの目。
礼を言わなかったこと。
まるで俺に何かを突きつけるみたいに睨みつけられたこと。
それが、ここで繋がる。
「そう、だった……のか……」
掠れた声が漏れる。
仙道は静かに頷いた。
「神凪いおりさんの母親だ」
病室の空気が、そこで完全に止まった気がした。
蓮次も、重護も、八神も、何も言わない。
シエラだけが、ずっと俺を見ている。
なら、あの視線は当然だった。
助けられてもお礼なんて言えない。
睨みたくもなる。
母親の傍にいたのが俺なら。
しかも、死ぬ原因に俺が関わっているのなら、なおさらだ。
喉の奥が、ひどく乾く。
仙道の声が低く続く。
「壱番隊が到着した時、いおりさんも現場周辺まで来ていたらしい。だけど、雪月さんがなぜ死ぬことになったのか、死因などの詳細は今も遺族には伝えられていない」
「……っ!」
言葉が出ない。
五年越しに、ようやく分かることがある。
でも、それは楽になるための事実じゃなかった。
知らなかったからこそ、避けられていたものが、ここで一気に形を持つ。
そこで、シエラが静かに息を吸った。
「……仙道隊長」
「うん?」
「ひとつ、先に共有しておきたいことがあります」
仙道が目を向ける。
蓮次たちも、自然とシエラを見る。
シエラは俺を一度見て、それから仙道へ視線を戻した。
「中庭で結界内が白い光で包まれたあの力は、ただの異質な力という言い方では足りません」
一拍。
「――“神力”です」
その一言で、病室の空気がまた別の意味で張りつめた。
仙道の表情が、はっきり動く。
驚きと警戒と、思考の切り替えが一瞬で走ったのが分かった。
「……神力」
低く繰り返す声には、いつもの余裕がなかった。
重護が小さく息を呑む。
蓮次も目を細めた。
八神だけは表情を変えないが、その視線は明らかに鋭くなっている。
シエラは淡々と続ける。
「私は最初から、瑛志くんの中に魔力とも魔法とも違う流れを感じていました。不朽桜に近い性質もありました。けれど、あの時までは断定できなかった。中庭で感じた現象で、ようやく確信に変わりました」
シエラの声は静かだった。
けれど、その静けさの奥には、確かな緊張があった。
「魔術なら、術者自身の魔力を練り上げた反応が残ります。魔法なら、外界の魔素を媒介にした痕跡がある。けれど、瑛志くんの力はそのどちらにも当てはまりませんでした」
シエラは俺を見る。
「魔力に似ている部分はあります。けれど、私たちが知っている魔力よりも、ずっと古くて深い。魔力へ変質する前の、源流に近いものを見ているようでした」
一拍置いて、シエラは静かに続けた。
「だから、私はあれを“神力”だと判断しました」
仙道は少しだけ黙ったあと、低く言う。
「……僕も、そこまでは知らなかった」
その言葉が、妙に重かった。
壱番隊隊長である仙道ですら知らない事実。
それが今、この病室で初めて明かされたのだと分かる。
そして、全員の視線が俺へ集まる。
仙道が聞く。
「鐡君。君は、その言葉に心当たりはあるのかい?」
「……あります」
「知っていたんだね」
「いえ。知っていた、というより……そう呼ばれていた記憶があるだけです」
俺は自分の手を見る。
「陽だまりの楽園で、俺の中にある力をそう呼ばれていました。でも、俺自身は、それが何なのか分かっていませんでした」
「では、君は今までどう捉えていたんだい?」
「……シエラが言ったように、源流……みたいなものだと思っていました」
口にしてから、自分でも曖昧な言い方だと思う。
「魔力じゃない。でも、何かの力ではある。身体中を流れていて、集中すれば形にできる。俺には、それくらいしか分からなかったんです」
蓮次たちが息を呑む気配が分かった。
それでも続ける。
「ただ、あの場所でも、多分、その力が関わっています」
「多分、というのは?」
仙道の問いに、俺は一度目を伏せる。
「当時の俺はまだ、十歳の子どもだったので、記憶が曖昧です」
病室の白さが、また少しだけ強く見えた。
「それに、雪月さんが死んだところまでは覚えてます。俺を庇って、目の前で死んだところまでは」
口にした瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。
あの時のことだけは、今でも嫌になるほど鮮明だ。
「でも、その後の記憶がないんです。どうやって施設が壊滅したのかも、誰をどうしたのかも、そこだけがずっと思い出せない」
キメラの時と同じだ。
そして、五年前とも同じだ。
大切なところだけが抜け落ちている。
俺が何かをしたはずなのに、俺だけがそれを覚えていない。
その事実が、何より怖かった。
俺の中に“ナニカ”がいることは推測できる。
でもそれが、どんな条件でどうなるのかが分からない。
病室の空気は静かで、機械の電子音だけが聞こえてくる。
誰もすぐには口を開かない。
蓮次も、重護も、八神も、シエラも、仙道も、俺の言葉の続きを待っている。
自分でも、ひどく曖昧なことを言っている自覚はあった。
得体の知れないナニカが自分の中にいる。
そうとしか言えないのに、そのナニカのせいで、記憶が抜け落ちることがあるかもしれない。
そんな話を、まともに受け止めろという方が無茶だ。
それでも、今この場にいる誰一人として、鼻で笑うことはしなかった。
最初に口を開いたのは、仙道だった。
「……それは、今回の件で初めて分かったことなのかい?」
「いえ」
喉が少し痛い。
でも、答えはすぐに出た。
「前から、自分の中にナニカがいるんじゃないかとは思ってました」
「確信があったわけではない?」
「はい。あくまで推測です」
そう答えながら、胸の奥が重くなる。
「自分の中に、普通じゃないナニカがある。そういう感覚は前からありました。でも、それが何なのかも分からないし、どういう時にどうなるのかも分かってないです」
八神が静かに口を開く。
「今回、中庭で意識が飛ぶ直前に、その兆候はあったのか?」
「……あった、と思う」
少しだけ考えてから答える。
「自分の身体なのに、少し遠くなる感じがあった。立ってるのは自分のはずなのに、意識は一歩後ろへ下がるみたいな……上手く言えないけど」
「そうか」
八神は短く頷いた。
重護が腕を組んだまま、低く言う。
「理屈は分かんねぇ。けど、お前が嘘ついてる顔じゃねぇってのは分かる」
「……ありがとう」
「礼を言われる筋合いはねぇよ。ただの直感だ」
そう言いながらも、その声色には警戒や不信の刺々しさがなかった。
蓮次が、病室の白い壁へ視線を向けたまま言う。
「それで、どうするんですか?」
問いかけた相手は仙道だった。
「ここまで分かったなら、もう曖昧なままにはしておけないと思う」
仙道はすぐには答えなかった。
その静けさが、俺には長く感じた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「無理に全部は話さなくていい」
責めるでもなく、慰めるでもない声だった。
「でも、君が知っていることは、少なくとも今ここにいる人たちには共有した方がいい。今回の件と切り離して考えるべきことも含めて、君の過去は、もう君一人の中だけに秘めておけるものじゃない」
シエラも、柔らかく続ける。
「瑛志くん。話せるところまでで大丈夫です」
蓮次、重護、八神も何も言わない。
ただ、それぞれの顔で待っている。
その静けさの中で、俺はゆっくり息を吸った。
雪月の顔が浮かぶ。
あの最後の表情が、今でも焼きついて離れない。
ずっと口にしないまま、胸の内に秘めていたものがある。
思い出したくないからじゃない。
思い出せば、またあの夜の自分の無力さが全部戻ってくる気がしたからだ。
けれど、もういつまでも逃げている場合じゃない。
神凪という名字が繋がった今なら、なおさら。
「……全部は覚えてません」
静かに言う。
「最後がどうなったのかは、今でも分からない」
一度、布団の上で握った手に力を込める。
「でも――」
顔を上げる。
仙道を見る。
シエラを見る。
蓮次、重護、八神を見る。
そして、はっきりと言った。
「知っていることは、全て話します」
病室の空気が、静かに張りつめる。
「陽だまりの楽園で、何があったのか」
その話をすると決めた時、俺はようやく、自分の過去へ真正面から手をかけた気がした。
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