第21話 動き出す気配
第1部 過去への贖罪
翌朝。
目を覚ましたとき、部屋の中にはまだ淡い朝の色しか差していなかった。
枕元の端末に手を伸ばす。
表示された時刻は、午前五時十二分。
寝坊したわけじゃない。
むしろ、早すぎるくらいだ。
昨日は疲れていたはずなのに、妙に眠りが浅かった。
瞼の上から目を軽く握る。
戦力評価測定のあとに残っていた熱は、もうほとんど消えている。
痛みもない。
それなのに、識別空間測定の終盤で触れかけた“何か”の感覚だけが、まだ意識の底に薄く沈んでいた。
あれが何だったのかは、結局分からないままだ。
もう一度目を閉じてみても、眠気は戻ってこなかった。
「……走るか」
小さく呟いて、俺はベッドから起き上がった。
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早朝の街は静かだった。
人の気配はまだまばらで、空気は少し冷たい。
澄んだ冷気が肺の奥までまっすぐ入ってくる。
この感じは嫌いじゃない。
一定の呼吸を保ちながら、住宅街を抜けていく。
道は空いていて、走るにはちょうどよかった。
頭の中を空にしたかったのもある。
昨日のこと。
識別空間測定で触れかけた違和感。
今朝まで残っていた妙な気配。
せめて走っている間だけでも、全部どこかへ追いやりたかった。
けれど、そう簡単にはいかなかった。
曲がり角を抜けた瞬間、背中に薄い何かが触れた気がした。
「……?」
足を緩め、振り返る。
誰もいない。
通りの端に並ぶ街路樹。
まだ閉まったままの店のシャッター。
遠くの信号。
静かな住宅の壁。
どこにも不自然なものは見当たらなかった。
気のせいか、と思ってまた走り出す。
しばらくして、同じ感覚がもう一度あった。
今度はさっきよりはっきりしていた。
“見られている”と分かる。
でも、それは殺気じゃない。
敵意とも違う。
ぞくりと背筋が冷えるような圧じゃなく、もっと薄い。
遠くから、値踏みするみたいに、ただ一方的に視線だけを向けられているような感覚だった。
もう一度立ち止まり、今度は少し長く周囲を見回す。
けれど、やはり誰もいない。
「……考えすぎか」
小さく息を吐く。
昨日の測定のせいで、感覚が妙に尖っているだけかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、俺は帰り道へコースを切り替えた。
結局、その視線の正体は最後まで掴めなかった。
ただ、何もなかったと片づけるには、妙に胸に残る感覚だった。
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登校した学院は、朝から妙にざわついていた。
校門をくぐり、玄関へ向かう生徒たちの流れに混ざる。
すれ違う会話の中に、いつもよりはっきりと俺の名前が混ざっていた。
「見た? 昨日の」
「いや、マジで何なんだよあれ」
「鐡って魔力ないんじゃなかったの?」
「動画、もう回ってきてるって」
靴を履き替えながら、前の生徒たちの端末画面がちらりと目に入る。
昨日の戦力評価測定の動画だった。
誰かが個人端末で撮ったのか、そこには複合空間識別の中で動く俺の姿が、たしかに映っていた。
広まるのが早すぎる。
……まあ、あれだけ人がいれば、誰かが撮っていてもおかしくはないか。
「おい、あれ本人じゃね?」
「うわ、ほんとだ」
「昨日の動画見たけどさ……なんか普通じゃなくなかった?」
「壱番隊に入ったの、やっぱ理由あったってことか」
「でも逆に気味悪いだろ。魔力ないのに」
視線が刺さる。
前までのそれは、魔力のない落ちこぼれを見る、ある意味わかりやすい目だった。
見下しと嘲りだけで済む、単純な視線。
でも、今日は違う。
興味と警戒と、理解できないものへの戸惑いが混ざっている。
俺は何もなかったように、そのまま玄関を抜けた。
「おはよう、瑛志」
横から声をかけられて振り向くと、蓮次がいた。
「おはよう」
「朝からすごいな」
蓮次は少し苦笑しながら、周囲を見回した。
「動画、結構広まってるみたいだな」
「そうみたいだね」
「嫌な感じか?」
その訊き方が、いかにも蓮次らしかった。
変に気を遣いすぎず、それでいて雑でもない。
「……仕方ないかなって思う」
「そりゃそうだろ」
あっさり返してくる。
「でも、昨日のあれを見たら、みんな騒ぐと思う」
「蓮次までそんなこと言うのか」
「いや、変な意味じゃなくて。実際すごかったし」
探るような色はない。
ただ、見たものをそのまま言っているだけだ。
少しだけ肩の力が抜けた。
「ありがとう」
「別に、礼を言われるようなことじゃないって」
蓮次はそう言ってから、「教室行くか」と軽く顎をしゃくった。
俺たちは並んで廊下を歩き出した。
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教室に入っても、空気は落ち着いていなかった。
席につくまでの間にも、ちらちらと視線が向けられる。露骨に話しかけてくる生徒はいない。
けれど、端末越しに昨日の動画を見返している生徒は何人もいた。
その空気を、わざと大きな音で断ち切るように椅子が引かれた。
「ずいぶん人気者になったじゃねぇか」
聞き慣れた、棘のある声。
辰巳剛毅だ。
取り巻きの二人を従え、教室の真ん中でわざとらしく肩を鳴らしている。
「動画回ってよかったな。魔力もねぇくせに、変な目立ち方できて」
周囲のざわめきが少しだけ静まる。
俺は答えず、そのまま席に座った。
「おい、無視してんじゃねぇぞ」
辰巳の声に熱が混ざる。
一昨日までの単なる見下しとは違う。
苛立ちがはっきり滲んでいた。
「たまたま動画が回ったくらいで調子に乗るなよ。どうせマグレだろ。壱番隊だって、何かの間違いで入っただけじゃねぇのか?」
返す言葉を探さなかったわけじゃない。
ただ、ここで応じても何にもならないのがわかっていた。
前だけを見る。
それが余計に癇に障ったらしい。
「おい! 何とか言えよ!!」
辰巳が俺の席の机に拳を叩きつける。
「魔力もねぇやつが、俺たちと同じ場所にいること自体おかしいんだよ」
その声には、ただの悪意だけじゃない苛立ちがあった。
「ここは力を持つ奴が通う学院だろ。お前みてぇなふざけた奴がいるのが理解できねぇ」
教室のざわめきがまた少し静まる。
辰巳にとって、魔力は単なる才能じゃない。
自分の存在証明そのものなんだろう。
だからこそ、そこから外れている俺の存在が許せない。
そのときだった。
教室の扉が開き、空気が変わる。
入ってきたのは、若い男の教師だった。
黒縁の眼鏡。
短く整えられた黒髪。
無愛想というより、感情を無駄に表へ出さない顔つき。
全身は黒を基調としていて、その上からローブを羽織っている。
黒い手袋をはめた手には、『魔術基礎』と書かれた教科書と、いかにも重たそうな分厚い本があった。
教室へ入るなり、彼は一度だけ全体を見渡した。
「みなさん、おはようございます」
静かな声だった。
大きくもないのに、教室の隅までよく通る。
「僕はこのクラスの基礎魔術と応用魔術を担当することになった、天野義輝です。とりあえず、着席してください」
辰巳たちは舌打ちしながら、自分の席へ戻っていった。
「これから魔術を扱う上で必要な基礎を学んでもらいます。習得の早さには個人差がありますが、正しい知識を身につけていけば、積み上げることは可能です」
彼――天野はそのまま教卓に立ち、本を置いた。
話し方は淡々としていて、無駄がない。
「先生」
すっと手が上がる。
「……君は確か」
「有栖川結衣です」
「ああ、そうでしたね。それで、なんでしょう?」
「ここにいるほとんどは、幼少期から基礎を学んできています。なぜ今さら基礎をやり直す必要があるのでしょうか」
まっすぐな問いだった。
天野は表情を変えないまま答える。
「“ほとんど”ですよね」
その一言に、教室の空気が僅かに揺れた。
「それに、基礎を見直すことは強くなるためにとても大切です。基礎を理解していることと、基礎を極めていることは別ですから」
なるほど、と心の中で頷く。
何事も土台から、というのは分かる。
その流れを、また別の声が乱暴に断ち切った。
「でもここには、魔力を全く持ってねぇやつもいるぜ?」
辰巳だった。
「そんな奴、授業を受ける資格すらねぇだろ。なぁ?」
視線が一斉に俺へ向く。
俺は顔を上げなかった。
「おい、無視してんじゃねぇ!」
辰巳が椅子を蹴るように立ち上がり、こちらへ詰め寄ってくる。
その瞬間だった。
教卓の上に置かれていた分厚い本の頁が、ぱらりとひとりでにめくれた。
風はない。
なのに紙だけが意志を持つみたいに滑り、開いた頁の上へ淡い術式光が走る。
次の瞬間、辰巳の動きがぴたりと止まった。
教室がざわつく。
見えない何かに全身を絡め取られたように、辰巳は中途半端な姿勢のまま固定されていた。
「おい貴様」
天野の声は、変わらず静かだった。
「いい加減にしろ。僕の授業を邪魔するつもりか?」
「……っ、く。で、でもよ! こいつは魔力を持ってねぇ雑魚だ! こんな奴が授業を受けても意味がねぇ!」
「それは貴様が決めることなのか?」
間髪入れず返された言葉に、辰巳が言い淀む。
「い、いえ……」
天野は開いたままの本に片手を置き、辰巳を見た。
その視線には温度がなかった。
「鐡がこの教室で授業を受けることを認めるのは、他の誰でもないこの僕だ。文句は言わせない」
そこで一拍置く。
「あと貴様。辰巳剛毅、だったな?」
「……はい」
「僕の授業と時間を無駄にした。減点だ」
教室が静まり返る。
天野が指先を僅かに動かすと、本の頁がひとりでに閉じた。
同時に、辰巳を縛っていた術も解ける。
「では、さっきの話を続けます」
それだけだった。
短いやり取りで充分すぎるほど分かった。
この人は怒鳴らない。
騒がない。
けれど、一線を越えた相手は容赦なく切る。
そして、怒らせるとかなり怖い。
その後、天野は最低限の前置きだけで授業に入った。
「まず、魔術には基本となる七つの属性があります。七大属性です」
有栖川がすぐに答える。
「火、水、風、雷、土、光、闇、ですね」
「その通りです。基本的には自分に適性のある属性を起点に、そこから派生・応用していくことになります」
授業は淡々と進んでいく。
教室も表面上は落ち着きを取り戻した。
ただ、朝までと同じ空気には戻らなかった。
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昼休みになった。
午前の授業を終え、周囲の生徒たちはそれぞれ食堂へ向かったり、その場で弁当を広げたりしている。
俺は人の多い場所を避け、一人で食べようと教室を出た。
「お前が鐡瑛志か?」
不意に声をかけられ、振り向く。
そこには、服の上からでも分かるくらい鍛えられた体格の男が立っていた。
背も高い。
顔立ちも整っていて、雰囲気だけなら妙に爽やかだ。
「そうだけど」
「俺はAクラスで伍番隊に配属された神威重護だ。よろしく!」
差し出された手があまりにまっすぐで、少しだけ反応が遅れた。
「あ、ああ。よろしく……」
握手を返すと、神威は人懐っこく笑った。
「それで俺に何か用なの?」
「昨日の映像を見て、実際に気になったんだ」
神威はあっさりそう言った。
「周りは好き勝手言ってるけど、俺にはそうは見えなかった。だから一回、ちゃんと話してみたくてな」
思っていたより、ずっとまっすぐな理由だった。
「……そうなんだ」
「同学年だし、話しかける理由としては充分だろ?」
なんとなく来たわけじゃない。
それがわかって、少しだけ構えが解ける。
「そ、そうだね」
「それより、一緒に飯食わね?」
距離の詰め方はやっぱり早い。
でも、さっきよりは不思議じゃなかった。
結局、押し切られる形で、俺は神威と一緒に昼食を取ることになった。
場所は屋上だった。
人目が少なく、風も通る。
そこで並んで弁当を開くと、神威はさっそく本題みたいに言った。
「鐡って、なんであんなに雑魚だの落ちこぼれだの言われてるんだ?」
聞き方が直球すぎる。
「俺には魔力が無いからだと思う」
「魔力が無いと、そんなに嫌われるもんなのか?」
問いがあまりに素直で、少し返事に詰まる。
普通はそこで納得して終わるか、面白がるかのどっちかだと思っていたからだ。
「……この世界じゃ、魔力があるのが当たり前だからね」
「ふーん」
神威は少し考え、それからあっさりと言った。
「でも俺は、鐡を雑魚だとは思わないな」
思わず顔を上げる。
「魔力が無いってだけでお前を下に見てる連中は、単純に見る目がないんだろ。俺は自分の目で見たものを信じるタイプでね」
神威は箸を持ったまま、肩をすくめた。
「昨日の動画も見たけど、お前、そこらのやつらよりよっぽど強いだろ」
その言い方には気負いがなかった。
慰めでも、特別扱いでもない。
本当にそう思っているだけの声だった。
「……ありがとう」
「なんだよ。礼を言われるほどのことでもないだろ」
神威が笑う。
「そういうふうに言ってくれる人、あまり多くなかったから」
「そっか」
神威はそれ以上、深くは聞かなかった。
「なら、これから増やせばいいだろ」
その一言が、妙にまっすぐ胸に入った。
俺は少しだけ視線を逸らして、「そうかも」と返す。
それからは、本当に他愛のない話をした。
授業のこと、隊舎のこと、学院の広さ、食堂の飯が美味いかどうか。
そんな話ばかりだったのに、不思議と居心地は悪くなかった。
「そろそろ戻るか」
弁当を片づけながら、神威が言う。
「そうだね」
「改めてよろしくな、瑛志」
「うん。よろしく、重護」
立ち上がるとき、自然にそう言葉が出た。
昼休みが終わる頃には、俺たちは下の名前で呼び合っていた。
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午後の授業は、驚くほど普通に進んだ。
数学があって、社会があって、英語がある。
先生が黒板に板書をして、生徒たちがノートを取る。
昼休みに重護とあんな話をしたあとでも、学院は何事もなかったみたいに時間が過ぎていく。
ただ、俺を見る目だけは昨日までと違っていた。
ふと顔を上げるたび、誰かと目が合いかける。
そして、すぐに逸らされる。
侮蔑だけじゃない。
何を見たのか、自分たちでもまだ測りかねているような目だった。
教室の後ろでは、辰巳が妙に静かだった。
朝みたいに露骨に絡んではこない。
その代わり、たまにこちらへ向く目だけがやけに硬い。
そんな空気のまま、午後の移動教室の時間になった。
ざわつくほどじゃない。
けれど、席を立つ音や椅子の擦れる音が重なる中で、教室の空気はまだ完全には元へ戻っていなかった。
俺も教科書を持って立ち上がる。
廊下へ出て、人の流れに混ざって歩き出す。
前にも後ろにも制服の背中があって、話し声もちゃんと聞こえるのに、妙な孤立感だけが残っていた。
何気なく視線を外へ向けた、そのときだった。
中庭の桜が目に入った。
大きな樹だった。
枝ぶりも、花の色も、風に揺れる様子も、遠くから見ればいつもと何も変わらない。
学院の真ん中に立つ、ただそれだけで絵になるような桜の大樹。
それなのに、なぜか目が離れなかった。
「……?」
足が、ほんの僅かに止まる。
綺麗だから、じゃない。
見事だから、でもない。
ただ、そこだけ空気の質が違って見えた。
周囲と同じ光の中にあるはずなのに、あの樹の周りだけが微かに深い。
静かというより、音が薄い。
風に花が揺れているのに、その揺れだけが妙に遠く見える。
「キレイだ」
そう呟いていた。
まるで、あの樹だけが最初からそこにあることを前提に、周りの景色の方があとから形を合わせたみたいに。
理由なんて分からない。
分かるはずもない。
けれど、見ていると落ち着かない。
なのに、目を逸らすのも少しだけ惜しい。
そんな矛盾した感覚が、一瞬で胸をよぎる。
「瑛志? どうした、こんな所で」
後ろから呼ばれて振り返ると、蓮次がいた。
「あ、ごめん」
「どうした?」
「いや……何でもない」
そう言って、俺は視線を切る。
たぶん気のせいだ。
朝の視線のことが頭に残っていて、余計なことまで気にしているだけかもしれない。
そう思うことにした。
でも、胸の奥には小さな棘みたいな違和感が残ったままだった。
朝の視線。
流出した動画。
辰巳の苛立ち。
そして、中庭の桜の樹。
どれもまだ繋がってはいない。
繋がっていると思うには、根拠が足りなさすぎる。
それでも――昨日の戦力評価を境に、何かが確実に動き始めている。
そんな嫌な予感だけが、妙に静かに残っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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