第06話 竜少女の燃料代
春の第一週末。
騎士団の隊舎に割り当てられた個室のベッドの上で、黒瀬隼人は革袋の重みを確かめながら、小さく安堵の息を吐き出していた。
袋の中には、銀の硬貨がずっしりと詰まっている。臨時飛行士としての初報酬だった。第一日の救命行動に伴う危険手当と、検証飛行や模擬戦でのデータ提供の対価が含まれているらしい。
「よし。とりあえず、当面の生活基盤はどうにかなりそうだ」
元いた世界の通貨価値に換算することは難しいが、これだけあれば当分の間、食事や日用品の調達に困ることはないだろう。帰還手段はおろか、自分がなぜこの世界に落ちてきたのかも分からない現状において、手元にある現金(物理)は精神的な安定剤として極めて優秀だった。
『黒瀬さん! 起きてる!?』
壁をドンドンと叩く音と共に、隣室から弾むような声が響いた。
隼人は革袋を腰のベルトに結びつけ、木製の扉を開けた。廊下には、銀髪を揺らし、目を輝かせたリュシアが立っていた。
「報酬、出たわよね! 私、すっごくお腹空いちゃった! 食堂に行きましょう!」
「……君はいつも腹を空かせている気がするが。まあいい、行こう」
騎士団駐屯地の大食堂は、昼時ということもあり多くの隊員たちで賑わっていた。
配膳カウンターには、香ばしい匂いを立てる肉のローストや、大鍋で煮込まれた野菜のスープ、山積みにされた黒パンなどが並んでいる。
隼人はリュシアの後ろに並び、自分の分のスープとパン、それに少しの鶏肉を受け取った。文字が読めないため、見た目で判断するしかない。
「さて、アルヴェインは……」
振り返った隼人は、己の目を疑った。
「おじさん、この骨付きの猪肉、三つ! あとこっちのソーセージも全部! パンはカゴごとお願い! スープは一番大きな器で!」
リュシアは配膳係の初老の男に対し、次々と容赦のない注文を飛ばしていた。彼女の持つ巨大な木盆の上には、瞬く間に茶色い肉の山が築き上げられていく。常人の成人男性が三日はかけて食べるような量だ。
「おい、ちょっと待て。いくら何でも頼みすぎだろ。誰か別の隊員と食べるのか?」
「ううん? 全部私の分よ!」
リュシアは満面の笑みで言い放ち、会計のカウンターへ木盆をスライドさせた。
提示された金額を聞き、隼人はサッと血の気を引かせた。
「……俺たちの初報酬の、三分の一が飛んだぞ」
「えへへ、たくさん働いたからね!」
彼女は悪びれる様子もなく、隼人と向かい合わせの席に座るなり、猪肉の塊に勢いよくかぶりついた。
「ん〜っ! 美味しい!」
幸せそうに頬を膨らませる銀翼の相棒を前に、隼人は手元のノート(中継基地で調達した羊皮紙の束)を開き、持参した鉛筆でカリカリと数字を書き込み始めた。
「おい、アルヴェイン。少し真面目な話をしていいか」
「んぐ? にゃに?」
「君の『燃費』についてだ」
隼人はノートに書いた数式を指で叩いた。
「君の最高速は素晴らしい。時速七百キロの領域は、この世界の航空戦力において圧倒的なアドバンテージだ。……だが、あの速度を出すための魔力消費と、それに伴う君のカロリー消費――つまり『燃料費』が、俺の想定を遥かに超えている」
隼人のいた世界の戦闘機も、アフターバーナーを使えば燃料を湯水のように消費する。しかし、彼女の場合はそれが直接『食費』に跳ね返ってくるのだ。
「先日の模擬戦でも、君はかなりの魔力を使った。魔力を使えば使うほど空腹になるというメカニズムは理解できる。だが、このペースで毎食肉の山を平らげていては、俺たちの報酬は食費だけで底をつく。エンゲル係数が恐ろしいことになっている」
「えんげる……? よくわからないけど、黒瀬さん、私にご飯を食べさせたくないの?」
リュシアが肉から口を離し、恨めしそうな目で隼人を睨みつけた。
「そうじゃない。兵站の維持は作戦の要だ。ただ、少しばかり『燃費改善』の努力目標を立てられないかという提案だ。例えば、魔力の回復効率が良い安価な食べ物を探すとか、一番高価なこの猪肉の量を、せめて一個減らすとか……」
ダンッ!
リュシアが油のついた両手をテーブルに叩きつけた。
「だーめ! お肉を減らすなんて絶対に反対!」
食堂中の視線がちらりと二人に向いたが、彼女は気にすることなく身を乗り出した。
「黒瀬さんは分かってないわ! 魔力はただ休んでるだけじゃ完全に回復しないの。美味しいお肉をたくさん食べて、たくさん寝て、それでやっと私の翼に魔力が満ちるのよ! ご飯をケチったら、いざという時に全速で飛べないわよ! それでもいいの!?」
「くっ……それは……」
戦術担当として、『いざという時に最高速が出せない』という事態は絶対に避けなければならない。航空機における燃料不足は、即座に死を意味するからだ。
「分かった、俺が悪かった。肉を減らす案は撤回する」
隼人は深々とため息をつき、ノートに書いた『肉−1』という文字に斜線を引いた。
「わかればよろしい!」
リュシアは満足げに頷き、再び肉の山との格闘を再開した。
隼人は自分の分の味気ないスープを啜りながら、強烈な敗北感を味わっていた。空の上ではあんなに自分の指示に素直に従ってくれるのに、地上において、とりわけ食欲に関する事案では、彼女は一切の妥協を許さないらしい。
「ふう、食べた食べた! あー美味しかった!」
木盆の上を見事に空っぽにしたリュシアは、満足げに伸びをした。
「君の胃袋がどういう物理法則でできているのか、俺のいた世界の科学力でも解明できないだろうな……」
呆れ果てる隼人をよそに、リュシアは隼人の手元にあるノートを覗き込んできた。
「で? 黒瀬さんはさっきから何をそんなに難しそうな顔で書いてるの?」
「……午後から騎士団本部に提出する、飛行記録だ」
隼人はノートのページをめくった。
「日付、時刻、航路図、高度と速度のデータ。数字の記録は俺が書ける。だが、この横にある『特記事項』や『気流の状態』といった詳細な報告文は、俺には書けない」
隼人はアルティア大陸の言語を耳で聞き、話すことはできた。転移の際、どういうわけか脳の言語野が翻訳機能を獲得したらしい。しかし、文字の読み書きだけはどうにもならなかった。街の看板も、書類の記述も、彼にとってはただの幾何学模様にしか見えないのだ。
「だから、君に代筆を頼みたい。俺が口頭で言うから、それをこの公文書のフォーマットに清書してくれないか」
隼人が少しばかりバツの悪そうな顔で頼むと、リュシアはパッと花が咲いたような笑顔になった。
「もー、しょうがないわね! 黒瀬さんは私がいないと、本当に地上じゃ何にもできないんだから!」
空の上での絶対的な戦術的優位。それが地上に降りた途端、完全に逆転してしまう。
リュシアは隼人から羽ペンを受け取ると、いそいそと公文書の羊皮紙を引き寄せた。
「はい、言って。私が綺麗に書いてあげるから」
「……助かる。ええと、特記事項。先日の模擬戦における、急降下からの上昇風術への対応についてだが……」
隼人が紡ぐ論理的で少し硬い言葉を、リュシアは流麗な現地文字に変換してスラスラと書き記していく。
時折、「ここは『気流の乱れ』じゃなくて『風のよどみ』の方が正確よ」と、彼女自身の感覚に基づいた的確な修正が入る。隼人の数字と戦術、リュシアの感覚と文字。二つの異なる能力が噛み合わさって、一つの報告書が完成していく。
「よし、こんなところだな。ありがとう、アルヴェイン」
「どういたしまして!」
それから、報告書に繰り返し出てくる数字と短い単語を教わった。読み上げてもらうばかりでは、緊急時に困る。隼人は日本語のメモの横に、一字ずつ書き写した。
リュシアはペンを置き、ふと思い出したように自分のカゴからパンを一つ取り出し、真ん中で割った。
「あ、そうだ。はい、これ」
彼女は割ったパンの半分を、隼人の前に置いた。
「なんだ?」
「黒瀬さん、この食堂のスープ、少し味が薄いって言ってたでしょ。このパンの中に入ってるチーズと一緒に食べると、ちょうどいい塩気になって美味しいのよ。試してみて」
隼人は驚いて彼女を見た。
「……俺の好みを、覚えていたのか」
「一緒にご飯食べてるんだから、それくらい分かるわよ。ほら、冷めないうちに」
リュシアはニコリと笑い、残りの半分のパンを自分の口に放り込んだ。
隼人は黙ってパンをスープに浸し、口へ運んだ。確かに、チーズの塩分とコクがスープに溶け出し、先ほどよりも格段に美味しく感じられた。
(空では俺が守るつもりでいたが……地上じゃ完全に、面倒を見られているな)
軍隊という徹底した階級社会の中で生きてきた隼人にとって、この主導権の逆転は奇妙な感覚だった。だが、不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、見知らぬ世界での孤立感を、彼女のその過剰なまでのお節介が埋めてくれているような気がした。
「……ん?」
食後のコーヒー(に似た苦い飲み物)を飲みながら、隼人は先ほど書き終えた飛行記録の数字の羅列を眺め、眉をひそめた。
「どうしたの?」
「指定試験空域での限界測定と、先日の模擬戦のデータだ。君の魔力消費の推移と、俺の身体にかかった負荷の記録を照らし合わせていたんだが……どうも不自然な負荷の偏りがある」
隼人はノートの余白に、竜鞍の簡単なスケッチを描いた。
「俺が使っているこの『標準竜鞍』だ。もともと時速三百キロ程度の巡航を想定して作られているものだろう? 繰り返し飛んだあとの金具と革ベルトに、点検時にはなかった遊びが出ている」
隼人はペン先で、鞍とリュシアの翼の付け根が接する部分をトントンと叩いた。
「君が全速へ加速した時、俺の身体が後ろへ持っていかれるのを防ぐ力が、緩んだ固定具に集中している。このままでは、いざという時の回避機動で俺が振り落とされるか、鞍そのものが君の翼を傷つける可能性がある」
「えっ……私の翼が、傷つく?」
リュシアの顔色が変わった。過去の事故のトラウマが、まだ彼女の中には燻っているのだ。
「大丈夫だ、俺がそんな事態にはさせない」
隼人はリュシアを安心させるように、はっきりと告げた。彼女の食事の量を減らして燃費を稼ぐ案は撤回したが、装備の不具合による危険は、放置しておくわけにはいかない。
「この記録を見る限り、早急な装備の改善が必要だ。……アルヴェイン、この駐屯地に、竜鞍の専門家はいないか?」
「専門家……。あ、イーラなら分かるかも!」
リュシアがポンと手を打った。
「イーラ・フェン。腕利きの竜鞍技師よ。少し口は悪いけど、腕は確かだって評判なの」
「よし。報告書を提出したら、すぐにそのイーラという技師に会いに行こう」
隼人はノートを閉じ、立ち上がった。
世界最速の翼を安全に乗りこなすための、命綱を作る仕事。
異世界での最初の休日は、どうやら休んではいられないようだった。




