第26話 動き出す校内調査
第1部 過去への贖罪
あれから、数日が過ぎた。
今日も、見た目だけならいつもと変わらない朝だった。
玄関では上履きに履き替える列が少し詰まり、前の生徒がロッカーの扉を閉め忘れて、後ろの誰かが小さく舌打ちする。
教室へ向かう廊下では、朝練帰りの生徒たちが汗くさいだの眠いだの騒いでいて、購買の新作パンがどうこうという話まで聞こえてきた。
どこにでもある、ありふれた朝だ。
ただ、その雑多な会話の中に、最近は決まって別の話題が混ざるようになっていた。
「また出たらしいな」
「何が?」
「心臓が無い死体。昨日の夜の速報」
「……またかよ。何件目だよ、もう」
「マジで夜、家に居たくねぇんだけど」
その言葉だけが、やけに耳に残る。
心臓が無い死体。
胸に傷はない。
刺された痕も、抉られた痕もない。
それなのに、心臓だけが無い。
最初に聞いた時は、何かの聞き間違いかと思った。
けれど、この事件は一件では終わらなかった。
二件、三件と続き、今ではもうニュースで『心臓消失事件』として扱われている。
死人が出ているにも関わらず、殺人と断定できていないのは、傷跡が無いことが理由だそうだ。
しかも、その発生場所は学院の周辺に集中している。
そのせいで、校内にもじわじわと不安が広がっていた。
俺は教室へ入り、席へ向かいながら自然に後ろを見る。
辰巳剛毅は、今日も登校していた。
それだけなら何もおかしくない。
問題は、その空気だった。
机に片肘をつき、窓の外を見ている。
取り巻き二人は近くにいるのに、妙に距離がある。
無視しているわけじゃない。
かといって、いつものように辰巳の機嫌を窺いながら軽口を叩くわけでもない。
そして何より、辰巳自身が静かすぎた。
前なら、理由もなく突っかかってきた。
機嫌が悪ければ舌打ちをし、気に入らないことがあればそのまま顔に出した。
分かりやすく荒れていて、分かりやすく刺々しかった。
でも、今は違う。
荒れていない。
けれど、落ち着いてもいない。
妙に静かで、妙に熱がないくせに、その奥に薄暗いものだけが沈んでいるような顔だった。
俺が見ていたことに気づいたのか、辰巳がふとこちらへ視線を向ける。
一瞬だけ、目が合う。
前までなら、そこには露骨な敵意があった。
今はもっと薄くて、もっと嫌な、底の見えない濁りがあった。
次の瞬間には、辰巳は何事もなかったみたいに視線を逸らしていた。
胸の奥に、小さなざらつきが残る。
あの装甲機の継ぎ目の奥で脈打っていた赤黒いものを、なぜか思い出した。
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一限目と二限目の間の休み時間。
廊下へ出たところで、ちょうど蓮次と鉢合わせた。
「おはよう、瑛志」
「おはよう」
蓮次は俺の顔を見るなり、小さく息を吐いた。
「お前も、あんまり寝てない顔してるな」
「蓮次に言われたくないよ」
「それはそうか」
少しだけ笑う。
笑ったのに、空気は軽くならなかった。
蓮次が廊下の先へ目をやったまま言う。
「最近、やっぱ変だな」
「事件のこと?」
「それもあるけど、それだけじゃない。みんな普通に喋ってるのに、何か一枚張ってる感じがする」
言いたいことはよく分かった。
そこへ、向こうから重護が歩いてくる。
「お、二人ともいたか」
「重護も感じる?」
俺がそう聞くと、重護は少しだけ眉を寄せた。
「感じる。最近、マジで嫌な感じだな」
「お前、そういう勘あるよな」
蓮次が言うと、重護は肩をすくめた。
「ここ最近はニュースでも心臓消失事件がずっと報道されてる。学院から近いのもあって、みんな気が気じゃないんだろ」
確かに今はそうだ。
事件に不安を抱えながらも、みんな授業を受けて、ご飯を食べて、笑っている。
必死に普通を装っている。
その時、職員室の扉が開いた。
浦邊が出てくる。
俺たち三人を一瞥し、そのまま通り過ぎた。
何も言わない。
けれど、歩幅だけがいつもより少し速い。
重護が小さく呟く。
「ほらな」
蓮次も何も言わず、その背中を見送った。
俺も黙ったままだった。
たぶん、今ここで口にしてしまうと、何か良くないものに巻き込まれそうな気がしたからだ。
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午後からの授業は、俺も含めて教室中がどこか集中できていなかった。
教師の声も少しだけ硬い。
窓の外を走る風の音まで、妙に耳につく。
授業の終わり際、教室の照明が一瞬だけ明滅した。
ほんの一瞬。
気のせいと言えば、それで済む程度だ。
「……ん?」
「今、消えた?」
前の席の生徒が振り返りかける。
教室の中では、そこまでざわつきも広がらない。
誰かが「古いんじゃね」と笑って、それで終わった。
終わったはずなのに、俺の胸の奥にはその一瞬が残った。
今のは、ただの照明の不具合だったのか。
それとも、別の何かだったのか。
答えは出ない。
けれど、その小さな違和感が、放課後の呼び出しを前触れみたいに思わせた。
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終礼が終わると同時に、教室の前へ朝霧澪が現れた。
生徒会副会長だ。
いつも通り、背筋の伸びた姿勢で立っている。
ただ、その顔は普段より少し硬い。
「鐡君、有栖川さん。生徒会室へ来てください」
教室の空気が、僅かに止まる。
「……私たちですか?」
有栖川が眉を上げる。
「はい。久遠託徒生徒会長からです」
朝霧は短くそう答えた。
それだけ言って、余計な説明はしない。
俺は鞄を持って立ち上がる。
有栖川も不満そうな顔のまま席を立った。
廊下へ出ると、朝霧が先を歩き出す。
俺たちはその後ろについた。
「……鐡君は、生徒会から呼ばれる心当たりある?」
有栖川が前を向いたまま言う。
「いや、全然」
「私もよ」
声は静かだったが、明らかに機嫌は良くなかった。
「放課後に呼び出すからには、それなりの説明はあるのでしょうね」
「たぶん」
そう返しながらも、胸の奥は少しざわついていた。
朝霧は一度だけ振り返る。
「他の方々にも、すでに声はかけています」
「……他の方々?」
俺が聞き返すと、朝霧は淡々と続けた。
「天宮君、神威君、八神君、シエラさんです。詳しい話は生徒会室で」
そこで会話は切れた。
廊下を曲がり、生徒会室のある棟へ向かう。
隣を歩く有栖川は、露骨に納得していない顔だった。
「ずいぶんですね」
その声音は冷たい。
「何が?」
「放課後にわざわざ複数クラスから呼びつけるなんて。余程のことなのでしょう」
その言い方には棘があったが、間違ってはいない。
俺もそう思う。
ただ事じゃない。
その感覚だけが、朝霧の背中を見ているだけで嫌でも伝わってきた。
生徒会室の前まで来ると、扉はすでに半分開いていた。
中には、先に呼ばれていたらしい蓮次たちの姿が見える。
「……俺たちが最後ですか」
思わず漏れた言葉に、朝霧は小さく頷いた。
「はい。全員揃っています」
生徒会室の扉を開けた瞬間、空気が違うと分かった。
中にいたのは、久遠託徒だけじゃない。
部屋の奥、窓際に男が立っている。
長身。
静かにそこにいるだけなのに、視線が吸われる。
壱番隊隊長、仙道遼司。
名前も顔も知っている。
入学式の日、部隊紹介でも見たし、壱番隊に配属された以上、知らないはずがない。
けれど、こうして同じ部屋で向き合うのは初めてだった。
そのすぐ横、長机に片手を置いているのは、漆番隊隊長のエイミー・ターナー。
こちらも同じだ。
隊長として存在は知っている。
だが、直接会うのはこれが初めてだった。
それだけで、喉の奥が少し強張る。
生徒会室のはずなのに、普段の業務の空気じゃない。
書類や端末が並んでいるのに、それら全部が別のものの前置きみたいに見えた。
俺だけじゃないはずだ。
隣の蓮次も、表情こそ崩していないが視線が少し硬い。
重護も、さっきまでの気安さが消えている。
有栖川ですら、口を閉ざしたまま一度だけ室内を見回していた。
久遠が俺たちを見渡し、短く言った。
「全員揃ったな。入ってくれ」
久遠は生徒会長らしく落ち着いていた。
だが、その落ち着きの下に張ったものまでは消えていない。
俺たちは席につく。
仙道は腕を組んだまま壁に寄りかかっている。
エイミーは机の上の資料に手を置いたまま、何も言わない。
無言なのに、それだけでこの場の中心がどこにあるのか分かった。
最初に口を開いたのは、有栖川だった。
「……先に聞きますけど、なぜ私たちが呼ばれたのですか?」
はっきりした声だった。
「教師陣だけで処理できない問題なんですか」
生徒会室の空気がさらに張る。
久遠が何か言いかけたが、その前に仙道が答えた。
「そうだよ」
短い。
「近頃、心臓消失事件が起きていることは知っているね?」
「はい」
「その事件については、もうS.C.A.L.E.も動いてる」
そこで仙道は一拍置いた。
「そして、事件現場には通常の現代魔術理論では説明しきれない術式の残留痕が確認されている」
聞き慣れない響きに、俺たちの意識が揃う。
「こちらでは便宜上、それを『魔術痕』と呼んでいる」
エイミーがその先を引き取った。
「で、面倒なことに、この学院の中でもその魔術痕に近い反応がいくつか確認されてる。まだ断定はできないけど、心臓消失事件と無関係とは言いづらいってわけ」
有栖川が小さく目を細めた。
「なら、なおさら教師やS.C.A.L.E.が動くべきでは?」
「露骨に動けば、相手に警戒される可能性が高い」
仙道が即答した。
「敵が学院の中に足場を作っているなら、気づいた時点で痕跡を消すか、動きを早めるかもしれない」
朝霧が資料の束を机に並べる。
久遠はそれを受け取り、俺たちの前へ順に配った。
簡易見取り図。
校舎配置。
担当区画のメモ。
「生徒会は、普段から校内を動く理由がある」
久遠が言う。
「澪と俺は、不自然に見えずに回れる。そこへ、今回の件で適性があると判断された人材を加えたのが今回の形だ」
重護が低く唸る。
「つまり、俺たちに校内を探れってことですか」
「そういうことになるわね」
エイミーが薄く目を細めた。
「ただし、これは遊びじゃない。危ないと思ったら即報告。単独での判断は禁止。分かった?」
「……質問いいですか」
今度は蓮次が口を開いた。
「俺たちが選ばれた理由は何ですか?」
仙道の視線が順に動く。
「久遠くんと朝霧さんは、生徒会として自然に動ける。八神くんと有栖川さんは観察と判断に秀でている。天宮くんは安定した対応力、神威くんは実働と護衛。シエラちゃんは通常の魔術理論とは別の感覚を持つ」
そこで一拍置かれた。
最後に視線が俺へ向く。
「そして鐡くんは、君自身の力を活用してほしい。今回の件、君が一番適任だと思ったんだ」
心臓が一拍だけ重くなる。
俺は何も言わなかった。
否定も肯定もできない。
きっと仙道隊長は、この件以外でも何かを確かめたいのだろう。
エイミーが長机の上に、いくつかの小型機器を並べた。
掌に乗るくらいの薄い円盤。
小さな符片。
記録用の端末。
「こっちが『魔力流動検知盤』。事件現場で検知した魔術痕の反応を基準値として設定してある。それに近い魔力を拾うはずよ」
エイミーはもう一つの符片を指で弾いた。
「で、こっちが『魔素ちゃんのシール』」
重護が少しだけ眉を上げた。
「……今なんて?」
「魔素ちゃんのシールよ」
エイミーは平然と言った。
「開発部が正式名称として通してきたの。私も最初は耳を疑ったけど、書類にそう書いてある以上、これが正式名称よ」
ほんの一瞬だけ、空気が緩む。
でもそれは、張りつめた糸が切れない程度の小さな隙だった。
エイミーはすぐに真顔へ戻る。
「魔素ちゃんのシールは、見つけた魔術痕の上に貼ることで、侵食や術式進行を一時的に鈍らせる魔道具。検知した反応と位置情報は全部、この記録端末へ送る。最終的な照合は玖番隊に回すわ」
朝霧が見取り図を広げる。
「行動は二人一組です」
久遠が編成を告げた。
「俺と澪。八神と有栖川。天宮と神威。鐡とシエラ」
有栖川が少しだけ眉をひそめたが、異論は口にしなかった。
八神は当然みたいな顔で頷くだけだ。
シエラが小さくこちらを見る。
俺も視線だけで返した。
仙道が最後に言った。
「今はまだ、学院の中に“何かがある”としか言えない。だからこそ、余計な先入観は持たない方がいい。検知したものだけ、感じたものだけを報告してほしい。判断は僕ら大人たちがする」
低い声だった。
「君たちは、学院の中を自然に動ける。それだけで充分に価値がある。まだ一年生で、警戒される恐れも少ない」
部屋が静まり返る。
「でも実際の動き出しは、こちらの判断で改めて指示する。だから準備だけはしておいてほしい。状況次第では、すぐに動いてもらうことになるけどね」
それで終わりだった。
長い説明だったはずなのに、最後の一言だけが妙にはっきり胸に残る。
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生徒会室を出ると、廊下の空気はもう夕方の色へ寄っていた。
重護が大きく息を吐く。
「思ったより話が重かったな」
「思ったより、じゃ済まない気もするけど」
蓮次が苦笑混じりに返した。
有栖川は資料へ目を落としたまま歩いている。
八神はもう、明日の行動順を頭の中で組み立てているみたいに無言だ。
久遠と朝霧は生徒会室へ残った。
シエラが静かに言う。
「少なくとも、ただの噂ではなくなりましたね」
「うん」
それだけしか返せなかった。
校内調査。
異常の痕跡。
露骨に動けない教師たち。
昨日まで、胸の奥でざらつくだけだったものが、今はもうはっきり形を持ち始めている。
俺たちは、その内側へ入る。
廊下を曲がり、教室へ置いた鞄を取りに戻る。
扉の前で、足が少し止まった。
教室の中は、ほとんど空になっていた。
窓際の席に、辰巳がいた。
まだ帰っていない。
夕日が斜めに差し込んで、その横顔だけを赤く照らしている。
取り巻きはもういない。
ひとりで窓の外を見ていた。
何気ない光景のはずなのに、妙に目が離せなかった。
俺が入った気配に気づいたのか、辰巳が顔を上げる。
一瞬だけ目が合う。
敵意はない。
挑発もない。
なのに、その目の奥には、前までよりずっと嫌なものが沈んでいた。
乾いているくせに、底だけが濁っている。
次の瞬間には、辰巳は何事もないみたいに視線を逸らしていた。
俺は鞄を掴む。
それだけなのに、胸の奥がざわついた。
明日から、校内の異常を探すことになる。
でも、本当に嫌なのはそれだけじゃない。
今、俺の目の前にあるこの静けさの方だった。
静かなのに、前よりよほど不気味だ。
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