第35話 結界の内側
第1部 過去への贖罪
同時刻、S.C.A.L.E.本部会議室。
神城が口を開こうとした、その瞬間だった。
空気が揺れた。
会議室にいた全員が、同時に息を呑む。
「――――っ!」
ぞわりと、背筋を冷たいものが走った。
次の瞬間、尋常ではない反応が一気に立ち上がる。
方角は、ひとつ。
天嶺学院高等学校――。
「あれは……!?」
仙道が勢いよく立ち上がる。
「まさか……!」
エイミーも椅子を蹴るように立ち上がった。
「全員で向かうぞ!」
五十嵐が叫ぶ。
だが、それを神城の声が断ち切った。
「待て!」
鋭い一声に、全員の視線が集まる。
「遼司、エイミー、天也。先行しろ。他は各自、自分の隊へ戻り、二次被害と周辺変動に備えろ!」
「了解!」
三人が一斉に会議室を飛び出す。
神城は残る隊長格へ、鋭く言い放った。
「これは学院内案件の範囲を超えた。最悪、封界級の事態も想定しろ」
その言葉に、会議室の空気が凍りついた。
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講堂に満ちていたざわめきが、一瞬で別の音へ変わった。
胸の奥を、見えない手で掴まれたみたいだった。
「――ッ、が……!」
誰かが喉を押さえて膝をつく。
次の瞬間には、その場にいた何人もの生徒が次々と倒れ始めた。
舞台の上でも、マイクを持っていた教師が言葉を切らし、そのまま崩れ落ちる。
空気が重い。
いや、違う。
重いんじゃない。
何かを引き剥がされている。
「何が起こっているんだ!?」
講堂のあちこちで悲鳴が上がる。
座席列の各所で人が倒れ、息を荒げ、胸元を押さえて苦しんでいた。
俺は状況も掴めないまま、近くで倒れている蓮次へ駆け寄った。
「蓮次! 大丈夫か!? おい!」
うつ伏せに崩れている肩を掴む。
反応は鈍かった。
「えい……じ……か。お前……は、無事……みたいだな……」
「無事って……今は人の心配をしてる場合じゃないだろ!」
蓮次の顔色は悪い。
呼吸も浅い。
けれど――。
その時になって、俺はようやく気づいた。
周りはみんな苦しんでいるのに、俺は何ともない。
胸の奥に圧迫感みたいな不快さはある。
空気が気味悪いのも分かる。
でも、倒れるほどじゃない。
一体どうしたっていうんだ。
明らかにこの結界めいた何かが原因だとは分かる。
なのに、なんで俺だけ――。
「瑛志くん! 無事だったのですね!」
声がして振り向く。
「シエラ! 無事なのか!?」
「ええ。私はみんなとは少し違うので、この状況にもある程度は対処できました。ですが……」
シエラは胸元を押さえ、息を整える。
「私も魔力を吸い上げられています。万全とは、とても言えません」
「やっぱり、吸い上げられてるのか……」
「おそらくは。それに――あれを見てください」
シエラが講堂の高窓の向こうを指さした。
赤黒い光の柱が、学院のあちこちから立ち昇っている。
それは夜の灯りみたいに静かなものじゃない。
どろりと粘ついた赤黒い光が、地面の底から噴き上がっているみたいな、不快な柱だった。
「赤い光の柱が立ち昇っている場所……あれは、校内の外周に打たれていた魔術痕だと思います。昨日までに確認されていたものと同系統の反応が、一斉に発動しています」
シエラの言葉に、俺は窓の外を見る。
学院の上空を覆う、赤黒く歪んだ壁。
校舎も、体育館も、中央実技演習場も、中庭も、不朽桜も。
全部まとめて、巨大な半球状の結界の内側へ閉じ込められている。
講堂だけじゃない。
学院そのものが、丸ごと呑まれている。
「……っ」
柱の位置関係が頭の中で繋がる。
あれは、ただ散らばっているんじゃない。
最初から、形を成すように仕込まれていた。
この事態をどうにかするには、一体何を止めればいいのか。
そう考えていると、シエラが続けて言った。
「ただ、結界を支えているのは魔術痕だけではありません」
「……え?」
「大きい反応が三つあります」
「三つ……?」
「はい。ひとつは中庭。不朽桜に最も近い位置です。もうひとつは中央実技演習場。そして最後が第一体育館」
シエラの声が硬くなる。
「外周の魔術痕が流路になっていて、その内側でこの三つが別々に脈打っています。どれかひとつだけではなく、三つが揃ってこの結界を支えているように感じます」
「三つとも、止めないとダメってことか」
「はい。少なくとも、講堂で守っているだけでは終わりません。このままでは、倒れている人たちへの侵食は止まらないはずです」
侵食。
その言葉に、背筋が冷えた。
ただ倒れるだけじゃない。
これは、放っておけばもっと先がある。
「でも、その中でも――」
シエラが息を呑む。
「中庭だけ、別格です。結界が張られて少し後に、一際大きな反応がそこへ現れました。恐らく、ここにいる人たちの魔力を触媒にして顕現した何かです」
その瞬間、頭の中で点が繋がった。
「そうか……そういうことだったのか」
「瑛志くん?」
「あの柱の意味だよ」
俺は窓の外へ目を向けたまま言った。
「ただ閉じ込めるための結界じゃない。これは儀式だ。周囲の魔術痕で流れを作って、その中心で何かを呼び出すために組まれてたんだ」
シエラは一瞬だけ息を止め、すぐに頷いた。
「なら、中庭の反応が中心核……」
「多分、そうだと思う」
そこが、一番危ない。
そして、一番止めなきゃいけない場所だ。
俺は立ち上がった。
「シエラ、ここは任せてもいいかな」
「一体どうする気なのですか?」
「どうするも何も、止めないといけないなら、止めに行くしかない」
「無計画に突っ込むのは危険です!」
シエラがきつく言う。
「……中庭の反応は、今の私たちでは手に余る相手かもしれません。正直、今の私の力では敵う気がしません」
俺は拳を握った。
手のひらに爪が食い込む。
「それでも、今まともに動けるのは俺だけだ。魔力がないせいか、この結界の影響を俺はほとんど受けてない。なら、俺にしかできないことを俺がやるしかない」
シエラが息を呑む。
その時だった。
講堂の出入口付近、何もなかった空間がいびつに歪んだ。
「――!? なんだ……!」
次の瞬間、そこから“魔獣”が次々と湧き出してきた。
犬型、蛇型、鳥型。
どれも赤黒い魔力を纏い、獣というより、結界の澱みが形を得たような異様さを持っている。
低い唸りと、湿った擦過音と、甲高く裂けるような声が、重なるように講堂へ広がった。
俺は足を止め、反射的に身構える。
そして――。
「ぅぐっ!?」
脳の奥に、ズキン、と鈍い痛みが走った。
「瑛志くん!?」
片手で頭を押さえ、その場に蹲る。
なんだ……?
こいつらは、見たことがあるような気がする。
いや、あり得ない。
俺はこんな魔獣を知らない。
見たことなんかあるはずが、ない。
なのに、知らないはずなのに――。
さらに頭痛とは別のノイズが頭の中を走り、映像がフラッシュバックする。
「……っ! ――これは」
知っている。
この結界を俺は知っている……。
「――深蝕封界」
頭が痛い。
知らないようで知っている、この感覚は……なんだ。
俺は本当に、この状況をどこかで――。
「瑛志くん!」
シエラの声で我に返る。
「ここは私に任せてください!」
「……!? それはダメだ。今とさっきじゃ状況が違う! ここに倒れている人たちを全員、今のシエラひとりで守り切れるわけがない!」
「大丈夫です」
シエラの声には迷いがなかった。
「私の魔法で、あと三人だけなら動けるようにできます」
「三人……?」
「はい。完全回復ではありませんが、侵食の進行を一時的に鈍らせ、動ける時間を作るだけです。でも、それで充分です」
シエラは真っ直ぐ俺を見た。
「瑛志くんは中庭へ向かってください。ここは、私たちで持たせます」
その“私たち”に、俺は一瞬だけ目を見開く。
「……本当にいいんだね?」
シエラは力強く頷いた。
「はい」
俺も頷き返す。
「分かった。なら、ここは任せるよ」
シエラは近くにいた八神へ向き直った。
「八神くん、少し辛いかもしれませんが、助けてください」
八神は苦しげに息を吐きながらも、その頼みに頷く。
シエラが両手を重ねる。
青白い光が指先へ集まり、薄い膜みたいに揺れた。
「選聖の守り」
その青白い光が八神を包み込む。
ただ治すための魔法じゃない。
身体を薄い聖膜で覆い、魔力の吸収と侵食を一時的に鈍らせる、防護の魔法だった。
八神は短く息を吐き、「ありがとう」とだけ言って立ち上がり、魔獣たちを睨んだ。
「あいつらは俺が仕留める。シエラは守りを切らさないでくれ」
短い声。
普段と変わらない調子のはずなのに、そこには迷いがなかった。
だが、今の八神は丸腰だ。
「八神、刀は!?」
「集会に持って来てない」
即答だった。
だったら――。
俺は所持していたボールペンと、つけていたネクタイピンを片手ずつ掴み、指先へ力を込める。
「物質変換」
銀色の細身の刀身が二振り、俺の手の中で形を得る。
長さを揃えた二振りの刀。
俺はそれを八神へ放った。
「八神、使え!」
八神は振り向きざまにそれらを受け取った。
片方の重さを掌で確かめ、もう片方の刃先を僅かに下げる。
「……上出来だ」
その言葉と同時に、シエラは倒れている生徒たちの中へ駆けていた。
最初に膝をついたのは、蓮次の前だ。
「蓮次くん、少しだけ耐えてください」
シエラは深く息を整え、両手を重ねる。
指先に青白い光が集まり、それが薄い膜みたいに揺れた。
「選聖の守り」
唱えられた瞬間、青白い魔法陣が蓮次の身体の下に広がる。
そこから溢れた柔らかな光が、蓮次の全身を包み込んだ。
赤黒い侵食の気配が、その光に押し返される。
蓮次の身体がびくりと震える。
「……っ、これは……!」
苦しげだった呼吸が、ほんの少しだけ整う。
蓮次は歯を食いしばりながらも、自分の腕を見て、ゆっくりと身体を起こした。
「動ける……」
「完全に回復したわけではありません」
シエラの額には、もう薄く汗が滲んでいた。
「吸い上げられた魔力そのものは戻っていません。侵食の進行を一時的に抑えて、動けるだけの余裕を作っただけです。無理はしないでください」
「……ありがとう、助かった」
蓮次は立ち上がり、まだ重い身体を確かめるように拳を握る。
「これなら動けそうだ」
次にシエラが向かったのは重護だった。
重護は倒れていながらも、周囲を睨みつけるみたいに歯を食いしばっていた。
シエラが両手をかざすと、先ほどと同じ青白い光が重護の身体を包み、まとわりついていた赤黒い気配が少しずつ薄れていく。
重護は大きく息を吸い込み、すぐに上体を起こした。
「……わるい、助かった」
「神威くん、この学院に大きな反応が三つあります」
シエラの言葉に、重護は短く頷く。
だが、その前に視線が別の方向へ走った。
倒れている生徒たちの中に、水波の姿がある。
重護はすぐにそちらへ行き、片膝をついた。
「陽奈」
短い呼びかけ。
水波は薄く目を開けた。
苦しそうではあるが、意識はある。
「……じゅ、じゅう、ご……?」
「聞こえてるな」
それだけで、重護の表情が僅かに緩む。
だが、次の瞬間にはもう引き締まっていた。
「すぐ戻る。だから、それまで絶対に意識を保っていろ」
水波は小さく頷く。
重護は立ち上がり、振り返らずにシエラの方へ戻った。
シエラは、八神、蓮次、重護に魔法をかけて動けるようにしてから、辺りを見回す。
シエラの魔法は、ここからが本番だった。
シエラは講堂中央へ出ると、両手を重ねたままさらに魔法陣を多重展開する。
三人にかけた守りとは別に、今度は講堂全体へ、薄い青白い光の膜を広げていった。
倒れている教師や生徒たちの周囲へ、半透明の防護が一斉に降りる。
けれど、その光は明らかに薄い。
三人へかけたものよりもずっと弱く、広げること自体に無理があるのが見て取れた。
「講堂全体へ守りを広げます」
シエラの声は少し掠れていた。
「侵食の速度は落とせます。ですが、効果は限定的なので長くは持ちません」
八神が短く問う。
「どのくらい持ちそうなんだ?」
「十分……いえ、十五分は持たせてみせます!」
シエラは講堂の外を一度見て、それから全員を見る。
「大きな反応は三つです。中庭、中央実技演習場、第一体育館。この三つが連動しています。どれか一つだけを止めても、残りが動いている限り、結界は止まらない可能性が高いです」
「なら三方向だな」
蓮次が言う。
「俺は中央実技演習場に行く。あそこは空間の歪みが強い。多分、結界を固定してるんだ。俺の力が役に立つと思う」
俺は中庭の方角へ視線を向けた。
「俺は中庭に行く。あそこにはずっと何かが引っかかってる」
「当然そう言うと思った」
蓮次が苦笑する。
「なら、俺は第一体育館だ」
重護が拳を握る。
「魔獣が湧いてるなら、潰して進むだけだ」
だが、そこで八神が言った。
「講堂はどうする」
全員の視線が、一瞬だけ倒れている教師や生徒たちへ向く。
今、学院の人間はこの講堂に一番集まっている。
ここを無人にするわけにはいかない。
「ここは私が侵食を鈍らせます」
シエラが言う。
「ですが、それだけでは守りきれません。講堂には前衛が必要です」
その言葉で、役目は決まった。
八神が前へ出る。
「決まりだな。俺が残る」
蓮次が頷く。
「八神なら適任だ。講堂に入ってくる魔獣を止めてくれ」
「ああ、もちろんだ」
八神は短く答えた。
その直後、出入口側の魔獣が一斉に飛びかかってきた。
八神の二刀が閃く。
派手な残光ではない。
けれど、刃の軌道だけが銀青の細い尾を引いた。
星の筋みたいに美しい線が交差し、講堂へ入り込もうとした犬型魔獣の喉と前脚が同時に断たれる。
さらに一歩。
座席の間へ滑り込もうとした別の個体の進路を、片方の刀が塞ぐ。
退こうとしたその首筋へ、もう片方が最短で入る。
八神家に伝わるという流派、幻星八剱流。
斬っているというより、侵入経路そのものを閉じているみたいだった。
「行け!」
八神が短く言う。
俺は拳を握り直した。
「分かった。行こう」
蓮次が中央実技演習場の方向へ。
重護が第一体育館の方向へ。
そして俺は、中庭へ。
三人がそれぞれ別方向へ駆け出す。
後ろでは、シエラの魔法陣が脈打ち、八神が講堂の最前へ立っていた。
赤黒い魔獣たちが唸り声を上げる。
結界の外へは逃げられない。
なら、内側で止めるしかない。
それぞれが、自分にできることを選んだ。
だがその時にはもう、天嶺学院高等学校そのものが、深蝕封界の内側へ完全に呑み込まれていた。
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