第28話 過去の背表紙
第1部 過去への贖罪
八神たちと別れたあと、俺とシエラは、人気のない廊下を並んで歩いていた。
誰もいない学院は、思っていたよりずっと静かで、廊下を歩く足音が響く。
窓の外では、夕方の光が校庭の端へ長く伸びている。
いつもなら聞こえていたはずの声も、下校の支度をしている姿も今はどこにもない。
半端に開いたままの教室の扉、引ききられていない椅子、電子黒板の端に残った書き込みだけが、少し前までここに人がいたことを教えていた。
それなのに、今は空っぽだ。
学院そのものが息を潜めているように。
「……静かですね」
シエラが小さく言った。
「そうだね」
自分の声まで、廊下の奥へ吸い込まれていくように感じる。
手の中の魔力流動検知盤は、今のところ反応を示していなかった。
表面の術式灯も穏やかだ。
異常なし。
そう判断していいはずなのに、何となく気が抜けない。
「こうして人がいなくなっただけで、同じ学院とは思えませんね」
「昼間は賑やかだったのにね」
「賑やか、でしたか?」
足を止めるほどではない。
けれど、その問いには少しだけ首を傾げた。
「え?」
「いえ。皆さん、普通のふりをしていただけだったのかもしれません」
言われてみれば、その通りだった。
今日一日、誰もがいつも通りを装っていた。
授業を受けて、ノートを取り、何でもない顔で会話をしていた。
でも、本当に何でもなかったわけじゃない。
三件すべて、この学院の生徒とその家族が被害者だった。
さっき生徒会室で聞かされた事実が、改めて胸の内で重く残る。
「……瑛志くん」
「なに?」
「どこか浮かない顔をしていますね」
「そうかな?」
シエラは頷く。
「ええ。何か気になることでもあるのですか?」
「いや、なんて言うか、ここ最近の辰巳の様子がずっと引っかかってるんだ」
「言われてみれば……」
辰巳は普段なら、我が物顔で廊下を歩いている。
誰かに突っかかることも珍しくないし、教室でも大人しくしているような奴じゃない。
「教室でも大人しくて、突っかかっても来ないんだ」
「何か心境の変化でもあったのでしょうか?」
シエラは少し考え込む。
「でも、今は気に留める程度でいいのではないでしょうか」
「そうだよね。何の証拠もないし、俺が今回の件と無理やり結びつけようとしているだけかもしれない」
シエラは短く返事をした。
けれど、万が一ということもある。
「でも、辰巳とは同じクラスだし、一応見張っておくことにするよ」
俺たちはその会話を終わらせて、特別教室棟の方へ足を向ける。
美術室、音楽室、準備室、資料庫。
どこも静かだった。
扉を開ける度、少し冷えた空気が流れ出る。
誰もいない部屋には、昼間の熱だけが取り残されているみたいだった。
検知盤は、まだ反応しない。
階段の踊り場まで来た時だった。
何でもない場所のはずなのに、足が一瞬止まる。
「……?」
「どうしましたか?」
「いや……」
言葉にしようとして、上手く出てこなかった。
古い壁。
磨き切れていない手すり。
窓から差し込む夕方の光。
どこを見ても、ただの学院の階段でしかない。
なのに、その一角だけ空間が少しだけ色濃く見えた。
濃い、というのも変な言い方だ。
深いわけでも、歪んでいるわけでもない。
ただ、そこだけ景色が上書きされている気がした。
「上手く言えないけど……そこだけ、ちょっと気になった」
シエラは俺の隣へ来て、指を差した場所を見る。
しばらく黙ってから、小さく頷いた。
「なるほど……」
「何か分かる?」
「私も、似た感覚でした」
検知盤は反応していない。
それでも、何もないとは言い切れない。
シエラは階段を一段下り、ゆっくり周囲を見渡した。
「本体、ではありませんね」
「何となく言いたいことが分かる」
「今まで想定していたものとは違い、ここには、何かを隠すための術式が張られています。検知盤でも拾えないほど薄く、巧妙に」
「つまり、結界が張られているってことだよね?」
「はい」
即答だった。
「人が見て分かりやすい異常だけが、異常ではありませんから」
俺はもう一度、その踊り場を見た。
何でもない場所。
だからこそ、仕掛けやすい。
「報告しておこうか」
俺は端末を開き、現在地と状況を共有する。
『特別教室棟、階段踊り場に隠蔽系の術式反応あり。検知盤には反応なし。詳細確認を続ける』
送信してすぐ、久遠から受信確認が返った。
その時、手の中の端末が短く震えた。
通信だ。
画面を開くと、久遠からの全体共有だった。
『天宮・神威組が反応を確認。場所は一年Cクラス。封止に入ると報告があった』
一年Cクラス。
俺と有栖川の教室だった。
思わず足が止まる。
シエラも表示を見て、少しだけ目を細めた。
「瑛志くんと有栖川さんの教室、ですね」
「……うん」
胸の奥が、軽くこつかれたみたいにざわつく。
何でそこなんだ、と思った。
けれど今は、自分の担当区画を離れるわけにはいかない。
俺は短く息を吐いて、画面を閉じた。
「行こう」
「はい」
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少し前――。
蓮次と重護は、教室棟の端から順に一年生の教室を見て回っていた。
放課後の教室は、静かなのに妙に雑然として見える。
机の上に残された教科書。
半分だけ閉じたカーテン。
点いたままの電子黒板。
ついさっきまでそこにいた生徒たちの気配だけが、教室の中へ取り残されていた。
「蓮次。お前、肩に力入りすぎじゃねぇか?」
前を歩きながら、重護が振り返りもせずに言った。
「そう見えるか?」
蓮次は検知盤から目を離さずに返す。
「見える。今回は調査だけなんだから、もう少し力抜いてもいいと思うぞ」
蓮次は苦笑しかけて、結局やめた。
「仕方ないだろ。みんなの命がかかってんだから」
「命、ね」
重護が鼻を鳴らす。
「お前、少し真面目すぎるんじゃねぇか?」
「そういうんじゃないよ」
「じゃあ何だよ」
蓮次は数歩進んだあとで答えた。
「天宮家は、昔に比べりゃ随分落ちぶれたからな」
重護が足を止める。
蓮次もそれにつられて立ち止まった。
「……そういうことか」
「ああ、お前だって知ってるだろ。天宮家は“落ちた名家”って言われてるのを」
蓮次は少しだけ目を伏せた。
「今でこそ、天宮の名前はまた有名になってきたけど、それも、良い意味ばかりじゃない。三年前のことだ。俺に、初代当主と同じ性質の魔力があるって分かった。ついでに、鬼の適性までな。そこから急に、周りの目の色が変わった」
鬼の適性。
それを口にした時だけ、蓮次の声がほんの少し硬くなった。
誇るための言葉ではない。
かといって、恐れて逃げるための言葉でもない。
ただ、自分の中にある重責を再確認するような言い方だった。
重護は口を挟まずに聞いていた。
「それまでは、正直そこまで期待されてなかった。けど、分かった途端にこれだ。大人ってのは勝手だよな。自分たちの事しか考えてない」
「……なるほどな」
「だから、思惑通りで気に入らないが、少しは見返してやろうと思ってるだけだ」
重護はしばらく黙ってから、低く息を吐いた。
「そこが真面目すぎるんだよ、お前」
「そうなのかもな」
「でもまあ、そういう理由なら分からなくもない」
そこでようやく、少しだけ空気が緩んだ。
「だったら、見落とすわけにはいかねぇな。背負うのは勝手だけど、ひとりで全部背負うな」
蓮次は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「うん。そうする」
そのまま二人は一年Cクラスの前へ来た。
瑛志と有栖川の教室だ。
重護が扉を開ける。
夕日の色が、無人の教室へ斜めに差し込んでいた。
「ここも、ただの教室にしか見えねぇな」
そう言いながら中へ入った瞬間、蓮次の手の中で検知盤がぴくりと震えた。
「……待って」
重護が動きを止める。
「何だ?」
検知盤の表面に走る術式灯が、今までと違う脈で震えていた。
弱い。
だが、偶然や誤作動で片づけられる反応じゃない。
蓮次は教室の中をゆっくり見渡す。
何でもない教室だ。
机が並び、前方の電子黒板には授業の名残が薄く残っている。後ろには掃除用具入れがあった。
だが、教壇脇の壁、その下の床の継ぎ目だけが妙に視線を引いた。
「……ある」
重護もそちらへ近づく。
教壇の横、壁紙の継ぎ目と床の境目。
その一角だけ、空間の歪みが違って見えた。
黒く汚れているわけではない。
けれど、そこだけ景色が少し深く見える。
「これか」
「多分な」
重護の声から軽さが消える。
「冗談みてぇな場所だな。普通ならこんなの、誰も気にしねぇぞ」
蓮次は無言で頷いた。
嫌な感じがした。
派手なものではない。
人目を引くためのものでもない。
ただ、学院の景色の中に紛れ込んで、誰にも気づかれずそこにある。
それが余計に気味が悪い。
蓮次はすぐに端末を開き、共有を飛ばした。
『一年Cクラスに魔術痕らしき反応を確認。これより封止に入る』
短い振動と共に、すぐに久遠から受信確認が返った。
間を置かず、エイミーの声が端末から流れる。
『確認した。そのまま封止して』
蓮次は「了解」と短く返し、端末を閉じた。
「貼るぞ」
重護がポケットから魔素ちゃんのシールを取り出す。
「本当に効果はあるんだよな……」
蓮次が思わず漏らすと、重護は「それは貼ってみてからだ」と低く返した。
シールを壁際の異常箇所へ押し当てる。
一瞬、紙の裏側の術式がかすかに光った。
次の瞬間、教室に薄く張っていた圧が、すっと抜けた。
何かが派手に変わったわけじゃない。
風も吹かないし、光も走らない。
それでも二人には分かった。
今までそこにあった“嫌なもの”が、一段だけ静まった。
「……効いたな」
重護が小さく言う。
蓮次はすぐに端末を開き、共有を飛ばした。
『一年Cクラスに魔術痕を確認。封止完了』
短い振動と共に、久遠から受信確認が返る。
続けて、エイミーの声が端末から流れた。
『封止を確認。そのまま続行して』
仙道の声も重なる。
『よくやってくれた。ありがとう。次もよろしく頼むよ』
蓮次は「了解」と短く返して端末を閉じた。
教室の中はまた、さっきまでと同じように静かだった。
だが、もう何もない場所には見えない。
一年Cクラスにあった。
なら、他にもある。
その事実だけが、二人の間に重く残っていた。
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久遠託徒と朝霧澪は、生徒会室を拠点に校内を行き来しながら、各組から送られてくる反応位置を見取り図へ反映していた。
赤い印が、一つ。
また一つ。
久遠は資料の上へ細い線を引き、朝霧は時刻と封止の有無を記録していく。
「一年Cクラス、封止完了です」
「ああ」
久遠は穏やかな声で答えた。
だが、その表情に安堵はない。
ひとつ見つかったということは、無かったと安心できる段階が終わったということでもある。
「思ったより早かったですね」
「そうだな」
久遠は視線を地図から外さない。
朝霧は窓の外へ目をやった。
「……静かすぎますね」
「学院は、こういう時ほど妙に広く見えるものだからな」
「そういう意味ではありません」
久遠が少しだけ笑う。
「分かってる」
そう返した声も、やはり少しだけ硬かった。
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管理棟の一角は、他の校舎よりもさらに静かだった。
八神は前を歩き、有栖川はその半歩後ろを進む。
職員室、職員用倉庫、会議室の脇を抜ける度、紙と埃の匂いが少しずつ濃くなる。
「八神君って、本当に喋らないわよね」
唐突に、有栖川が言った。
八神は足を止めずに答える。
「敢えてそうしてるだけだ」
「そうしている?」
「喋らないんじゃない。余計なことを言わないだけだ」
有栖川は少しだけ眉を上げる。
「それは、八神家の人間だから?」
今度は、八神の足がほんの少しだけ遅れた。
「……どうしてそう思う」
「見れば分かるわ。言葉を選びすぎてるもの」
数秒の静けさ。
やがて八神は、低く言った。
「言葉一つひとつに責任が伴う立場なんだ」
それだけだった。
説明にはほど遠い。
だが、その短さで背負わされている重圧が、何となく理解できた。
「そう」
有栖川はそれ以上、すぐには踏み込まなかった。
八神は、必要なことしか言わない人だと思っていた。
けれど今の言葉で、少しだけ見え方が変わる。
八神は言葉が少ないのではなく、言葉の責任と重さを知っているのだ。
二人は資料棚の並ぶ廊下へ入る。
この棟に入ってから、検知盤は弱く震え続けていた。
点の反応ではない。
空気の中に薄く何かが散っているみたいで、逆に気味が悪い。
「さっきより近いわね」
有栖川が小声で言う。
八神も検知盤に視線を向けたまま頷く。
「……微弱だが、間違いないと思う」
「魔術痕、ってこと?」
「断定にはまだ早いが、そう思う」
そう言いながら、八神の視線は資料棚の奥へ吸い寄せられていた。
古いファイルがぎっしりと並ぶ棚。
その奥、他の資料に半ば隠れるように、一冊だけ古びた黒いファイルが差し込まれている。
検知盤の術式灯は、その黒いファイルの前で僅かに明滅を速めていた。
有栖川が棚へ近づき、指先で埃を払った。
「この辺ね」
八神が指先を近づけると、検知盤の明滅が一段だけ速くなった。
彼は無言で、その一冊を引き抜く。
分厚いファイルだった。
いかにも内部資料らしい簡素な作りをしている。
「何なの、それ」
有栖川が問う。
八神はそれを少し持ち上げ、背表紙を見た。
その題名を見た瞬間、手の動きが止まる。
有栖川も、その文字を追った。
背表紙には、はっきりとこう書かれていた。
『魔族侵攻災害被害報告書』
廊下の静けさが、一段深くなった気がした。
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