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世界の代行者  作者: 星之矢
第1章 始まりの過去編

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第38話 鬼の境界

第1部 過去への贖罪

 中央実技演習場の中は、白かった。


 だが、それは見慣れた白ではない。


 普段なら明快なはずの距離感が、どこか根本から狂っている。

 中央制御盤は妙に遠く見えるのに、壁際の歪みだけは手を伸ばせば触れられそうなほど近い。


 床を走る発光ラインの代わりに、赤黒い筋が血管のように脈打っていた。

 その色が、部屋全体を生き物の腹の中じみた空間へと変えている。


「何なんだよ、これ……」


 中央実技演習場の中心へ向かうほど、空間の歪みは露骨になっていく。


 十歩で詰まるはずの距離が、二十歩でも縮まらない。

 反対に、遠くに見えていた壁際の歪みは、ふとした瞬間にすぐ隣まで迫ってくる。


「くそっ……!」


 蓮次は突き上がる黒赤い杭を紙一重で外し、そのまま床を蹴った。


 追うように天井からも赤黒い筋が垂れ、空間そのものが閉じてくる。

 演習場の持つ空間構築機能が、深蝕封界(しんしょくふうかい)の術式と噛み合い、この場の空間情報そのものを狂わせていた。


 分かっている。

 だからこそ厄介だった。


 避けるだけでは奥へ入れない。

 だが、無理に踏み込めば距離感の狂いに呑まれる。


 蓮次は一度、大きく息を吸う。


「だったら、俺が支配してやる……!」


 床を走る赤黒い筋の脈。

 歪みが濃くなる位置。

 杭が突き上がる直前の、僅かな沈み。


 全部をひとつずつ拾い上げ、身体へ落とし込む。


 次の瞬間、蓮次の輪郭が僅かに揺らいだ。


「――(ほむら)陽炎(かげろう)


 踏み込みと同時に、足元の空気が熱を孕んで滲む。


 それは景色を歪めるだけの技ではない。

 熱と陽炎を媒介に、相手の認識へ“そこにあるはずの景色”を上書きする魔術。


 白い演習場は、見る者の知覚の中で薄い(ほのお)に包まれた。

 床を走る赤黒い筋は赤金の炎となって揺らぎ、壁際には熱の膜が立ち上がる。


 踏み込めば焼ける。

 触れれば呑まれる。


 そんな錯覚が、空間全体へ静かに染み込んでいく。


 同時に、蓮次自身の感覚だけは逆に研ぎ澄まされた。

 深蝕封界(しんしょくふうかい)が上書きした偽の距離感が焼き払われ、歪みの奥にある“本来の位置”だけが細く浮かび上がる。


 右へ避けると見せて半歩だけ前。

 正面の杭を誘い、その脇へ滑る。

 壁際から迫る歪みを掠めるようにすり抜け、さらに一歩。


「いける……!」


 読めないんじゃない。

 読みにくいだけだ。


 なら、読み切る。


 白い演習場の奥。

 中央制御盤のさらに先。

 赤黒い筋の流れがもっとも濃く収束している一点が、まだ遠いままそこにあった。


 その途中、白い床の端にひとり倒れている人影が見える。


 補助員か、設備担当か。

 講堂へ移動する前に、ここで巻き込まれたのだろう。


 さっきまでなら遠く見えていたその位置へ、蓮次は迷いなく踏み込んだ。

 もう距離は狂わない。

 少なくとも、自分の目には。


 数歩で辿り着く。


 もう息はない。


「クッソ……間に合わなかったか」


 身体中が赤黒く侵食し、無惨な姿になっている。

 表情を歪ませ、他に倒れている人がいないかを確認した――その瞬間。


 床を走る赤黒い筋が、一斉に強く脈打った。


 ぞわり、と肌が粟立(あわだ)つ。


 中央制御盤の手前、空間そのものがぐにゃりと捻れる。

 そこから立ち上がったのは、細く長い赤黒い影だった。


 床を這い、

 壁を滑り、

 天井を掴む。


 長い胴体。

 毛のない鱗質の皮膚。

 胸部には、赤黒い真核(コア)が透けて見える。


 トカゲ型魔獣。


「こんな魔獣までいるのかよ……」


 低く構えたまま、蓮次は息を殺す。


 相手は答えない。

 ただ、縦に裂けた瞳でこちらを見た。


「グギィ……」


 湿った金属を擦るような、不快な喉鳴りだった。


 その瞬間、トカゲ型の姿がぶれた。


「――っ!」


 消えた、と思うより先に、右側の壁から気配が落ちてくる。


「ギシャッ!」


 裂けるような短い鳴きとともに振り下ろされた前脚を、蓮次は半歩だけ軸をずらして紙一重で外した。

 爪が肩先を掠め、制服の布だけを裂いて通り過ぎる。


 そのまま反転する。


「遅せぇぞ!」


 返しの魔魂丸(まこんがん)を至近距離から撃ち込む。

 赤黒い胴の脇腹を弾丸が抉り、血飛沫(ちしぶき)が散った。


「ギャッ!」


 だが浅い。


 着地と同時に、トカゲ型はもう次の壁へ張りついている。

 人間みたいな踏み込みじゃない。

 床、壁、天井、その全部が等しく足場だ。


 進路が直線で繋がらない。

 跳ぶたびに軌道が折れ、読む側の予測を半歩ずつ外してくる。


「ちっ……!」


 蓮次は即座に(ほむら)陽炎(かげろう)を深く流し込んだ。


 白い演習場の空気が揺れる。


 相手の知覚の中でだけ、床を走る赤黒い筋が赤金の(ほのお)へ変わる。

 壁際には熱の膜が立ち上がり、逃げ道の輪郭がじりじりと焼けて滲んだ。


 踏み込めば熱い。

 触れれば呑まれる。

 そう身体が勝手に判断する程度の、薄い焔の檻。


 トカゲ型の踏み込みが、僅かに鈍る。


「そこだ」


 蓮次の輪郭が熱で揺らぐ。

 右へ避けたように見せて、実際には前。

 前へ出たように見せて、実際には左。


 認識の優先権を奪う。

 それが(ほむら)陽炎(かげろう)の本質だった。


 爪が空を切る。

 噛みつきが外れる。

 その僅かな誤差の中へ、蓮次はするりと入り込んだ。


 肘を打ち込む。

 返す蹴りで首筋を払う。

 着地の角度を読んで、もう一発、魔魂丸。


「ギャッ!」


 今度は肩口へ命中した。

 トカゲ型の身体がぶれ、壁へ爪を立てて制動をかける。


 そこまでは、蓮次の思惑通りだった。


 だが次の瞬間、相手の動きが変わる。


 さっきまでは、本能のまま速さを押しつけてきていた。

 だが今は違う。

 熱に揺らいだ空間そのものを警戒し、焔の濃い場所を避けるように進路を選び始めている。


「……適応してるのか」


 驚きはあった。

 だが、感心している余裕はない。


 床を這うように低く構えたトカゲ型が、焔の薄い場所だけを縫って走る。


「シャッ!」


 狙っているのは、今いる位置じゃない。

 次に蓮次が避けるはずの場所だ。


「――っ!」


 反応はした。

 だが、読みが半歩だけ遅れた。


 爪が肩口を浅く裂く。

 焼けつくような痛みが走った。


「ぐっ……!」


 すぐに距離を取る。

 陽炎を重ね、熱の膜を厚くする。


 けれど、その間も深蝕封界(しんしょくふうかい)は容赦なく魔力を吸っていた。


 集中が、ほんの僅か鈍る。

 輪郭をずらす精度が落ちる。

 空間へ焔の認識を焼き付ける濃度も、さっきまでと同じには保てない。


 その綻びを、トカゲ型は見逃さない。


 壁。

 床。

 天井。

 三点を連続で蹴り、一拍ごとに軌道を変える。


 蓮次は迎え撃つように魔魂丸を二発撃った。

 一発は掠る。

 二発目は空を切る。


 次の瞬間にはもう、トカゲ型は背後だ。


「っ!」


 咄嗟に身を沈める。

 だが完全には外し切れない。

 尾が頬を掠め、熱い線が走った。


「くそ……!」


 浅い傷で済んでいる。

 それでも傷は増えていく。


 焔の陽炎で空間を支配し、進路を誘導し、読み勝っているはずなのに、相手はその上から少しずつ食い破ってくる。


 速いだけじゃない。

 対応が早い。

 錯覚へ()めた後の修正が、異様に早いのだ。


『代ワレ』


 不意に、頭の奥で声がした。


 低く濁った、耳で聞いたものではない声。


 蓮次の表情が僅かに強張る。


「……黙ってろ」


 吐き捨てるように言いながら、真正面から跳ねてきたトカゲ型の爪を外す。

 脇へ流し、その肘関節へ蹴りを打ち込み、返す魔魂丸を撃つ。


「ギャッ!」


 今度は胸の横を抉った。

 だが、それでもまだ浅い。


『オ前ジャ、勝テナイ』


「うるせぇ……!」


 短く漏れた声は、自分へ向けたものでもあった。


 読めている。

 見えている。


 それでも、深蝕封界に削られ続ける今の自分では、その先の一打が鈍る。


 トカゲ型が再び跳ねる。


 今度は真正面から。


 蓮次は半身になって誘う。

 爪の軌道は読めている。

 そこへ合わせて身体を滑らせ、懐へ入る――そのはずだった。


 なのに。


「……ッ!?」


 トカゲ型は途中で身体を沈めた。

 真正面から来ると見せて、床へ落ち、そのまま低く滑ってくる。


 予測を半歩だけ外した突進。


 脇腹へ爪が走る。


「がっ……!」


 鈍い衝撃。

 浅くはない。


 だが、まだ崩れない。


 蓮次はよろめきながらも踏みとどまり、振り向きざまに拳を叩き込んだ。

 硬い鱗の下で鈍い手応えが軋み、赤黒い血が弾ける。


「ジャァッ!」


 けれど、まだ足りない。


 トカゲ型はその反動ごと勢いへ変え、壁へ、天井へ、残像だけを置いて再び視界から消えた。


『オレニ任セロ』


 今度の声は、さっきより近かった。


『オレガ特別ニ、喰ッテヤル』


「ふざけんな……」


 低く吐いた言葉は、拒絶そのものだった。


 それでも現実は変わらない。


 深蝕封界に削られ続けているせいで、踏み込みも、打ち込みも、ほんの僅かずつ鈍っている。

 その“ほんの僅か”が、こういう相手には致命傷になる。


 トカゲ型が再び消える。


 次に来る。


 分かっている。

 分かっているのに、身体が追いつかない。


 一瞬のことだった。


 天井を蹴った赤黒い影が、瞬きの刹那にはもう目の前にいた。


「シャァッ!」


 蓮次は間一髪で急所を外した。

 だが、外し切れない。


 鋭い爪が左肩口から斜めに走った。


 熱と衝撃が同時に叩き込まれる。

 倒れ込みながら床を滑り、無理やり勢いを逃がす。

 だが、左肩の奥で嫌な音がした。


 鎖骨まで砕けていると、感覚だけで分かる。


 痛みで息が詰まる。


 それでも、止まれない。


 ここで倒れたら終わる。

 中央実技演習場を止められなければ、講堂も、中庭も、全部が崩れる。


 荒い呼吸のまま、蓮次はゆっくりと顔を上げた。


「……やるしか、ないのか……」


『受ケ入レロ』


 声は、もう耳元にあった。


『今オレニ代ワレバ、殺シテヤル』


「……黙れ」


『強ガルナ。モウ見エテルダロウ? 今ノオ前ジャ、アイツハ殺セナイ』


 鼓動が大きい。

 音が遠のく。

 視界の端がじわりと赤く滲む。


 鬼の気配が、さっきとは比べものにならないほど近い。


『オレガ喰ッテヤル』


「お前には明け渡さない。お前が俺を利用するんじゃなくて、俺がお前を利用するんだ」


 低く、吐き捨てるように返す。


 否定は、できなかった。


 このまま技術だけで捌き続ければ、いずれ限界が来る。

 今ここでこいつを砕かなければ、講堂のみんなも、中庭も、全部が崩れる。


 トカゲ型がまた低く構え直す。


「グギィィィ……!」


 今度の鳴きは、明確な殺意を孕んでいた。


 一瞬のことだった。


 その魔獣は、瞬きの刹那に目の前へいた。


 蓮次は間一髪で右へ流れたが、もう遅い。


「――ッ」


 追いつけない。


 その事実が、爪より先に胸へ入ってきた。


 次の瞬間、蓮次の内側で何かが大きく脈打った。


 空気が変わる。

 熱ではない。

 もっと粘ついて、もっと不吉な圧が全身へ纏わりつく。


 額の中央が、ずきりと熱を持つ。


「――ッ」


 皮膚の下で何かが押し上がり、次の瞬間、短く歪な突起が肉を割るように覗いた。


 完成した角ではない。

 ほんの僅かに生えかけた、未完成の一本角。


 骨とも鉱石ともつかない不安定な質感で、先端は欠けたように崩れ、細かなひびの奥で赤熱が脈打っている。

 制御しきれない鬼性が、無理やり表へ滲み出たみたいな危うい形だった。


 その根元から赤黒い筋がこめかみ、首筋、肩へと走り、髪の毛先が熱に炙られたように赤銅色(しゃくどういろ)へ染まっていく。


 右目の色が変わる。

 灼けた金赤が、瞳の奥で細く揺れた。


 次の瞬間、世界の速度が変わっていた。


 さっきまで速すぎたトカゲ型の踏み込みが、今は見える。

 いや、見えるどころか遅い。


 壁を蹴る角度。

 着地の瞬間。

 尾が振り抜かれる起点。


 全部が手に取るように分かった。


『カッハッハ、遅ェンダヨ』


 鬼が(わら)う。


『最初カラ、ソウシテイレバ良カッタンダ』


「……黙レ」


 声が低く軋む。

 熱に喉を焼かれているみたいに掠れていた。


「オレが利用してやってるダケダ。オマエのモノにはならナイ」


 トカゲ型が天井から落ちてくる。


「シャッ!」


 蓮次はそこへ先にいた。


 踏み込み。

 拳打。


 肩口へ叩き込んだ一撃が、鱗の上からでもはっきり効いた。

 トカゲ型の巨体がぶれる。


「ギャッ!」


 そのまま終わらせない。


 着地しようとした瞬間、蓮次は一歩深く潜り込んだ。

 右肩が沈む。

 腰が捻れる。

 重心を前へ押し込みながら、開いた懐へ身体ごとねじ込む。


 次の一打を放つための、僅か一瞬。


 拳を引く。

 肘を畳む。

 肩、背、腰、脚――全身の熱が一本の線みたいに右腕へ収束していく。


 鬼の力が脚へ乗り、床が軋んだ。


 喰い込むように前へ出る。


「喰ラエ――!」


 沈めた腰が爆ぜる。

 捻った背と肩が一気に解放され、引き絞られていた右腕が獣みたいな勢いで前へ走る。


 拳を握り込む指の隙間から、赤黒い火の筋が細く漏れた。

 未完成の角の根元がどくりと脈打ち、それに呼応するように首筋から肩へ走る赤黒い筋が熱を帯びる。

 髪の赤銅色(しゃくどういろ)に染まった毛先がふわりと逆立ち、周囲の空気がびり、と震えた。


 次の一瞬、全身を駆けていた熱と圧が右拳へ一気に収束する。


 燃えているんじゃない。

 圧し潰されている。


 握り締めた拳の輪郭だけが異様に赤熱し、指の隙間から漏れた鬼炎が細い亀裂みたいに明滅する。

 拳のまわりの空気は耐えきれず、飴細工みたいにぐにゃりと捻れていた。

 制服の袖口がじり、と焦げ、皮膚の上を走る赤黒い筋が手首まで脈打つ。


 熱い。


 だが、それ以上に重い。


 殴るための拳じゃない。

 砕くためだけに圧縮された、破壊の塊だった。


「――灼火闘拳(しゃっかとうけん)


 一撃目。


 顎下へ突き上げるように叩き込まれた拳が、トカゲ型の上体へ深くめり込む。


 一瞬だけ、音が消えた。


 次の瞬間。


 叩き込まれた熱圧が内側から爆ぜた。


 鈍い破裂音。

 胸部の赤黒い真核(コア)がひしゃげるように歪み、打点を中心に亀裂が蜘蛛の巣みたいに走る。

 赤黒い火花にも似た粒光が弾け、遅れて床まで震えた。


「グジャァッ!」


 同時に、蓮次自身の拳にも反動が返る。

 骨の芯まで焼けるような痛みが走り、拳から先が軋んだ。

 未完成の力を無理やり圧縮した代償だった。


 それでも止めない。


 その一瞬、胸部の真核(コア)が完全に露わになった。


「砕ケロ!」


 二撃目。

 今度は一直線だった。


 踏み込みで床を割り、赤熱した拳を胸部の真核(コア)へ真正面から叩き込む。

 圧縮されていた鬼炎が行き場を失い、内側へ向かって一気に爆ぜて吹き飛んだ。


 赤黒い真核(コア)が砕け散る。


「グジャァァァアアッ!!」


 トカゲ型が絶叫した。


 細長い身体が大きく痙攣し、そのまま白い床へ倒れ込む。

 床を走っていた赤黒い筋の脈動が、一瞬だけ明確に弱まった。

 中央制御盤の周囲にも、ひびみたいな乱れが走る。


「……止マッた、ノか……?」


 蓮次は荒い息のまま、その変化を見る。


 魔獣を倒しただけじゃない。

 この演習場そのものの均衡が、今ので揺らいだ。


 だが、そこまで考える余裕はなかった。


 全身から一気に力が抜ける。


『マダダ』


 鬼の声が、今度はすぐ耳元にあるみたいに近い。


『オレニ寄コセ』


 赤い視界が濃くなる。

 鼓動がうるさい。

 主導権が握られそうになる。


 危ない。


 ここで境界を踏み外せば、もう戻れない。


「……ッ、渡スかよ……!」


 その瞬間だった。


 深蝕封界(しんしょくふうかい)の吸収が急激に強まる。


 魔力が一気に持っていかれる感覚。

 シエラの魔法の効果も薄れてきたのか、体内の魔力がごっそり空になる。


 だが、そのおかげで鬼の力まで一緒に引き剥がされた。


 額の熱が急速に引いていく。

 未完成の角が押し戻されるように感覚の奥へ沈み、赤銅色(しゃくどういろ)に染まりかけていた毛先も元の色へ戻っていく。

 赤い視界が薄れ、頭の中の声も一気に遠ざかった。


『……チッ』


 最後にそんな舌打ちみたいな気配だけを残して、鬼は沈黙した。


 助かったのか、追い詰められたのか、自分でも分からない。


「はっ……はぁ……っ……」


 蓮次はその場に膝をついた。


 もう立っているだけで精一杯だった。

 身体の芯が空っぽに近い。

 腕も脚も、鉛みたいに重い。


 もう動けそうにない。


 だが――。


 中央実技演習場の奥で、もう一度空間が歪んだ。


 赤黒い筋がざわめき、さっきと同じ細長い影がぬるりと姿を現す。


「……うそ、だろ」


 蓮次の目が見開かれる。


 同じトカゲ型。

 同じ胸部の真核(コア)

 同じ異様な気配。


 今ので済んだわけじゃなかった。


 何かは崩した。

 確かに揺らした。


 けれど、深蝕封界(しんしょくふうかい)そのものはまだ生きていて、自動的に同じ守護魔獣を再召喚してきた。


「くっそ……」


 立ち上がろうとする。

 だが脚が言うことを聞かない。


 視界が大きく揺れた。


 再召喚されたトカゲ型が低く身を沈める。


「グギィ……」


 さっきと同じ、不快な喉鳴り。

 次の瞬間には飛び込んでくると分かっているのに、もう身体は反応しなかった。


 蓮次は苦く顔を歪め、そのまま白い床へ倒れ込む。


 意識が落ちる直前、最後に見えたのは――


 再び自分へ迫ってくる、あの細長く赤黒い影だった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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