第07話 世界一の翼にも、限界はある
春の第二週。
騎士団駐屯地の外れには、魔動炉の低い駆動音と鉄を打つ音が絶え間なく響く区画がある。隼人とリュシアは、その一角にある竜鞍技師イーラ・フェンの工房を訪れていた。
油と革の匂いが充満する雑然とした室内。作業台の上には、先日の全速飛行でリュシアが身につけていた『標準竜鞍』が置かれている。
「……あんた、本気でこの旧式鞍を着けたまま、時速七百キロの領域まで加速したのかい」
革のエプロンを身につけた二十代後半の女性技師イーラは、手にした留め具の金具をペンチで弾きながら、呆れたような、そして底冷えのする声で言った。
「ああ。だが、飛行中からどうも保持力に不安があってな。騎手である俺の身体が後方へ持っていかれるのを、アルヴェインの風護膜の出力で無理やり押さえ込んでいるような感覚だった」
「感覚どころの騒ぎじゃないよ。ほら、ここを見てみな」
イーラは竜鞍の腹側に回す太い革帯の根元を指差した。金属製のバックルとリベットが、恐ろしいほどの力で引っ張られたように、わずかに楕円形に歪んでいる。
「ひっ……!」
それを見たリュシアが、喉の奥で短い悲鳴を上げた。
「あと数回、同じような爆発的加速を繰り返していれば、この金具はちぎれ飛んでいた。当然、上に乗っているあんたは全速の風圧に叩きつけられて、空の藻屑さ」
イーラは鋭い三白眼で隼人を睨みつけた。
「いいかい、異世界の戦闘機乗り。いくら銀翼の速度が桁違いでも、それを制御する命綱がお粗末じゃあ話にならない。速く飛ぶ前に、まずは生きて戻ることを考えなさい。相棒を人殺しにさせる気かい?」
「……ごもっともだ」
隼人は素直に頷いた。自分の乗る機体の限界値を知らずに飛ぶことの恐ろしさは、誰よりも理解しているつもりだ。
「イーラ、直せるの? 私、黒瀬さんを落とすなんて絶対に嫌よ!」
リュシアが作業台に身を乗り出して尋ねた。過去に騎手を負傷させたトラウマが蘇り、彼女の顔は蒼白になっていた。
「直すも何も、この傷んだ金具のままじゃ出せないよ。まず交換して、荷重を分散させる帯を足す。緩やかな加減速での直線飛行は、それで試験できる。ただし機動の幅を広げるには、加圧と保持の仕組みから作り直さなきゃならない」
イーラは腕を組み、ふうと息を吐いた。
「まあ、大型の魔力加圧機構の設計なら、私に任せな。これでも昔は、帝国の旧型風門塔の保守部品なんかを扱ったこともあるんだ。旧型は中立都市との共同気象設備だった頃の共通規格でね。部品も保守図も、国をまたいで扱っていたのさ。気流制御のノウハウには自信がある」
「風門塔って、あの国境の向こうにある馬鹿でかい人工風の塔か?」
「そうさ。あれの気流制御と比べれば、鞍の風護膜の調整なんて可愛いものさ」
その後、工房の奥にある魔力測定器を使い、高G下における鞍の負荷と風護膜の消耗度の実演テストが行われた。
隼人は計測された数値を手元のノートに素早く書き込んでいく。
「やはりな。全速時、風護膜の維持に回される魔力の消費が激しすぎる。消耗した状態で十二秒を使えば、一度でも帰還の余力を食い潰しかねない」
隼人はノートの余白に、空戦におけるエネルギー管理のグラフを描き込んだ。
「アルヴェイン。悪いが、これを俺の言葉通りに現地の公文書に清書してくれないか。隊に提出する『運用安全案』だ」
「ええ、いいわよ。言って」
リュシアが羊皮紙と羽ペンを引き寄せる。
「第一項。身体・魔力負荷による全速は『一回につき最大十二秒』を物理的限界とする。第二項。魔力温存のため、一出撃における全速使用は『原則二回まで』とする。第三項。全速中の急旋回は、鞍と騎手への負荷が致死域に達するため『全面禁止』とする。第四項。いかなる状況下でも、基地へ帰還するための余力魔力を必ず残すこと」
隼人のよどみない口述を、リュシアは綺麗な文字で書き写していく。
「……できたわ。でも黒瀬さん、これってあくまで『今の鞍』での限界よね? イーラが新しい加圧鞍を作ってくれたら、旋回制限とか、二回までっていう回数制限は――」
「いや、装備が改善されても、この戦術運用ルールは当面維持する」
「えっ?」
リュシアの手が止まった。
「俺が計算したこの制限は、物理的な限界点ギリギリの数字じゃない。『使っていい回数ではなく、超えてはいけない上限』だ。十二秒も毎回保証された余裕じゃない。残量を見て、必要なら一回目から短くする」
隼人はそう言い切ると、リュシアが書き上げた羊皮紙をサッと手に取った。
「よし。俺はこれをガルド教官のところへ提出してくる。アルヴェインはイーラと鞍の細かい寸法の調整をしておいてくれ」
隼人は振り返ることもなく、早足で工房を出て行ってしまった。
隼人は工房の扉を閉めた。彼女の返事を待たなかったことに、歩き始めてから気づいた。だが、数字を変えるつもりはない。まず教官に見てもらえばいいと、そのまま足を進めた。
数十分後。駐屯地の執務室へ出向いた隼人は、自分の提出した運用安全案の羊皮紙を、机の向こうのガルドに突き返されていた。
「不採用、ですか?」
「採用は保留だ、と言っている」
ガルドは腕を組み、隼人を厳しい目で見据えた。
「黒瀬。貴様が算出した数字の合理性は評価する。だが、この書類には『同乗者であるアルヴェインの同意署名』がない。彼女に相談し、納得させた上で持ってきたものか?」
「……俺の計算したマージンなら、今までより無理を避けられます。測った範囲では、危険を減らせるはずです」
「そういうことを聞いているのではない」
ガルドの低い声が、執務室に響いた。
「貴様は戦闘機という鋼鉄の塊に乗っていたそうだが、羽竜は機械ではない。意思を持った相棒だ。いくら正しい数字を並べようと、相棒の意思を確認せず、頭ごなしに『こう飛べ』と縛り付けるような案を、現場の指揮官として認めるわけにはいかん」
隼人は反論しようと口を開きかけたが、言葉を飲み込んだ。
自分は彼女を守るために最善の案を出したはずだ。なぜそれを否定されるのか、理屈ではわかっても、感情が追いつかなかった。
執務室を出て隊舎の廊下を歩いていると、向こうからツカツカと足音を立ててリュシアが歩いてきた。
彼女の青い瞳は、明らかに怒気をはらんでいた。
「黒瀬さん!」
「アルヴェイン。寸法合わせは終わったのか」
「終わったわよ! それより、あの安全案のことだけど!」
リュシアは隼人の目の前まで詰め寄り、その胸元を指差した。
「どうして私に相談せずに、勝手に教官のところへ持って行ったの!?」
「相談するまでもないだろう。あれは君の翼と魔力の消耗率から導き出した、最も生存率の高い運用ルールだ。君を過去の事故のような危険な目に遭わせないための――」
「そういうことじゃないの!」
リュシアの叫びに、隼人は言葉を失った。
「守ってくれるのは嬉しい。私が無茶をしそうな時に止めてくれるのも、頼りにしているわ。でもね、一回出撃したら二回までしか本気を出せないとか、急旋回は絶対に駄目とか、そういう『私の翼の使い方』を、私抜きで勝手に決めないで!」
リュシアの目には、悲痛な光が揺れていた。
「私はあなたの乗り物じゃない。……対等な相棒になりたいのよ」
その言葉は、隼人の胸の奥に鋭く突き刺さった。
隼人は、自分がいまだに彼女を『意思を持った戦闘機』として扱い、飛行計画を自分一人の判断(独断)で完結させようとしていたことに、初めて気付かされた。
「……すまない。俺の考えが、至らなかった」
隼人が目を伏せると、リュシアは少しだけ表情を和らげ、しかしはっきりと告げた。
「限界を軽んじるつもりはないわ。でも、どう飛ぶかは、二人で相談して決めさせて。約束よ」
「ああ。……約束する」
リュシアは、魔力の減り方は向かい風や射撃でも変わること、翼の可動域を鞍で狭めないことを追記した。二人の署名が揃ってから、安全案は受理された。
鞍の金具も交換と補強を受け、直線での加減速と帰還余力を確かめる試験を終えた。新型鞍ができるまでは、急な機動を避け、毎回の点検を欠かさない。それがイーラの条件だった。
二人の間に、まだ小さな棘のような違和感が残る中。
廊下の奥から、血相を変えた通信担当の青年が駆け込んでくる足音が響いた。
「教官! 教官はいらっしゃいますか!」
通信担当の青年は隼人たちには目もくれず、執務室の扉を乱暴に叩いた。
「どうした、騒々しい」
扉を開けたガルドに対し、通信担当の青年は息を乱しながら報告の羊皮紙を差し出した。
「こ、国境峡谷の気象観測所からです! 周辺の気流が自然界ではあり得ないレベルで乱れ、凄まじい『人工風』が吹き荒れていると!」
人工風。その単語に、隼人は先ほどイーラが口にしていた『帝国の風門塔』という言葉を思い出した。
「被害状況は!」
「強風で観測所の建屋の一部が倒壊! 現在、王国側から避難準備の指令が発令されました。ただちに救難護衛の編成を!」
通信担当の青年の悲痛な報告が、平和だった駐屯地の空気を一変させた。
ガルドは鋭い視線で隼人とリュシアを振り返った。
「黒瀬、アルヴェイン。話の続きは後だ。すぐに出撃準備にかかれ」




