第09話 旧い塔の不自然な風
国境周辺に所属不明の偵察竜が出現したという伝令を受け、騎士団の緊急小隊が夜の空へと飛び立ってから数時間が経過していた。
春の第二週末。夜明け前の空はまだ濃い藍色に沈んでいるが、東の地平線だけが微かに白み始めている。
隼人を乗せた銀翼のリュシアは、ガルド教官とマーラの機影を斜め前方に捉えながら、国境の峡谷空域へと進入していた。
『……おかしいわ』
共感回路を通じて、リュシアの訝しむような思念が隼人の意識に流れ込んできた。
「どうした、敵影か?」
『ううん、風よ。右の山際から吹いてくる風……地形の形からすれば、下から上へ吹き上げる上昇気流になるはずなのに、完全に逆なの。上から重く押さえつけてくるような、不自然な流れが来てる』
隼人は竜鞍の上で身を乗り出し、薄暗い眼下へ視線を凝らした。
前方の雲海の一部が、まるで巨大なすり鉢の底へ吸い込まれるように、不自然な渦を巻いて沈み込んでいるのが見えた。
「……地形効果を無視した下降気流。自然の風じゃないな」
隼人は手元の簡易的な方位盤と地形図を照らし合わせた。
「方角は北東。帝国領だ。あちら側から意図的に、この中立協定空路へ向けて強烈な気流が流し込まれている」
『人工風……。峡谷の観測所が避難準備に入った原因は、これね』
リュシアの翼が、細かく振動を始めた。それは恐怖からではなく、周囲の大気に満ちる異常な気流の乱れを、彼女の鋭敏な感覚が捉えようとしている証拠だった。
「教官、前方の空路に異常気流の壁があります。目には見えませんが、迂闊に突っ込めば姿勢を持っていかれますよ」
隼人が手信号と大声で伝達すると、ガルドもマーラを減速させ、並走する位置まで下がってきた。
「ああ。以前から兆候はあったが、ついに空路を塞ぐほど出力が上がってきたか。アルヴェイン、お前の翼で安全なルートが分かるか?」
『探ってみます!』
リュシアは機首をわずかに左右へ振り、翼の先端で大気を撫でるようにして『見えない壁』の断層を探った。
人工風は自然の風とは違い、魔力による強制的な指向性を持っている。そのため、気流と気流がぶつかり合う境界線には、刃物で切り裂いたような明確な乱流の壁ができるのだ。
『……右は駄目。分厚すぎるわ。でも、左下、谷底へ向けて三十度の角度なら、風の切れ目がある!』
「よし。教官、左下三十度へ降下。アルヴェインの先導に続いてください」
隼人は彼女の直感的な感覚を、即座に具体的な角度と進路指示に変換してガルドへ伝えた。
「了解した。アルヴェイン、任せるぞ」
リュシアが左の翼を畳み、滑り込むように降下を開始する。マーラがそれにぴたりと追従した。
直後、リュシアの右翼のすぐ外側を、轟音を立てて強烈な人工風の塊が通り抜けていった。もし数メートルでも右に寄っていれば、風防膜ごと吹き飛ばされていただろう。
リュシアの前衛としての気流探知と、隼人の冷静な後方指揮。後続のガルドから「そのまま先導しろ」と声が届いた。空戦において、感覚と論理のどちらか一方が欠けても部隊は生き残れない。彼らはたった数日で、その両輪を機能させ始めていた。
谷底の風の切れ目を抜け、高度を少し回復させたところで、ついに人工風の発生源が視界に入った。
雲海を割ってそびえ立つ、巨大な煙突のような石造りの塔。
「あれが、帝国の風門塔か」
隼人は防風眼鏡の奥で目を細めた。
塔は国境線の向こう側、明らかに帝国領内に位置している。中立都市の空路を塞ぐ人工風の発生源であることは疑いようもないが、ここから先へ越境して調査や攻撃を行えば、明確な協定違反となり、王国側が国際的な非難を浴びることになる。
「教官、あれに直接手を出すことはできませんね」
「ああ。連中もそれを分かっていて、国境ギリギリに塔を配置している。我々にできるのは、風の被害状況と、あの塔が稼働しているという証拠を記録して持ち帰ることだけだ」
ガルドの忌々しげな声が響く。
「お前たちが初めて助けた救難隊の報告も届いた。あの魔獣の巣があった谷まで、この人工風が流れ込んでいたそうだ。棲み処を追われて空路へ出てきたらしい」
隼人は、落下した自分の下で救難竜を追っていた群れを思い出した。あの日から、この風は人を追い詰めていたのだ。
隼人は頷き、膝の上で観測用のノートを開いた。
「アルヴェイン。ここからは一定の距離を保って、塔の周辺を周回する。君の翼で感じる気流の変化を、どんな些細なことでもいいから教えてくれ」
『わかったわ』
リュシアは速度を巡航レベルに落とし、帝国領へ入り込まないよう慎重に旋回軌道を描き始めた。
夜が明けきり、朝の光が巨大な風門塔の全貌を照らし出す。
『……ねえ、黒瀬さん』
しばらく塔を観察していたリュシアから、戸惑うような思念が送られてきた。
『あの塔の裏側……こちらからは見えにくい斜め後ろの壁面に、丸いリングみたいな構造物があるのが見える?』
「リング……? ああ、確かに。巨大な金属の輪のようなものが埋め込まれているな。排気口か?」
『ううん。風が出ているのは一番上の大きな口からよ。でも……私の翼に、すごく変な感覚が伝わってくるの』
リュシアは言葉を探すように、少し間を置いた。
『気のせいかもしれないけど……一定の時間が経つごとに、あの塔の裏側の風が一瞬だけ、フッと揺らぐの。吹き出しているんじゃなくて、内側へ吸い込まれるような……変な息継ぎみたいな感覚』
「吸い込まれるような揺らぎ、か」
『うん。……ごめんなさい、うまく説明できない。ただの勘違かもしれないし』
前回の工房での一件で、自分の意見が却下された記憶がよぎったのか、リュシアの思念には少し自信のなさが混じっていた。
だが、隼人はペンを走らせながら、はっきりと力強い声で応えた。
「いや、謝る必要はない。君の翼がそう感じたなら、それは勘違いじゃない。俺の目には見えなくても、君には見えている『事実』だ」
『……黒瀬さん』
「その揺らぎが起きる間隔は、どれくらいだ? 大体でいい、数えてみてくれ」
隼人の真剣な声に励まされ、リュシアは再び塔の背面の気流に意識を集中させた。
『……一、二、三……大体、六十秒ごと。六十秒に一回、数秒間だけ風が薄くなって、吸い込まれるような揺らぎが起きるわ』
「約六十秒周期で、背面の気流に一時的な乱れ(吸気)が発生、と」
隼人はノートの『観測記録』の欄に、時刻と風向、そしてリュシアが口にした周期のデータを正確に書き込んでいった。
「今は意味が分からなくても、これは敵の施設の構造を解き明かすための重要なデータになる。よく気づいてくれた、アルヴェイン」
隼人が褒めると、リュシアは『でしょう?』と弾んだ声で応えた。
「教官、塔の稼働状況と風向の記録、終了しました。これ以上の接近は無意味かと」
「よし。我々も引き返すぞ」
その時、リュシアが短く警告を発した。
『左十時方向、雲の上! 三騎来るわ!』
隼人が視線を向けると、遠く離れた帝国領側の空域に、軍の標識を外した黒っぽい羽竜の編隊が姿を現していた。所属不明の偵察竜だ。
距離はまだ二キロ以上ある。向こうもこちらが越境してこないか監視しているだけで、すぐに襲いかかってくる気配はない。
「連中も、こちらが出方を変えてくるか見張っているわけか」
ガルドが忌々しげに舌打ちをした。
記録を懐にしまい、隼人たちが王国側へと機首を返そうとした、まさにその時だった。
ガルドの後方を飛んでいた伝令騎が、急加速して並走してきた。騎手の顔は蒼白だった。
「教官! 黒瀬! たった今、峡谷観測所から緊急の魔力通信が入りました!」
「どうした、避難に手間取っているのか?」
「いえ、状況が悪化しました! 人工風の張り出しが想定以上に早く、観測所の周辺空域が完全に異常気流の壁で塞がれました。撤収隊が飛び立てず、孤立しています!」
その報告に、隼人はハッと息を呑んだ。
先ほどリュシアが見つけた、あの目に見えない風の刃の壁。あれが完全に観測所を包囲してしまったのだ。
「被害状況は!」
「負傷者あり! さらに、彼らがまとめた越境風害の原記録も観測所内に残されたままです!」
ガルドの表情が険しくなった。
「所属不明騎どもめ……ただ風を流し込んでいるだけじゃない。観測記録を外へ持ち出させないよう、風壁で閉じ込めた上で、証拠隠滅を狙う気か」
帝国領への越境攻撃はできないが、自国領内に取り残された民間の観測員を救助し、記録を守ることは王国の正当な防衛行動だ。
「教官。一度基地へ戻る時間はありますか」
隼人が尋ねると、ガルドは首を横に振った。
「ない。風壁がこれ以上分厚くなれば、救難の羽竜すら入れなくなる。哨戒当番の我々が、このまま第一陣として突入する」
ガルドは鋭い眼光を隼人とリュシアに向けた。
「銀翼の出番だ。黒瀬、アルヴェイン。まずは観測所の手前まで救援路を確かめる。風を読めるか」
隼人は鞍の前の銀色の背中を軽く叩いた。
「俺はいつでも行けます。相棒はどうだ?」
『当然よ! 誰一人、落とさせはしないわ!』
頼もしい彼女の思念を受け取り、隼人は風防眼鏡の位置を直し、ノートを固く縛り直した。
国境の冷たい風の中、二人は最も危険な最前線へと機首を向けた。




