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世界の代行者【第1章完結】  作者: 星之矢
第1章 始まりの過去編

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第40話 深蝕封界の心臓部

第1部 過去への贖罪

 神話の怪物。

 完成されすぎた異形。


 キメラ。


 不朽桜の穢れた根元に佇むそれは、ただの魔獣には見えなかった。


 獅子の頭部。

 (たくま)しい胴体。

 背から生えた巨大な鷹の翼。

 尾の先には、蛇の頭。


 その足元では、逆五芒星(デビルスター)の赤黒い線が脈打っている。


 守っているだけじゃない。

 こいつ自身が、この儀式の心臓に繋がっている。


 そう感じた途端、背筋の奥が冷えた。


 黄金の獣眼が、ゆっくりと俺を捉える。


 肌を撫でる空気が変わった。


 実際に冷えたわけじゃない。

 なのに、全身の皮膚が一斉に粟立(あわだ)つ。


 ――今までの魔獣とは、何かが違う。


 そう理解するより早く、俺は手にしていた不格好な剣を握り直していた。


 このまま斬り込むには遠い。


 なら、届く形に変えればいい。


物質変換(マテリアル・シフト)――」


 刀身が(ほど)ける。


 銀色の刃が細く伸び、柄ごと組み替わり、投擲用の槍へ変わった。


 視界の奥で、キメラの姿勢が線に分解されていく。


 肩の入り方。

 前脚へ乗る力の角度。

 翼の畳み方。

 蛇尾(だび)の待機位置。


解析起動ディセクト・アクティブスタート――」


 視界の端に補助線が走る。


 首、胸、翼の付け根、蛇尾。


 刺し込める位置が見えた。


「ふっ――!」


 槍を放つ。


 風を裂いて飛んだ銀の線が、キメラの胸元へ突き刺さった。


 鈍い音。

 赤い飛沫。


 だが、浅い。


 キメラは避けなかった。


 真正面から受けたうえで、その程度かと言わんばかりに首を鳴らす。


「完全にナメてるな」


 槍が肉に刺さったまま、キメラの前脚が僅かに低くなる。


「――っ!」


 反射的に横へ飛ぶ。


 直後、俺がいた場所の石畳が爆ぜた。


 赤黒い衝撃が逆五芒星(デビルスター)の線に沿って走り、砕けた破片が中庭へ散る。


 遅れて襲ってきた風圧に、身体ごと横へ持っていかれそうになった。


「ぐっ……!」


 着地が乱れる。

 だが、止まれない。


 キメラは追撃してこない。


 ただ、こちらを測るように見ている。


 その余裕が、何より腹立たしかった。

 しかも、こいつを見た時から頭の奥が痛い。


 燃えている国。

 赤黒い魔獣の群れ。

 崩れた城壁。

 半透明の青白い存在。


 断片が、視界の裏側へ食い込んでくる。


「ぐっ、また……これかよ」


 思い出そうとすると、脳の奥が焼ける。


 今は意識するな。

 そう自分に言い聞かせた直後、キメラの翼が大きく広がった。


 飛んだ、と思うより早く、獅子の爪が目の前まで迫る。


「――!」


 盾を作る暇はない。


 俺は身体を横へ投げ出すようにして、爪の直撃だけを外した。


 だが、避けきれたわけじゃない。


 掠めた爪の風圧だけで身体が持っていかれ、肩から石畳へ叩きつけられる。


「がぁっ……!」


 息が詰まる。

 腕が痺れる。


 直撃していたら、今ので終わっていた。


 そう分かった瞬間、喉の奥が冷えた。


 格が違う。

 今まで相手にしてきた魔獣とは、根本から何もかもが違う。


 キメラは再び、不朽桜の前へ立つ。


 追い打ちを急がない。

 まるで、俺が立ち上がるのを待っているかのように。


「……上等だよ」


 ふらつく足で立つ。


 ここで倒れるわけにはいかない。

 倒れれば、この結界に囚われている人たちが死んでしまう。


 血のついた石畳の向こうで、怪物の尾にある蛇の頭がゆっくりと鎌首をもたげた。


 獅子の眼。

 蛇の眼。


 二つの視線が、同時に俺へ突き刺さる。


「来いよ」


 自分でも驚くくらい、声は震えていなかった。


 中庭の空気が弾ける。


 キメラが地を蹴った。

 獅子の前脚が俺の喉元を()ぐ。


 反射的に身を低くして避ける。


 だが、それで終わらない。


 開いた翼が空気を噛み、キメラの巨体が不自然なくらい滑らかに捻れた。


 蹴り。


 腹にめり込んだ一撃が、呼吸ごと俺を吹き飛ばす。


「がはっ――!!」


 背中から壁へ叩きつけられ、肺の空気が一気に抜けた。


 それでも、キメラは追撃してこない。


 数歩だけ離れた場所で低く唸り、こちらを見ている。


 観察している。


 どのくらいまで壊れずに耐えるか。

 どのくらいまで遊べるか。


「俺のことは、おもちゃ扱いかよ……」


 壁へ手をついて立ち上がる。

 正面から殴り合う相手じゃない。


 だったら、情報を取る。


 俺は砕けたタイル片を槍へ変え、キメラの顔面へ投げつけた。


 当然、そんなものは前脚ひとつで弾かれる。

 だが、狙いはそっちじゃない。


 キメラの視線が僅かに逸れた隙に、俺は倒れている二人の方へ駆けた。


 近づいて、息が止まりそうになる。


「――っ!!」


 辰巳の取り巻き二人だった。


 腹部、胸部、肩部、首元。


 複数の刺し傷。


 どれも魔獣にやられたものじゃない。

 爪痕でも牙でもない。


 人間が、人間へ向けた刃物傷だ。


 息はない。

 瞳はもう何も映していない。


「なんで……」


 好きな相手じゃなかった。

 関わりたい相手でもなかった。


 それでも、こんなふうに殺されていい理由にはならない。


 同じ学院の空気を吸っていた人間が、ただの物みたいに転がっている。


 これは巻き込まれた死に方じゃない。

 誰かが、意図的に殺している。


 背筋を走る悪寒に振り向くより早く、空気が裂けた。


「っ!」


 爪撃(そうげき)


 飛ぶ斬撃が横から来る。


物質変換(マテリアル・シフト)――」


 咄嗟に手近な破片をもう一度盾板へ組み替える。


 だが、完全には止めきれない。


 今度は盾ごと叩き割られた斬撃が、俺の上半身を斜めに裂いた。


「ぐぁ゙……っ!」


 制服が裂け、胸元から脇腹へ鋭い痛みが走る。


 浅くない。

 けれど、止血している余裕なんかない。


 今必要なのは、崩せる隙を探すことだ。


 砕けた盾を手の中で組み替える。


 弓身。

 即席の弦。

 矢。


 見た目は最悪だ。


 でも、撃てればいい。


「……これで、どうだ!」


 弓を引く。


 視界の端に補助線が走った。


 翼の付け根。

 口腔の奥、魔力が溜まる位置。

 胸の厚みが僅かに薄い場所。


 狙いは、ここだ。


 いくつもの矢を放つ。


 キメラはまた避けず、真正面から受ける。

 完全にナメている。


 直撃。


 だがその直後、矢が内側から爆ぜた。


 ドゴォォォン! と腹の底を打つような爆音が中庭に轟いた。


 不朽桜の根元の石畳が跳ね、衝撃が空気そのものを殴りつけたみたいに周囲へ広がる。

 割れたタイルが弾け飛び、血と焦げた毛の臭いが一気に立ち昇った。


 キメラの巨体が後方へ押し戻される。


 毛が焦げ、胸元の皮膚が裂け、初めて獣眼に明確な苛立ちが宿った。


「……へっ、やっと効いたか!」


 いける。


 勝てる、とまでは言えない。

 けれど、一方的にやられるだけの相手じゃない。


 キメラが咆哮した。


「グオオオォッ!!」


 耳を叩くような音圧。


 開いた口の奥に青白い火花が生まれる。


「やばい――!」


 電撃球が連続で撃ち出された。


 一発、二発、三発、四発。


 間を置かずに飛んでくるそれを、俺は走って躱す。


 地を蹴り、壁を使い、砕けた花壇の縁を踏み台にして軌道をずらす。


 後ろでタイルが爆ぜる。

 桜の根が焼ける。

 電気の焦げた臭いが鼻を刺す。


 避けながら、俺も射返す。


 今度は三本同時だ。


 翼の先。

 前脚の付け根。

 脇腹。


 浅いが削れる。


 だが、向こうも止まらない。


 避ける度に体勢が崩れる。

 弓を引き切る前に攻撃が来る。


 しかも、キメラは途中で翼を使って急制動をかけ、俺の予測した位置から僅かに外してくる。


 本能だけで暴れているわけじゃない。

 明らかに、獲物が一番困る攻め方を選んでいた。


「くそっ……!」


 このままじゃ削り切れない。


 読めている。

 崩せる角度も、死角も、弱点も見えている。


 なのに、今の俺じゃその瞬間へ身体が追いつかない。


 なら――武器だけじゃ足りない。


身体励起(アクセス・ドライブ)――」


 首筋の下で、天色(あまいろ)の一線が灯る。


 同時に、視界の中で補助線が走った。


 前脚の軌道。

 翼が開くまでの間。

 蛇尾が動き出す前の硬直。

 踏み込める足場。

 崩せる関節。


 解析起動ディセクト・アクティブスタートが、キメラの動きを線に変えていく。


 けれど、見えるだけでは足りない。


 その線へ届く身体が必要だった。


 踏み込む脚へ。

 支える腰へ。

 振るう肩から肘、拳へ。


 補助線に重なるように、駆動線(くどうせん)が順に灯る。


 見る。


 合わせる。


 動く。


 キメラの電撃球が撃ち出された。


 俺は走らない。


 補助線が示した最短の隙間へ、身体を滑り込ませる。


 青白い光が肩のすぐ上を抜け、背後で爆ぜた。


 爆風が届くより早く、俺はキメラの懐へ入っている。


「――っ!」


 獅子の前脚が横から来る。


 見えている。


 俺は爪の下へ潜り、左拳を前脚の付け根へ叩き込んだ。


 硬い。


 骨を殴ったみたいな衝撃が手首へ返る。


 だが、打点は通った。


 駆動線が腰へ走る。


 回す。


 腕を畳み、続けて拳を喉元の下へ叩き込む。


「ぐっ……!」


 こっちの拳まで軋む。


 それでも、キメラの呼吸が一瞬詰まった。


 補助線が更新される。


 右ではない。

 下。


 前脚の関節。


 俺は身体を低くし、膝を叩き込んだ。


 鈍い手応え。


 砕けない。


 けれど、軸はずれた。


 蛇尾が横から走る。


物質変換(マテリアル・シフト)!」


 足元の破片を薄い盾へ変える。


 受け止めない。

 牙の角度だけを逸らす。


 そのまま盾を短刃へ変え、翼の付け根へ突き立てた。


 抜かない。


 刺した刃を支点に、身体を引き上げる。

 駆動線が脚へ灯る。


 跳ぶ。


 空中で身体を捻り、踵をキメラの首筋へ叩き込んだ。


 巨体の頭が僅かに下がる。


 そこへ、胸元へ伸びる補助線が一本だけ見えた。


 薄い場所。


 ただし、刃だけでは届かない。

 なら、身体ごと押し込む。


 着地。

 踏み込み。


 石畳が砕ける。


 拳で胸元を打つ。


 硬い。

 浅い。


 すぐに肘。

 さらに膝。


 キメラの軸がずれる度に、補助線が走り直す。


 今度は半歩前。


 違う。


 胸元の下。


 そこだ。


 俺は短刃を槍へ変え、薄い場所へ突き立てる。


 同時に、右拳が柄尻を打ち抜いた。


「打ち抜けろ――!」


 駆動線が腕から肩へ走る。


 衝撃が槍を通して奥へ抜けた。


 キメラの身体が大きく仰け反る。


「グオオオォッ!!」


 初めて、苛立ちではなく痛みの混ざった声だった。


 いける。


 そう思った。


 解析起動ディセクト・アクティブスタートで見つけた隙へ、身体励起(アクセス・ドライブ)で身体をねじ込む。

 物質変換(マテリアル・シフト)で作った刃は、斬るためじゃない。

 拳で崩し、膝で止め、そこへ打ち込む楔だ。


「まだだ!」


 キメラが距離を取ろうと翼を広げる。


 解析起動ディセクト・アクティブスタートが、着地先を先に示した。


 逃げ道を潰す。

 翼の角度をずらす。

 動きを一本に絞る。


 補助線が収束する。


 そこへ、身体励起(アクセス・ドライブ)の駆動線が重なった。


 脚へ、腰へ、肩へ、拳へ。


 俺はもう踏み込んでいた。


「そこ――!」


 前脚の下を抜ける。


 肩を入れる。

 拳を叩き込む。


 キメラの胸元が開く。


 すぐに左拳。

 右膝。


 そこから短槍。


 今度は深い。


 槍の穂先が、胸元の薄い場所へ食い込んだ。


 だが、まだ足りない。

 心臓部まで届かない。


「これなら、どうだ――!」


 俺は柄尻へ拳を重ねた。


 駆動線が一気に腕へ集まる。


「打ち抜けろ!」


 拳が槍の柄尻を叩いた。


 衝撃が一点へ抜ける。


 キメラの巨体が大きく崩れ、血が飛んだ。


 傷は増えている。

 動きも乱れている。

 

 それでも、決定打だけが届かない。


 硬すぎる。

 深すぎる。


 どれだけ読んでも、どれだけ身体を合わせても、心臓部まであと僅か届かない。


「くそっ……!」


 さらに踏み込もうとしたところで、視界にノイズが走った。


 補助線の上へ、別の景色が重なる。


 赤黒い空。

 燃えた城壁の残像。

 そして、青白い何かの影。


「っ……!」


 頭の奥が焼ける。


 解析起動ディセクト・アクティブスタートの使いすぎだ。


 視える。

 読める。


 けれど、視界そのものが壊れ始めている。


 続けて、身体励起(アクセス・ドライブ)の駆動線も乱れた。


 脚へ灯る。

 腰へ走る。

 肩へ届く前に、途切れる。


 さっきまで繋がっていた動作が、今は噛み合わない。


 見えているのに、身体が遅れる。


「まだ……!」


 それでも矢を作ろうとした。


 もっと深く抉る一撃を。


 けれど、そこで身体が止まった。


「……は?」


 尾の先の蛇頭が、じっと俺を見ていた。


 目が合う。


 それだけで、身体が止まった。


「っ……!」


 首から下が動かない。


 噛まれたわけでもない。

 触れられてすらいない。


 なのに、見えない楔で石畳へ打ちつけられたみたいに、指先ひとつ動かせない。


 キメラ本体の口腔に、青白い雷光が集まる。


 さっきまでの電撃球とは違う。


 砲撃だ。


 動け、動け、動け――!


 指先に触れている破片へ意識を向ける。


物質変換(マテリアル・シフト)……っ!」


 形が定まる前に、雷砲が走った。


「――あ゙ぁ゙っ!!」


 直撃。


 視界が白く弾けた。


 身体が空中へ持ち上がり、柱へ叩きつけられる。


 呼吸が消えた。


 背中から肩へかけて、何かがまとめて砕けたような感触が走る。


 それでも意識は途切れない。


 途切れてくれない。


「……っ、か……」


 声にならない音だけが喉から漏れた。


 身体を動かそうとする。

 けれど、首から下が自分のものじゃないみたいだった。


 指先へ命令を送る。

 足へ力を送ろうとする。

 身体励起(アクセス・ドライブ)をもう一度発動させようとする。


 何も返ってこない。


 さっきまで身体をなぞっていた天色(あまいろ)の駆動線は、もうほとんど見えなかった。


 解析起動ディセクト・アクティブスタートの補助線も途切れ途切れだ。


 キメラの輪郭は見えている。


 翼の付け根も、胸の薄い場所も、蛇尾の動き出す角度も分かる。


 分かっているのに、そこへ届くための身体がない。


「……動け、よ……」


 自分に言った。

 けれど、身体は応えない。


 指先に触れている破片へ、もう一度意識を向ける。


 形を変えろ。


 槍でも、盾でも、剣でもいい。


 何でもいいから、まだ抵抗できる形に――。


 だが、破片は僅かに歪んだだけで止まった。


 形にならない。


 握ることもできない。

 掴むことすらできない。


 ここまで当たり前みたいに使ってきた力が、今は何ひとつ形になってくれなかった。


 キメラが、ゆっくり近づいてくる。


 傷んだ獲物が、まだ反応するかを確かめるみたいな足取りだった。


 前脚が俺の胸元を踏む。


「あ゙……っ!」


 骨が軋む。

 胸の奥で、鈍い音が続いた。


 爪が肩口へ食い込む。

 熱いものが一気に流れ、遅れて痛みが追いついてくる。


 すぐ殺せるはずだ。

 今、このまま踏み潰せば、それだけで死ぬ。


 なのに、そうしない。

 急所だけは外している。


 息ができなくなる寸前で力を緩め、意識が途切れる寸前で痛みだけを残してくる。


 こいつは、分かってやっている。

 生かしたまま、壊している。


「……ふざ、け……」


 声にならない。


 キメラの獣眼が細くなる。

 笑った、ように見えた。


 その直後、蛇尾が胴へ巻きついた。


 持ち上げられる。

 軽々と。


 まるで俺の身体に抵抗する力なんて最初から残っていないみたいに。


 石畳へ叩きつけられた。


「――ッ!」


 声も出ない。


 反対側へ振られる。


 割れた花壇へ。

 砕けたタイルへ。

 血の滲んだ地面へ。


 その度に、身体のどこかが遅れて悲鳴を上げる。


 肩、脇腹、背中、首の後ろ。


 全部、急所は外されている。


 完全に、遊ばれていた。


 キメラは俺を殺せないんじゃない。


 殺さないだけだ。


 そう理解した途端、胸の奥に冷たいものが広がった。


 ――勝てない。


 その言葉が、初めてはっきり浮かんだ。


 読み切れないんじゃない。

 力が足りないんじゃない。


 届かない。


 今の俺が何をしても、この怪物の前では足りない。


 その現実だけが、逃げ場もなく目の前にあった。


 怖い。


 死ぬことより、ここで止められないことが怖かった。


 講堂には八神とシエラがいる。

 倒れている生徒たちがいる。

 

 中央実技演習場には蓮次が向かった。

 

 第一体育館には重護が向かった。


 みんなが、それぞれの場所で戦っている。


 なのに、俺がここで止められなければ。

 この心臓部を潰せなければ。


 全部、呑まれる。

 全部、失う。


 そう分かっているのに、身体はもう動かない。


「――まだ、だ……」


 まだ、終われない。

 終わっていいわけがない。


 そう思っているのに、指一本動かなかった。


 キメラの爪が、顔のすぐ横へ降る。


 石畳が砕けた。


 飛び散った破片が頬を裂く。


 次は腹を蹴られる。


「がっ……!」


 身体が転がる。


 止まるより早く、また蛇尾が伸びる。


 胴を絡め取られ、持ち上げられる。

 まだ反応するかを確かめるみたいに。


 獣眼が俺を見下ろしている。


 黄金の眼。

 感情の薄い眼。


 そこには怒りも、焦りも、殺意すらほとんどない。


 ただ、壊れかけたものを眺める冷たさだけがあった。


「……まだ……」


 呟いたつもりだった。

 声にはならなかった。


 天色(あまいろ)の駆動線は消えかけている。


 補助線も、もう線ではなく途切れた光の欠片にしか見えない。


 視えていた軌道は霞み、動いていたはずの身体は反応しない。

 指先に触れている破片すら、もう形を変えられない。


 それでもキメラは止めない。


 もう何度目かも分からない。

 また横殴りに石畳へ叩きつけられる。


 ぶれる視界の中で、不朽桜の黒ずんだ幹と赤黒い空が何度も明滅した。


 避けられない。


 分かっているのに、身体はもう指一本動かない。


 キメラの尻尾が、もう一度俺を持ち上げる。


 高く。

 ゆっくりと。


 最後に見えたのは、不朽桜を覆う赤黒い脈と、こちらを見下ろす黄金の獣眼だった。


 石畳が迫る。


 何もできない。

 何ひとつ、届かない。


 そして――顔面から石畳へ叩きつけられたところで、意識がぷつりと途切れた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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