第10話 銀翼に、名がついた日
春の第三週。
峡谷観測所からの緊急通信を受け、国境空域の最前線へと急行した隼人とリュシアは、分厚い雲海のすぐ上を滑るように飛行していた。
後方には、ガルド教官とマーラが率いる緊急小隊が続いている。隼人たちはその優れた速度と索敵能力を買われ、本隊より少し先行する形で異常空域の露払いを任されていた。
『……ひどい風。さっきの塔から流れてくる人工気流が、完全に峡谷に蓋をしているわ』
共感回路を通じて、リュシアの渋面が伝わってくる。彼女の翼は、目に見えない大気の乱れを嫌悪するように細かく震えていた。
「ああ。協定空路は事実上、通行不能になっているな」
隼人が手元の地形図と方位盤を見比べていた、その時だった。
『右前方、下! 誰か落ちていく!』
リュシアの鋭い思念に、隼人は風防眼鏡の奥の目を凝らした。
灰色の雲海を背景に、一騎の民間輸送竜が、強烈な人工風に煽られてきりもみ状態に陥っているのが見えた。背中には大きな荷物を縛り付けており、必死に体勢を立て直そうとしているが、風の暴力に完全に押し負けている。
そして、異常はそれだけではなかった。
「……あれは、さっきの偵察竜か!」
もがき苦しむ輸送竜の後方上空から、二つの黒い影が急降下してきていた。
軍の標識を外した、所属不明の羽竜二騎。彼らは救助するどころか、風に煽られる輸送竜の退路を塞ぐように左右からじわじわと距離を詰め、そのまま底なしの谷底へと追い落とそうとしていた。
『助けなきゃ!』
「待て、冷静になれ。敵は二騎だ」
隼人は瞬時に相対距離と高度を計算した。
輸送竜は急速に高度を失っている。後続のガルド隊が到着するのを待っていては、間違いなく墜落するか、敵の魔法弾の餌食になる。
助けるための方法はただ一つ。敵が輸送竜を仕留めるよりも早く、間に割って入ること。
そのためには、ここから一気に距離を詰める『速い回り込み』が必要だった。しかし、ここは騎士団が定めた指定試験空域の外だ。全速の飛行は、規則上禁止されている。
(……構うものか。救命が最優先だ)
隼人は一切の迷いを捨て、共感回路を開いた。
「アルヴェイン、緊急事態だ。全速を使うぞ」
『いいの!? ここは指定空域外よ!』
「差し迫った救命目的だ、責任は俺が持つ。……敵の動きを見ろ」
隼人は敵二騎の軌道を注視した。左の一騎が不自然に前に出て輸送竜の注意を引き、右の一騎が後方に回って死角から確殺の位置についている。
「前の奴は囮だ。構うな。敵の本命の逃走線と、輸送竜の落下線を重ね合わせる。全速一回だけの直線で、二騎の間に割り込むぞ」
『わかった……あっ、待って!』
リュシアの思念が、隼人の計算に待ったをかけた。
『あの輸送竜、右の翼が破れてる! 黒瀬さんの計算より、もっと早く落ちるわ。もう少し下から入る!』
彼女の視力と風を読む力は、隼人の目視と推測航法を凌駕していた。輸送竜の翼の微細な損傷を見抜き、自らの判断で進入角の修正を提案してきたのだ。
「……了解した。君の判断を信じる!」
隼人が即座に同意すると、リュシアの意識が極度に研ぎ澄まされたのが分かった。
『十二秒、任せて!』
合意の象徴となった言葉と共に、銀色の巨翼が空気を爆発的に打ち据えた。
ドンッ! という衝撃音。
隼人の身体が竜鞍に強烈に押し付けられ、Gスーツの加圧が働かない太ももと腹筋が悲鳴を上げる。対気速度は瞬く間に時速七百キロの領域へと跳ね上がった。
轟音。風護膜がバチバチと火花を散らしながら、乱気流の壁を強引に引き裂いて進む。
前に出ていた敵の囮騎が、突然の超高速の接近に驚き、慌てて回避行動を取った。だが、リュシアは隼人の指示通り囮を完全に無視し、一直線に輸送竜の落下地点へと突き進む。
リュシアが修正した『少し下からの進入角』が、完璧な精度でハマった。
輸送竜の背後を取り、まさに魔法弾を放とうとしていた敵の本命騎。そのさらに後ろの死角に、猛烈な速度で銀色の竜が飛び込んだのだ。
『一、二、三――!』
リュシアが数える全速の秒数。
『――九、十!』
十秒の全速で、約二キロ。加速中に進んだ距離も合わせ、敵の退路の外側へ出た。
リュシアはあらかじめ選んだ空間で翼を広げ、補強した帯へ負荷を預けながら減速する。七百キロから四百キロ以下へ。敵に直接追いつくのでなく、これから敵が通る場所へ射線を置く。
敵が背後の異常に気づき、振り返ったその瞬間には、すでにリュシアは完璧な射撃体勢を構築し終えていた。
『落とす!』
リュシア自身の判断によるタイミング。
彼女の口から放たれた目に見えない高圧縮の空気の塊――『風刃』が、至近距離から敵騎の側面に直撃した。
ドォン!
鈍い音と共に、敵の羽竜は姿勢を大きく崩し、きりもみ状態となって谷底へと落下していった。
「よし、命中だ! 追撃はするな、輸送竜の護衛に戻れ!」
隼人の指示にリュシアは機首を返し、怯える輸送竜に寄り添うように位置取った。
残ったもう一騎の囮騎は、どう動くか。
隼人は警戒して上空を睨んだ。だが、その敵騎は仲間を助けようとも、怒りに任せて反撃してくることもしなかった。
ただ、安全な距離を保ったまま、じっとこちらを見下ろしている。
(……何をしている?)
隼人の背筋に、冷たいものが走った。
あの敵は、撤退するでもなく、ただ『観測』しているのだ。リュシアが時速七百キロの全速から急減速し、精密射撃へと移行するその瞬間の、無防備な挙動とタイミングを。
数秒の不気味な睨み合いの後、敵騎は反転し、人工風の吹き荒れる雲の向こうへと姿を消していった。
その日の午後。
峡谷の近くにある中継基地の執務室で、隼人は机の上に数枚の羊皮紙を並べていた。
ガルド教官が、腕を組みながらその書類を見下ろしている。
「……指定空域外での無許可の全速飛行、および交戦。これがその事後報告書か」
「はい」
隼人は背筋を伸ばし、淡々と答えた。
「規則違反の正当化をするつもりはありません。ですが、あの状況下で民間人の命を救うには、あの回り込み経路しかあり得ませんでした。敵を撃退し、輸送竜と搭乗者を、それ以上傷つけず保護した結果と、魔力消費の費用対効果を客観的に記したつもりです」
ガルドは書類に目を通した。そこには隼人が描いた正確な航路図と、リュシアに代筆してもらった論理的な報告文が記されていた。
しばらくの沈黙の後、ガルドはふっと息を吐き、ペンを取って書類にサインを書き込んだ。
「お前たちの現場判断を、正式に追認する」
ガルドの言葉に、隼人は内心で安堵した。
「だが、このまま毎回事後報告で済ますわけにはいかん。俺から騎士団本部へ、お前たちの双翼契約に関する追加の特例を申請しておく」
「追加の特例、ですか?」
「ああ。お前たち二名に限り、『救命および護衛任務において、現場指揮官の事前承認があれば、指定空域外でも短時間の全速飛行を許可する』という条項だ。今回のような緊急時で事前承認が不可能な場合は、例外として事後審査に回す」
その申請は、当夜の本部通信で条件付きの承認を得た。出撃ごとに指揮官の許可と二人の合意を確かめる。使える場所が増えても、身体と魔力の限界が変わるわけではなかった。
「ありがとうございます、教官」
執務室を出ると、廊下の壁に背を預けて待っていたリュシアが、不安そうに顔を上げた。
「黒瀬さん、どうだった……? また私、飛ぶの禁止されちゃう?」
「いや。教官は俺たちの判断を認めてくれた。それどころか、お前の翼に新しい許可を申請してくれたよ」
隼人がそう告げると、リュシアはほっとしたように胸をなで下ろし、ぱぁっと明るい笑顔を見せた。
「よかったぁ! あー、もう本当に心臓に悪いわ」
「お前のおかげだ、アルヴェイン。お前が輸送竜の翼の傷に気づいて、俺の想定より下からの進入角へ修正してくれなければ、助けられなかったかもしれない」
隼人は足を止め、真っ直ぐに彼女の青い瞳を見た。
「ただ速いだけじゃない。お前のその風を読む判断力は、間違いなく一流だ」
「……っ!」
ストレートな称賛の言葉に、リュシアは顔を真っ赤にして口をパクパクとさせた。
「な、なによ急に! 当然でしょ、私は世界一の翼なんだから!」
照れ隠しのようにそっぽを向くリュシアの耳まで赤くなっているのを見て、隼人は小さく笑った。
基地の廊下を歩いていると、すれ違う隊員たちがこちらを見て、ひそひそと囁き合っているのが聞こえた。
「おい、あの二人が例の『銀翼』だろ?」
「ああ、さっきの民間竜のパイロットが泣いて感謝してたぜ。とんでもない速度で敵の間に割り込んできたってな」
いつの間にか、隊内で彼らを指す『銀翼』という異名が定着し始めていた。
だが、安堵の時間も束の間だった。
廊下の先から、ガルドが重い足取りで歩いてきたのだ。その手には、先ほど助けた民間輸送竜の騎手から受け取ったと思われる、血の滲んだ通信筒が握られていた。
「喜んでいる暇はないぞ、お前たち」
ガルドの低い声が、二人の足を引き止める。
「さっき助けた輸送竜が運んでいたのは、ただの荷物ではなかった。峡谷観測所からの、正式な救難要請の通信だ」
ガルドは通信筒の中から、震える文字で書かれた羊皮紙を取り出した。
「人工風の壁に阻まれ、現場の観測所には、撤収隊の三騎と負傷者、そして――帝国の越境風害を証明する決定的な『観測記録』が取り残されている」
その言葉に、隼人とリュシアの表情が引き締まった。
「所属不明の妨害騎どもが狙っているのは、その証拠記録の破棄だ。明朝、我々はこのまま緊急救援作戦へと移行する」
ガルドの背後に、夜の帳が降り始めた暗い空が見えた。
第一章の幕引きと同時に、休む間もない過酷な護衛任務の始まりが、そこに迫っていた。
観測所からは、三騎が退避所で夜を越せるとの連絡も入った。夜間の風壁への再突入は見送り、救援隊は次の弱まりが見込まれる夜明けに合わせて出発する。隼人たちも補給と休息を命じられた。




