第05話 私の背中は、あなたの席
春の第五日。騎士団庁舎の奥にある重厚な扉の向こう、審査室の空気はひどく重かった。
長机を挟んで、二人の審査官と立会人のガルド教官が座っている。対面の席には隼人とリュシアが並んで座らされていた。
机の中央に置かれているのは、二枚の羊皮紙だ。
一枚は『搭乗全速禁止規則』の厳守を誓う誓約書。もう一枚は、リュシアの『過去の騎手負傷事故に関する調査記録』だった。
「アルヴェイン。お前が以前、騎手候補生を乗せた飛行訓練中に、自身の速度を制御できず高Gの急回避を行い、搭乗者に重傷を負わせた事実は間違いないな」
審査官の冷徹な問いかけに、リュシアは膝の上で両手を固く握りしめ、顔を伏せたまま小さく頷いた。
「……はい」
消え入りそうな声だった。空の上で見せる勝ち気で誇り高い姿はそこにはなく、自分の翼が相棒を傷つけてしまった過去の罪悪感に押し潰されそうになっている、一人の不器用な少女の姿があった。
隼人は手元の書類――現地文字は読めないが、ガルドが事前に読み上げてくれた内容――を頭の中で反芻した。
不意の突風に煽られた時、騎手の「もっと速く」という指示に応えようとして、彼女が高Gの急回避を行ってしまったこと。停止の合図が曖昧だったこと。限界速度(時速七百キロ)には到達していなかったが、中速域での無理な機動が搭乗者の身体を壊したこと。
(……なるほどな)
隼人は元戦闘機乗りの視点から、その事故を極めて客観的に分析していた。
それは彼女の翼が呪われているわけでも、悪意があったわけでもない。航空機と操縦士の間の『限界値の共有』と『緊急時の合意手順』が致命的に欠如していたことによる、典型的なヒューマンエラーだ。
「審査官殿、発言の許可を」
隼人が挙手すると、審査官は怪訝な顔をしながらも頷いた。
「過去の事故については承知しました。しかし、現在の俺と彼女の間には、中止するための明確な基準があります。検証で確かめた加減速の手順を守り、身体や膜に異常があれば、その場で中止する。現在の標準竜鞍の保持力にも限界があるため、俺たちは『最高速の維持は直線のみとし、急旋回を禁止する』という安全基準を設けています」
隼人はリュシアを庇うような感傷的な言葉は一切使わず、検証で確かめた条件を順に述べた。
「加えて、戦闘空域から離脱し帰還するための魔力を必ず温存するという運用ルールも、初日の消耗記録から定めました。過去の失敗は教訓にすべきですが、現在の俺たちが空を飛ぶ障害にはならないと考えます」
淡々とした隼人の申告に、リュシアが驚いたように横顔を上げた。彼は過去の事故を『だから飛べない』理由ではなく、『だから次はどう飛ぶか』のデータとして扱ってくれている。
審査官たちは顔を見合わせ、やがてガルドに向かって頷いた。
「……第一日における無許可の全速飛行については、民間竜への差し迫った救命目的であったことを鑑み、特例として処分留保とする」
ガルドが立ち上がり、新しい羊皮紙を机に置いた。
「また、検証データおよび昨日の模擬戦における戦術的実績を評価し、騎士団は黒瀬隼人とリュシア・アルヴェインの二名に限り、『指定試験空域内に限定した短時間全速飛行』の特例許可を交付する。……双方が解除を申し出られる双翼の任務契約、正式に登録完了だ」
ガルドが書類に騎士団の承認印を押した瞬間、リュシアの肩からふっと力が抜け、その青い瞳に涙ぐんだような光が浮かんだ。
「契約成立だ。これで俺たちは、正式な相棒だな」
隼人が小声で告げると、リュシアは何度も力強く頷いた。
審査を終えても、隼人は初回の測距記録を手放さなかった。前より緩やかに加速すれば、膜をどれだけ保てるか。十二秒まで飛ぶ許可を得たことと、今日そこまで飛べることは、同じではない。
午後、十分に休息を取った二人は騎士団駐屯地を飛び立ち、特例で許可された広大な指定試験空域へと向かっていた。
眼下には雄大な雲海が広がり、頭上にはどこまでも突き抜けるような青空が広がっている。魔獣もいなければ、模擬戦の相手もいない。ただ純粋に、空を飛ぶためだけのフライトだった。
『黒瀬さん! 契約、通ったわね!』
竜鞍を通じた共感回路に、リュシアの弾む声が響いた。審査の緊張が解けた彼女の翼は、いつも以上に軽やかに風を捉えていた。
「ああ。だが、許可されたからといって無茶はしないぞ。今日は戦闘ではない。最初の検証より加速を緩めて、膜の様子を確かめながら飛ぶだけだ」
隼人は竜鞍の上で周囲の空域を確認し、頭の中で飛行経路を組み立てた。
「進路クリア。前方に積乱雲や乱気流の兆候なし。このまま高度を維持し、水平方向への直線加速経路を取る」
隼人は共感回路を通じ、リュシアの意識へと自分が描いた直線の航路を共有した。
「事前の取り決め通り、最高速度の維持は最大で十二秒間とする。それが風護膜と魔力の上限だ。異常があれば、十二秒を待たずにやめる。十二秒経ったら、急な旋回はせず、そのまま翼を広げて緩やかに減速しろ。合意できるか?」
背中越しに、一瞬だけ翼が強張った。隼人は彼女の返事を待った。
『……ええ。十二秒、任せて!』
背中越しに伝わる飛行の意図が、まっすぐ前を向いた。
「よし。全速、行けるか?」
『行くわよ!』
銀色の巨大な翼が、これまで見せたことのない力強さで空気を打ち据えた。
ドォン! という大気を叩き割るような衝撃音と共に、リュシアの巨体が前方に弾き出された。
「ぐっ……!」
隼人の身体が竜鞍に強烈に押し付けられる。時速三百、四百、五百と、凄まじい勢いで対気速度が跳ね上がっていく。隼人は背を支えに押し当て、胸にかかる重さの中で呼吸を整えた。
風護膜の外側で、空気が悲鳴を上げて流れていく。雲海の起伏が、まるで早送りされた映像のように後方へとすっ飛んでいく。
(速い……!)
戦闘機のアフターバーナーにも匹敵する、圧倒的な加速感。
時速七百キロ付近。加速の重さが薄れる。リュシアは、誰にも遠慮することなく、自身が持つポテンシャルのすべてを解放した最高速の領域へと到達した。
『一、二、三――!』
共感回路を通じて、リュシア自身が秒数を数える声が聞こえる。彼女はただ本能のままに飛んでいるのではない。隼人との約束を守り、限界の秒数を自分で数えながら、狂気的な速度の中でも完璧な直線の飛行姿勢を維持していた。
『――十一、十二!』
約束の十二秒。
リュシアは急激な引き起こしも、無理な旋回も行わなかった。自身の翼をゆっくりと広げて巨大な空気抵抗を作り出し、エアブレーキのように滑らかに速度を落としていく。
減速を終えると、固定具に預けていた身体がふっと軽くなった。
風護膜も破綻せず、隼人の身体も無事だ。何より、リュシア自身が完璧に自分の速度をコントロールし、安全に帰還軌道に乗ってみせたのだ。
『黒瀬さん! 飛べたわ! 私、最後までちゃんと飛べた!』
弾んだ声に、隼人まで頬が緩んだ。
それは、怖さを抱えたままでも、約束通り飛び切れた喜び。そして、その最高の空を、大切な相棒と共有できた喜びだ。
「ああ。最高のフライトだった。お前の背中は、世界一の特等席だ」
隼人はヘルメットの奥で、異世界に来てから初めて、声を出して笑った。
戦闘機を失い、帰る場所を失った男の心に、純粋に空を飛ぶことの楽しさが鮮やかに蘇っていた。
中継基地の滑走路へ着陸し、竜鞍を降ろした二人は、夕陽に照らされながら駐屯地へと歩いていた。
人型に戻ったリュシアの足取りは、いつになく軽やかだった。銀髪が風に揺れ、透き通るような青い瞳には、以前のような無理に虚勢を張ったような強がりは微塵もなかった。
「……ありがとう、黒瀬さん」
歩きながら、リュシアがふと立ち止まり、隼人に向き直った。
「私、ずっと怖かったの。自分が速く飛べば飛ぶほど、誰もついてきてくれなくなって、誰かを傷つけてしまうんじゃないかって。……でも、あなたのおかげで、また全速で空を飛べた」
彼女は照れくさそうに少しだけ頬を染め、そして、隼人に向かってスッと右手を差し出した。
「だから、また一緒に飛んでね。私の騎手さん」
それは、命令でもすがりつくような願いでもなく、対等な相棒としての純粋な誘いだった。
「ああ。俺の命を預けるのは、君の翼だけだ」
隼人は迷うことなくその手を取り、しっかりと握り返した。彼女の手は少しひんやりとしていたが、確かな生命の温もりが伝わってきた。操縦桿の無機質な感触とは違う、誰かと共に空を生きるという実感。
「さて、感動的なところ悪いが、お前たちに渡すものがある」
突然の声に二人が振り返ると、書類の束を小脇に抱えたガルド教官が立っていた。
「教官、わざわざ出迎えですか?」
「馬鹿を言え。お前たちの臨時飛行士登録が受理された。これはその身分証だ」
ガルドは二枚の銀色の認識票を二人に投げ渡した。
「それと、臨時とはいえ軍属になった以上、隊舎で寝泊まりしてもらう。アルヴェイン、お前は今まで通りの個室でいい。黒瀬、貴様の部屋はアルヴェインの隣だ。荷物をまとめておけ」
「隣の部屋……?」
隼人が認識票を見つめながら呟くと、リュシアがパッと顔を輝かせた。
「本当!? やったぁ、これで毎朝一緒にごはん食べに行けるわね!」
「……待て、俺の朝の平穏はどうなるんだ」
「何言ってるのよ、相棒なんだから四六時中一緒にいるのは当たり前でしょ!」
リュシアは隼人の腕に自分の腕を絡ませ、ぐいぐいと隊舎の方角へ引っ張っていく。
空の上だけでなく、地上での仕事以外の共同生活。それは、見知らぬ世界に放り出された隼人にとって、初めて手に入れた『日常』の始まりだった。




