第29話 忘れ去られた災害
第1部 過去への贖罪
資料棚の奥から引き抜いた分厚いファイルを、八神燈哉はしばらく黙って見下ろしていた。
表紙は無機質な灰色で、いかにも内部資料らしい簡素な作りをしている。
角に目立つ傷みはない。
ただ、長く棚の奥に押し込まれていたのか、引き抜いた拍子に薄く埃が舞った。
有栖川結衣は、その横から背表紙の文字をもう一度確かめる。
『魔族侵攻災害被害報告書』
冗談みたいな題名だった。
だが、悪趣味な作り話にしては書式も印字も整いすぎている。
学院の中で実際に管理されてきた内部資料だとしか思えない重さがあった。
「……開くの?」
「見つけた以上は、な」
八神が短く返し、表紙をめくる。
最初の頁には、赤い機密印が押されていた。
発生日時。
被害規模。
対応部局。
封鎖区域。
箇条書きの羅列でしかないのに、有栖川の背筋がじわりと冷えた。
「市街地全域……?」
思わず声が漏れる。
八神は無言のまま、頁をもう一枚めくった。
そこには簡易地図と、黒く塗り潰された被害区域の図が載っていた。
学院周辺どころではない。
街の中心部から外縁まで、複数の区域が一斉に封鎖されていたことが記されている。
さらに、その下の記述には一部だけ不自然な黒塗りがあった。
一般公表分類:広域災害
真相封鎖処置:完了
発生要因:■■■■■■■■
第一次接触対象者:四名
救護隔離対象者:二名
詳細記録は別紙保管
有栖川は息を呑む。
「……何よ、これ」
八神が頁を押さえる指先に、僅かに力が入った。
黒塗りは多くない。
だが、だからこそ不自然だった。
隠したい箇所だけが、意図的に削られている。
全部を消しているわけじゃない。
読ませる部分と、読ませない部分を明確に選んでいる。
そこまで読んだところで、二人とも次の頁をめくる手が止まった。
静かすぎる。
管理棟の廊下は元から人気がない。
だが今は、遠くの時計の音すら聞こえてきそうなくらい静まり返っていた。
だからこそ、目の前の紙に書かれている内容だけが妙に重い。
「五年前って、こんな規模の災害……聞いたことないわよ」
有栖川が低く言う。
「学院の中だけじゃない。街全体でしょう、これ」
「ああ」
「だったら、知らない方がおかしいわ。親の世代だって、絶対に話題にするはずよ。なのに……」
そこで言葉が切れる。
八神も、同じところに引っかかっていた。
記録はある。
具体的すぎるほどに残っている。
なのに、その記憶がない。
「記録だけが残ってる」
八神がぽつりと呟いた。
「記憶がないのに」
有栖川は、その言葉を反芻するように黙り込む。
風もないのに、資料棚の奥が妙に暗く見えた。
「共有する」
八神が言う。
「ええ」
有栖川もすぐに頷いた。
端末を開こうとした、その時だった。
微かだった検知盤の反応が、棚の奥で一段だけ強くなる。
「……反応、近いですね」
「報告書そのものじゃない。棚のもっと下だ」
二人は一度ファイルを閉じた。
今は長居するべきじゃない。
八神はその場に膝をつき、資料棚の最下段へ手を伸ばした。
古いファイルが詰め込まれた一番下の棚板。その奥に、ほんの僅かな隙間がある。
検知盤の術式灯が、そこへ近づけた瞬間にはっきり脈を打った。
「……やっぱりここね」
有栖川もしゃがみ込み、棚の下を覗き込む。
暗い。
埃が溜まっている。
ただ、それだけのはずなのに、その奥だけ光の沈み方が違って見えた。
八神は指先を差し入れ、奥へ押し込まれていた薄い板を引いた。
かすかな擦過音とともに、それが数センチだけ手前へずれる。
その下にあった。
棚板の裏側。
床との境目へ沿うように、細く、黒ずんだ線が這っている。
汚れではない。
亀裂でもない。
見た瞬間に分かる。
これは、意図して残された痕だ。
「……隠してたのね」
「人目につかないようにな」
八神の声は低い。
検知盤の灯が、今までで一番強く揺れた。
「これが管理棟の魔術痕……」
「ああ。封じる」
八神はポケットから魔素ちゃんのシールを取り出した。
術式面を確認し、細い線のちょうど中心へ押し当てる。
一瞬、紙の裏側に仕込まれた術式が青白く光った。
次の瞬間。
棚の奥に張りついていた嫌な気配が、すっと後ろへ引いた。
空気が変わる。
圧が、薄くなる。
さっきまで棚の下へ顔を近づけただけで胸の奥がざらついていたのに、それが一段だけ静まっていた。
「……効いたわ」
「ああ。封止は通った」
八神は板を元の位置へ戻し、周囲を一度だけ見回す。
有栖川もファイルを抱え直し、短く息を吐いた。
「管理棟の資料棚に、五年前の報告書。しかもその下に魔術痕……」
「偶然じゃないな」
「ええ」
有栖川の声も硬い。
「ここまで来ると、もう気味が悪いで済ませられないわ」
八神は報告書を抱え直し、端末へ短く送信した。
『管理棟資料棚にて五年前の内部文書を発見。魔術痕反応あり。封止確認済み。いったん持ち出す』
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天宮蓮次と神威重護は、一年C組を出たあと、そのまま教室棟の奥へ進んでいた。
さっきまでの軽口は、もうない。
最初の一件を見つけてしまったことで、調査は“念のための見回り”ではなくなっていた。
被服室の前で、蓮次が手元の検知盤を見下ろす。
「……まただ」
術式灯が微かに揺れる。
重護が扉を開けた。
布と防虫剤の匂いが薄く流れ出る。
放課後の被服室は、昼間よりずっと人気がない。
裁縫机の上には針箱が片付けきられずに置かれ、壁には布見本がそのまま残っている。
「どこだ?」
重護の声も前より低い。
蓮次はゆっくり歩き、窓際ではなく教材棚の下へ視線を止めた。
床板の継ぎ目。
そこだけ、黒いわけでもないのに沈んで見える。
「そこ」
重護がしゃがみ込む。
「また分かりにくいとこにあるな……」
「分かりにくい場所を選んでるのかもしれない」
「ほんと、趣味が悪いよな」
重護はポケットから魔素ちゃんのシールを取り出し、床の継ぎ目へ押し当てた。
一瞬、術式灯が青白く走る。
次の瞬間、被服室にあった妙な圧がすっと薄れた。
「二つ目」
蓮次が端末へ送る。
『被服室に魔術痕確認。封止完了』
送信を終えて顔を上げた時、重護が不意に言った。
「蓮次、さっきより肩の力抜けたな」
「そうかな」
「最初みたいに“見落としたら終わり”みたいな顔じゃなくなった」
蓮次は小さく笑った。
「慣れただけだよ」
「そういうことにしとく」
重護が立ち上がり、被服室を見回す。
「でも、慣れた頃が一番危ないんだよな、こういうのは」
「それは否定できない」
二人は同時に検知盤へ目を落とした。
まだ終わっていない。
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久遠託徒と朝霧澪は、生徒会室へ戻ったり校内を回ったりを繰り返しながら、各組から送られてくる反応位置を見取り図へ落としていた。
赤い印が、一つ。
また一つ。
久遠は資料の上へ細い線を引き、朝霧は時刻と封止の有無を記録する。
「一年C組、被服室……」
朝霧が低く読み上げる。
「離れているように見えて、偏っていますね」
「そうだな」
久遠は表情を変えない。
だが、その視線は徐々に地図の“空いている部分”へ集まり始めていた。
「偶然にしては、規則性がある散り方だ」
「中心を避けているようにも見えます」
「そうだな。だが、なにか奇妙だ」
「ええ。ですが――」
朝霧はそこで言葉を切り、端末の受信音に目を落とした。
「八神君たちからです」
久遠も端末を見る。
五年前の内部文書。
魔術痕反応あり。
持ち出し。
「……管理棟で?」
朝霧が顔を上げる。
久遠は目を細めた。
「戻ってもらおう」
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俺とシエラは、講堂の裏手へ回っていた。
人気の消えた講堂は、教室棟とは違う種類の静けさを持っていた。
広い空間は音を飲み込むくせに、少し遅れて返してくる。
小さな足音すら、自分たちのものじゃないみたいに聞こえた。
「検知盤は?」
俺が尋ねると、シエラは首を横に振った。
「反応は弱いです。ですが、無いとも言い切れません」
講堂裏の搬入口、舞台袖へ続く細い通路、備品庫の前。
どこも薄く空気が澱んでいる気がするのに、反応は散っていて、まだ“点”にならない。
その時、端末が震えた。
被服室封止完了。
続いて、久遠から一斉連絡。
『全組、いったん生徒会室へ。管理棟で五年前の内部文書が見つかった』
シエラが端末を見て、目を細める。
「内部文書?」
「何かあったみたいだな」
俺は講堂の暗がりをもう一度振り返った。
まだ、何かある気がする。
けれど今は、呼び戻された以上戻るしかない。
「行こう」
「はい」
講堂を出る時、背中へまとわりつくみたいな違和感が残った。
明確な反応じゃない。
なのに、そこだけ何かが根を張っているような感じがする。
俺はその感覚を上手く言葉にできないまま、シエラと並んで生徒会室へ向かった。
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全員が戻った生徒会室は、行きに見た時よりずっと空気が重かった。
八神が例のファイルを机の上へ置く。
有栖川は、いつもより少しだけ声を落としていた。
「管理棟の資料棚で見つけました。タイトルは――」
有栖川はそこで一拍置く。
「『魔族侵攻災害被害報告書』」
ホログラム越しのエイミーが、僅かに動きを止めた。
ほんの一瞬だった。
けれど、聞き慣れない単語をその場で飲み込めなかった、という反応には見えなかった。
仙道も何も言わない。
ただ、机上のファイルへ落ちた視線だけが静かに定まっている。
その沈黙だけで、軽い話ではないと分かる。
蓮次が机へ身を乗り出す。
「そんなものが、学院に残ってたのか?」
「管理棟の古い資料棚にあったわ」
八神が答える。
「まだ全部は読んでいない。だが、内容は学院単独ではない。街全体規模の災害記録だった」
俺は思わず聞き返した。
「街全体?」
「ええ」
有栖川が続ける。
「内部文書上では一般公表分類が『広域災害』、その一方で『真相封鎖処置完了』と明記されていました。発生要因は黒塗りでしたが、第一次接触対象者が四名、救護隔離対象者が二名と記されています」
部屋が静まる。
重護が低く言った。
「何だよ、それ」
「分からないから、今こうしてるのよ」
有栖川の返しも硬い。
「こんな規模の記録、聞いたことがないの。街全体を巻き込んだ災害なら、知らない方がおかしい」
八神が短く言った。
「記録はある。だが、記憶がない」
蓮次が顔をしかめる。
「俺も聞いたことない。家の記録にも、大人の話にも出てきた覚えはない」
シエラが静かに口を開いた。
「記憶そのものではなく、認識の方に処置が施されている可能性があります」
「処置って……」
重護が眉を寄せたまま言う。
「そんなことが本当にできるのか?」
「理論上は」
シエラは答える。
「大規模な結界術式や、秘匿を前提にした認識誘導なら」
「気味悪いな……」
重護が吐き捨てるように言う。
俺も同じだった。
街全体規模の災害記録があって、しかも真相封鎖なんて言葉まで残っている。
なのに、誰も覚えていない。
それは“知らなかった”では済まない違和感だった。
ホログラム越しに、エイミーがようやく息を吐く。
「その報告書、そこで全部は読まないで。今は持ち出しを優先して」
声音は抑えられていた。
けれど、抑えたまま流せる種類のものではないと分かる硬さがあった。
仙道も低く続ける。
「軽く扱っていい記録じゃない」
短い言い方だった。
それ以上は足さない。
題名そのものにも、黒塗りの先にも、あえて踏み込まない。
けれど、その触れ方の浅さが、かえってこの記録の重要さをはっきりさせていた。
久遠が見取り図の方へ視線を戻す。
「先に、今日の調査結果を整理します」
朝霧が赤い印をいくつか追加する。
「一年C組。被服室。管理棟資料棚周辺」
シエラが補足する。
「講堂裏と特別教室棟周辺では、明確な点の反応ではありませんが、薄く広がった違和感がありました」
朝霧がその位置にも小さな印を置いた。
机の上の学院見取り図に、赤い点が増えていく。
俺はそれを眺めていて、妙な感じを覚えた。
ばらばらのようで、ばらばらに見えない。
久遠も同じことを考えたらしい。
「……無作為には見えませんね」
朝霧が静かに言う。
「はい」
久遠が指先で地図をなぞる。
「まだ線にはならない。だが、偶然と言うには偏りすぎている」
蓮次が息を呑む。
「囲ってる、みたいにも見える」
重護が低く言った。
「いや、逆か。何か一つだけ避けてるようにも見える」
俺は地図の中央あたりを見た。
まだ印のない場所。
学院の中心に近い区画だけが、不自然に空いて見える。
理由は分からない。
でも、その空白だけが妙に気になった。
ホログラムの向こうで、仙道が一瞬だけ黙る。
エイミーも何も言わない。
さっきまでと同じ沈黙なのに、今度は別の意味を帯びていた。
誰も、その空白を軽く見ていなかった。
むしろ、印が打たれていないこと自体が、ひどく不自然に思えた。
学院の中に魔術痕がある。
それは、もう疑いようがない。
そして、管理棟の奥には、五年前の災害記録まで眠っていた。
調べていたのは今の異常のはずだった。
なのに、目の前に出てきたのは、それよりずっと前からこの学院に沈んでいたものだった。
俺は、もう一度だけ地図を見る。
赤い印。
その偏り。
そして、中心に近い場所だけが抜け落ちたみたいに空いていること。
――あそこに、何かある。
根拠はない。
なのに、その感覚だけが胸の奥へ重く残った。
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