第30話 始まりの呼び声
第1部 過去への贖罪
「このまま切り上げるのは危険かもしれません」
朝霧の静かな声が、生徒会室の空気をもう一段だけ引き締めた。
机の上に広げられた見取り図には、赤い印がいくつも打たれている。
一年C組。
被服室。
管理棟資料棚周辺。
それぞれは離れているように見えるのに、こうして並べると妙な規則性があった。
しかも、その規則性が奇妙だった。
偶然ばらけたというより、最初から何かの形へ寄せられているように見える。
「澪と同意見だ」
久遠が低く言った。
「今見えている点だけでも、充分に不自然だ。報告書まで出てきた以上、候補を残したまま帰るべきではない」
有栖川が小さく息を吐く。
「まだ他にもある、と?」
「断定はできないけれど」
朝霧は見取り図へ視線を落としたまま続けた。
「少なくとも、これで終わりと判断するには材料が揃いすぎています」
ホログラム越しのエイミーさんが腕を組む。
「時間はかけすぎないで。確認して反応があれば封止。深追いはしないこと」
仙道も、そのまま言葉を継いだ。
「不朽桜周辺は別だ。あそこは点として切り出せない。今日の段階で無理に調査する必要はないよ」
その一言で、全員の意識が揃った。
やっぱり、不朽桜だけは特別な何かなんだ。
俺も同じことを感じていた。
地図の中心近くにある、まだ印のついていない空白。
あれは“何もない場所”には、どうしても見えなかった。
「分担するぞ」
久遠が言う。
「八神と有栖川は図書室。鐡とシエラは講堂だ。天宮と神威は教室棟の通路を一度押さえつつ、必要なら他の候補へ回ってくれ」
「了解」
短い返答が重なる。
それで再び、俺たちは散ることになった。
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誰もいない講堂の中は、裏手よりもさらに気味が悪かった。
広い空間のせいで静けさが薄まるかと思ったけれど、逆だった。
音が広がるぶん、空気の重さまで見える気がする。
「裏より、こっちの方が輪郭があります」
隣でシエラが小さく言った。
俺は頷く。
確かにそうだった。
裏手では、何かが薄く滲んでいるだけだった。
でも中へ入ると、その曖昧だった違和感が少しだけ形を持ち始める。
舞台。
壇上へ上がるための段差。
左右に伸びる袖通路。
整然と並んだ座席列。
どこを見ても、ただの講堂だ。
なのに、舞台へ近づくほど息苦しさが増していく。
「……あそこだ」
自分でも、どうしてそう思ったのかは分からない。
ただ、視線が引っかかった場所があった。
舞台袖へ下りる脇の壁、その下。
床との境目にある細い継ぎ目だけが、妙に深く沈んで見える。
シエラが俺の横へ並ぶ。
そこを見て、すぐに小さく頷いた。
「はい。ここです」
彼女はポケットから魔素ちゃんのシールを取り出した。
指先で術式面を確かめ、そっと継ぎ目へ押し当てる。
一瞬、紙の裏側で淡い光が走る。
次の瞬間、講堂に張りついていた嫌な圧が、一段だけ剥がれた。
「……っ」
思わず息が抜けた。
全部が消えたわけじゃない。
でも、さっきまで舞台の方からじわじわ滲んできていた気配が、確かに薄くなっている。
「封止は成功です」
シエラはそう言ってから、講堂全体を見渡した。
「ですが、これで終わりではありません」
「うん」
俺も辺りを見回す。
今のはあくまで一点。
講堂へ流れ込んでいた枝のようなものを押さえただけだ。
根本は、まだ別にある。
「講堂はこれで少し保ちます」
シエラは端末を開き、短く記録を送った。
『講堂内に魔術痕確認。封止完了』
送信を終えたあとも、俺たちはすぐには動かなかった。
舞台の奥。
高い天井。
空っぽの座席列。
何も起きていない。
なのに、何も終わっていない感じだけが残る。
「行きましょう」
シエラが言う。
「うん」
俺たちは講堂を出た。
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図書室の扉を開けた瞬間、有栖川が小さく息を呑んだ。
「……え?」
その声に、八神も一歩遅れて中へ入る。
だが、入った瞬間に足が止まった。
「……これは」
広い。
いや、広すぎる。
天嶺学院高等学校の図書室は、もともと普通の学院より規模が大きい。
古文書や歴史書だけじゃない。
魔導書、魔術書、閲覧制限付きの資料まで保管されている。
生徒用の図書室というより、小規模な資料庫に近い場所だということは知っていた。
それでも、今目の前に広がっている光景は、その範囲を明らかに超えていた。
外から見た広さと、内部の奥行きが噛み合っていない。
高い書架が何列も並んでいる。
奥へ進むほど薄暗く、天井の位置すら曖昧になる。
静かなはずなのに、空間のどこかで頁を捲るような音が遅れて返ってくる。
「図書室、よね……?」
有栖川が低く言う。
八神は視線を巡らせたまま答えた。
「そうだと思う。少なくとも、入口は図書室だ」
「入口は、って……」
「外から見た容積と合わない」
短い言葉だった。
だが、それで充分だった。
有栖川も同じことを感じていたのだろう。
書架の並びを見つめたまま、小さく息を吐く。
「空間が歪められている……?」
「その可能性が高い」
八神は検知盤へ視線を落とした。
術式灯は、管理棟よりも分かりやすく揺れている。
弱い反応ではない。
けれど、ひとつの点へ真っ直ぐ向かう感じでもなかった。
空間全体へ、薄く滲んでいる。
「ここが最後の一点候補なら、厄介ね」
有栖川が呟く。
「だからこそ、丁寧に見る」
八神はそう言って、一歩前へ出た。
「無闇に離れすぎるな。互いの姿が見える距離は保て」
「分かってるわ」
二人は書架を挟むように、少しだけ間隔を取って進み始めた。
右側の列を有栖川。
左側の列を八神。
ただし、完全には分かれない。
相手の位置を視界の端へ入れられる程度の距離を保ったまま、書架の影、棚の下、閲覧机の脚元、返却棚の裏側と、違和感が溜まりそうな場所を潰していく。
図書室の奥は静かだった。
静かすぎた。
普通の図書室なら、紙とインクの匂いが落ち着きを生むはずなのに、今は逆だ。
その匂いの下に、何か別のものが混ざっている。
濡れた石みたいな、冷えた地下室みたいな、嫌な湿度だけが空気の底に沈んでいた。
「八神君」
有栖川が小さく呼ぶ。
「どうした」
「こっちは違う。でも……」
言いかけたところで、書架の向こうから八神の声が重なった。
「いや、待て」
二人は同時に足を止めた。
検知盤の術式灯が、ぴたりと同じ脈を刻んだのだ。
強くはない。
だが今までより、はっきりしている。
「近いわね」
「ああ」
八神は有栖川の方へ回り込み、二人でさらに奥へ進む。
残るのは、司書カウンターの裏手と、その奥にある制限資料棚の周辺だった。
そこだけ、空気が一段深い。
光が暗いわけでもない。
影が濃いわけでもない。
なのに、何かが沈んでいるように見える。
有栖川が足を止める。
「……ここ」
八神も同時に視線を落とした。
制限資料棚の手前、床板と低い棚の接地面。
そこだけ、景色がほんの少し噛み合っていない。
黒く汚れているわけでもない。
ひびが入っているわけでもない。
けれど、そこに視線を置くと、奥行きがほんの僅かに狂って見えた。
「見つけたわ」
「俺もだ」
八神がしゃがみ込む。
有栖川もその隣へ膝をついた。
検知盤の揺れは、もう誤魔化しようがない。
「これがもう一つの魔術痕……」
「らしいな」
八神はポケットから魔素ちゃんのシールを取り出した。
「貼るぞ」
「お願い」
シールが床と棚の境目へ押し当てられる。
一瞬、紙の裏側に仕込まれた術式が淡く発光した。
次の瞬間だった。
図書室の奥で、ぱらり、と本の頁がひとりでに捲れる音がした。
有栖川の肩が僅かに震える。
だが八神はシールを押し切ったまま、目を逸らさない。
光が収まる。
それと同時に、図書室へ滲んでいた異様な広がりが、一段だけ静まった。
書架の圧迫感が薄れる。
奥行きの狂い方も、さっきよりましになっている。
「……効いた」
有栖川が小さく言った。
「ああ」
八神も短く答える。
「完全には消えていないが、流れは切れたはずだ」
有栖川は図書室の奥を見た。
相変わらず静かだ。
だが、入ってきた時の“飲まれるような感じ”は、少しだけ薄れている。
「これで私たちの担当箇所は終わりね」
「そうだな。これで全部だといいんだが」
八神は端末を開き、短く送信した。
『図書室に魔術痕を確認。封止完了』
すぐに受信確認が返ってくる。
有栖川はそこでようやく細く息を吐いた。
「他の人たちも、終わっているといいけれど」
「戻ってみれば分かる」
八神は立ち上がる。
「行こう」
有栖川も頷いた。
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再び生徒会室へ戻った時には、部屋の空気が最初よりさらに硬くなっていた。
朝霧がすぐに記録をまとめる。
「追加確認。講堂、図書室。いずれも封止完了」
机上の見取り図へ、また赤い印が増えた。
一年C組。
被服室。
管理棟資料棚周辺。
講堂。
図書室。
点は増えた。
だが、それで安心できる形には見えなかった。
むしろ、空白の方が目立つ。
その視線の先へ、シエラが静かに言った。
「不朽桜周辺だけは、やはり別です」
誰もすぐには口を開かない。
「点として切り出せません。あそこだけは、周囲と同じ扱いができない」
「そうだな」
久遠が低く答える。
「少なくとも今日の時点では、無理に触るべきではない」
ホログラム越しのエイミーさんが息を吐いた。
「なら今日はここまでよ。抑えられる点は押さえた。それ以上は明日に回す」
仙道も短く続ける。
「よくやったね。これで少なくとも時間は稼げたはずだ。今のうちに、本部でも送ってもらったデータを解析してみるよ」
それで、その日の調査は本当に打ち切られた。
見つけて、封じた。
けれど、終わった感じだけはどこにもない。
学院の中に仕掛けられていた異常は、少なくとも表に出ていた分だけなら抑えたはずだった。
それなのに、胸の奥に残るざらつきは、むしろ少し濃くなっている気がする。
――まだ中心が残っている。
その感覚だけが、どうしても消えなかった。
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黄昏時。
昼の名残が沈みきらず、夜の気配だけが先に滲み始めた校舎の外れに、それはいた。
人の形をしている。
だが、人ではない。
全身を覆うように黒いモヤが揺らいでいる。
煙のようでもあり、影のようでもあり、もっと別の、名づけようのない何かが形を曖昧にしていた。
輪郭は薄い。
じっと見ていなければ、夕闇の中へそのまま溶けてしまいそうなくらいに。
それなのに、そこにある気配だけが異様に濃い。
まるで、その場に立っているだけで周囲の光を喰っているみたいだった。
顔は見えない。
表情も分からない。
黒い靄の奥で、視線だけが確かに校舎の方へ向いていた。
「コレはマダマダ始まりニすぎねェぜ。エイジ」
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