第11話 一番遅い翼を守れ
春の第三週末。まだ星が瞬く夜明け前の空の下、中継基地の滑走路には重々しい緊張感が張り詰めていた。
ランタンの薄暗い灯りに照らされた作戦盤の前に、ガルド教官、マーラ、そして隼人とリュシアが立っている。
「状況を整理する。峡谷観測所からの撤収隊は、輸送用の羽竜三騎だ。彼らは観測員と負傷者、そして今回の帝国による越境風害を証明するための『原記録』を運んでいる」
ガルドが作戦盤の地形図を指差した。
「だが、奴ら――所属不明の妨害部隊は、すでに人工風の張り出しを利用して我々の国境線の内側まで入り込んでいる。目的はただ一つ、証拠となる観測記録が王国の中心部に届く前に、奪取あるいは破棄することだ」
ガルドの低い声に、隼人は頷いた。
帝国は、中立都市への人工風の越境を「自然災害」だと主張している。もし、人工的に気流が操作されているという明確な観測記録が公にされれば、帝国の言い分は完全に崩れる。だからこそ、軍の標識を外した妨害騎を使ってでも、力ずくで証拠を消しにきているのだ。
「教官。確認ですが、我々の今回の勝利条件は『三騎と負傷者の全員生還、および観測記録の完全な保全』ですね。妨害部隊の撃墜は目的ではない、ということで間違いありませんか」
「その通りだ、黒瀬。敵を何十騎落とそうと、記録が一つでも失われれば我々の負けだ。防衛に徹しろ」
隼人は手元のノートに視線を落とした。そこには昨夜のうちに彼が弾き出した、峡谷を抜けるための幾つかの航路案が描かれている。
「アルヴェイン、事前の打ち合わせ通りだ。俺たちは遊撃に回って敵の接近ルートを塞ぐ」
「ええ。でも黒瀬さん、この峡谷の地形図だと、右側の山肌からの風の巻き込みが強くなるはずよ。だから、陣形はあなたが書いた図よりも、もう少し左寄りの高度帯を取ったほうが安定するわ」
人型のリュシアが、隼人のノートの図面にスッと指を走らせて修正案を出した。
「……なるほど。地形的な風のよどみか。分かった、君の感覚を優先しよう」
隼人は素直に彼女の意見を取り入れ、鉛筆で図面を書き直した。
平時の地上、あるいはこうして落ち着いて出撃前の計画を立てる場においては、二人は互いの専門分野を尊重し、対等に意見を交わせるようになっていた。隼人の論理とリュシアの感覚は、確実に噛み合い始めている。
(だが、いざ実戦になれば状況は一瞬で変わる)
隼人はノートを閉じながら、内心で気を引き締めた。
相手は軍の正規訓練を受けた竜騎士だ。昨日のように、どのような不測の事態が起こるか分からない。もし危機的状況に陥れば、その時は自分が元戦闘機乗りの経験と反射速度で、彼女を守るための最善手を即座に判断してやらなければならない。
それは彼女への思いやりであると同時に、隼人の心の底にまだ残る『機体(相棒)を自分の統制下に置いておきたい』という保護欲求であり、無自覚な驕りでもあった。
朝陽が峡谷の入り口を赤く染め始めた頃。
先行していた隼人たちとガルド隊は、強烈な人工風が吹き荒れる国境の空域で、ようやく避難隊の三騎と合流を果たした。
「こちら王国騎士団だ! これより撤収隊の護衛に入る!」
ガルドの通信に、避難隊の観測員たちが安堵の声を上げる。
だが、合流した三騎の様子を見て、隼人は眉をひそめた。
先頭と二番目の輸送竜は無事だったが、大きな木箱――観測記録と負傷者を乗せた最後尾の一騎が、明らかに高度を保てず、ふらふらと不安定な飛び方をしていたのだ。
「教官、最後尾の第三騎の速度が出ていません。昨夜の風の張り出しや、敵の小競り合いに巻き込まれて翼を痛めたようです」
「ちぃっ……このままでは、妨害部隊に追いつかれるのは時間の問題だぞ」
ガルドが舌打ちをする。
隼人は竜鞍の上で方位盤と計時器を確認し、即座に計算を走らせた。
(敵の接近予測時刻まで、あとわずか。このままの低速で飛んでいては峡谷の中で捕捉される)
隼人は共感回路を開いた。
「アルヴェイン。速度を上げられるなら、十五分ほどで抜けられるルートがある。最後尾がどこまで飛べるか、近くで確かめてくれ」
滞在時間を縮めれば、襲われる機会も減る。だが、飛び切れることが前提だ。
だが、リュシアは隼人の提案に即答しなかった。
『待って、黒瀬さん』
彼女は自分の位置をガルド隊に任せると、自ら最後尾を飛ぶ傷ついた輸送竜の真横へと滑り込むように移動した。
銀翼を広げ、相手の羽竜が起こす風の乱れ、羽ばたきの間隔、そして苦しげな息遣いを、自分自身の翼と肌で直接感じ取る。
『……駄目よ!』
数秒の観察の後、リュシアから強い拒絶の思念が返ってきた。
『あの子の右翼、風を掴む風切羽が何枚も折れてるわ。無理に魔力を使って痛みを散らしているみたいだけど、黒瀬さんが想定した強行突破の速度なんか出させたら、途中で限界が来て間違いなく墜落する!』
「墜落だと……? だが、このままの速度では敵の射程に捕まるぞ」
『それでもよ! 私の翼の感覚がそう言ってるの。あの子はこれ以上速く飛べない!』
リュシアの思念には、揺るぎない確信があった。彼女は隼人の論理的な計算よりも、同族である羽竜の『限界の悲鳴』を優先したのだ。
『黒瀬さん。一番遅いあの子の速度に合わせて、護衛の陣形を組み直して! あの子が落ちたら、乗っている負傷者も、記録も全部駄目になっちゃうでしょ!』
彼女の強い主張に、隼人はハッとした。
(外から見積もった余力では駄目だ。本人の状態を、もっと早く聞くべきだった)
勝利条件は『全員の生還』だ。どれだけ早く危険空域を抜けようと、その過程で一騎でも脱落させてしまえば、任務は失敗なのだ。
「……分かった。君の判断が正しい」
隼人は己の戦術を即座に破棄し、頭の中の盤面を完全に組み直した。
「教官! 最後尾の第三騎は、これ以上の増速が不可能です。我々はこのままの巡航速度を維持し、最後尾の速度を基準にした密集防衛陣形へ移行します!」
隼人が大声で伝達すると、前方を飛ぶガルドもマーラを減速させ、避難隊の周囲を囲むように陣形を固めた。
「了解した! ならば敵の追撃は、この峡谷の中で迎え撃つしかないな」
一番遅い仲間に合わせ、護衛隊列は這うような速度で峡谷の深くへと進んでいく。
リュシアと隼人は、最後尾の痛んだ輸送竜の斜め後方、いつでも盾となれる位置をキープしていた。
太陽が高くなるにつれ、峡谷の中の気流は複雑さを増していく。帝国側から流し込まれる人工風が岩肌にぶつかり、目に見えない乱気流の渦をあちこちに作り出していた。
「……来るぞ」
隼人は竜鞍の上で、肌を刺すような敵意を感じ取った。
後方の上空から、音もなく忍び寄る複数の機影。軍の標識を持たない黒っぽい羽竜たちが、まるで死神のように護衛隊列の背後へ迫りつつあった。
さらに、前方の地形が急速に狭まり始める。切り立った絶壁が両側から迫る、峡谷の最狭部だ。
先頭を飛んでいたガルドが、大きく腕を振り上げて警告を発した。
「気をつけろ、黒瀬、アルヴェイン!」
ガルドの指差す先、峡谷の狭い通路の真ん中に、大気が陽炎のようにぐにゃりと歪んでいる場所があった。
「あの風壁で、三騎を分断されるぞ!」
敵の風術による見えない壁が、逃げ場のない峡谷の真ん中で、一番遅い翼を孤立させようと口を開けて待っていた。




