第49話 この空は、二人だけのものじゃない
塔の魔力機構が切り替わる決行周期の開始時刻、『t=0』。
風門塔の裏側にそびえる切り立った岩肌の陰から、リュシアの銀翼が直線の進入軌道を保ったまま現れた。
「t=0、切替開始! 山稜側の入り口から進入するぞ!」
『了解!』
隼人の号令と同時に、時速二百二十キロの安定した進入態勢を保っていたリュシアが、塔の外周を取り巻く風の壁の隙間へと滑り込んだ。
ガルドから、黒翼が塔へ戻り始めたとの報告が届いた。
通路の合流点まで二キロ以上、最短でも二十四秒。隼人はその数字を頭の隅へ置いた。射撃が遅れれば、敵は次の機会を潰しに来る。勝負がついたわけではない。
山稜側の入り口から進入した隼人とリュシアの前には、t=0から6秒間だけ風が弱まる、幅の狭い約三百メートルの直線通路が開かれていた。
左右からは、まだ完全には収まりきっていない乱気流の壁が迫っている。
『少し揺れるわよ、隼人!』
「姿勢制御だけ頼む! 速度は落とすな!」
リュシアは時速二百二十キロの速度を落とさず、絶妙な翼の傾きで乱気流の縁を滑るようにして、その細い風の道を約五秒かけて一気に駆け抜けた。
t=5秒。
三百メートルの外周通路を突き抜けた先には、嘘のように静まり返った巨大な空間が広がっていた。
塔の背面側。約四百五十メートルに及ぶ、巨大な『直線風影』の空域だ。
「抜けたぞ! ここから十五秒間が勝負だ、対気速度を時速百八十キロへ減速!」
『減速完了。機体、安定してるわ!』
ここから先は、一切の急な機動を捨てた、精密機械のような直線飛行が求められる。
隼人の計算した航路は、塔の装甲へ真正面から突っ込むのではなく、外壁から横に九十メートル以上離れた安全な空間を、接線を引くようにして直進するルートだった。
「保守口の標識を視認。収束開始点まで、あと少し!」
隼人が双眼鏡越しに、塔の側背面にぽっかりと開いた暗い穴と、その奥にある『非常停止環』の金属質な輝きを捉えて叫ぶ。
「射線クリア、退避路よし。収束開始!」
『了解! 魔力、収束するわ!』
時速百八十キロで直進しながら、リュシアは飛行姿勢を微塵も崩すことなく、帰還の余力を残し、調整済みの魔力を風槍へ集めた。
目指す射点まで、残り百五十メートル。目標そのものは、まだ斜め前方二百八十メートル余りにある。
彼女の翼の周囲の大気が白く発光し、尋常ではない密度の風が、一本の槍のように鋭く圧縮されていく。
三秒間。
射点へ達した時、保守口は進行方向に約百二十、横に九十メートル。斜めの距離は約百五十メートルだった。
リュシアが翼で最後の風の揺れを確かめる。
リュシアは自らの意思とタイミングで、その『風槍』を解き放った。
『――いっけぇぇぇぇっ!』
轟音と共に放たれた風の槍は、塔の外壁を傷つけることなく、開いた保守口の斜め前方から真っ直ぐに吸い込まれ、その最奥にあるリング状の装置――『非常停止環』の中央へ、イーラと確かめた範囲の風圧衝撃を叩き込んだ。
ガァンッ! という重々しい金属音が、風影の空間に響き渡る。
「命中! 曲がるなリュシア、そのまま直進だ!」
『わかってる!』
風槍を放った反動に耐えながら、リュシアは機首を塔へ向けるような無謀な真似はせず、そのままの直進軌道で風影を抜け、t=20秒のタイムリミットが来る前に、山稜の陰にある安全な退避空域へと滑り込んだ。
山肌に隠れた安全空域で滑空姿勢に入った瞬間、リュシアは大きく息を吐き出し、翼の張りを少し緩めた。
『ふうっ……やったわ、隼人!』
「ああ。だが、まだ終わりじゃない。送風機構が止まり、残った風が収まるまではな」
隼人は加圧鞍の上から身を乗り出し、双眼鏡で塔の周囲の様子を凝視した。
停止環が作動したか、射点では確かめきれなかった。隼人は、イーラに教わった停止時の変化を待った。塔の内部から響いていた地鳴りのような駆動音が急速にトーンダウンし、周囲を覆っていた狂ったような人工風の壁が、目に見えて弱まり、減衰していく。
「……段階停止に入った。効いているぞ」
数分後、送風機構の駆動音が止まった。だが、残った風までは目で判断できない。リュシアの翼の感触と、カミルが中継する複数の観測所の測風値が落ち着くのを待ち、ガルド隊の先行騎が輸送経路を確かめた。
戻ってきた黒翼は、塔の外側で一度旋回した。追えばガルド隊と挟まれ、保守口へ入っても止まった機構を空から戻すことはできない。やがてグレンは、残る守備騎を伴って帝国側へ離れていった。通信でその報告を受け、隼人はようやく背もたれへ体重を預けた。
「……風圧の減衰を確認した。予定の輸送経路は通れるぞ」
隼人は通信魔導具のスイッチを入れ、後方の安全空域で待機している味方へ向けて、待ちに待った号令を飛ばした。
「教官、カミル! 塔の停止を確認しました! ――救援隊を通してください!」
『……ああ、よくやった! これより全救援便、セレナへ向けて出発する!』
ガルドの弾んだ声と共に、大量の食糧と治療薬を積んだ何十騎もの商用竜たちが、雲の切れ間に光が差す協定空路を堂々と進んでいくのが見えた。
敵将の命を奪うこともなく、塔を破壊して民間人を傷つけることもなく。
空路を塞いでいた風の向こうへ、薬を積んだ翼が続いていく。隼人は、その最後尾まで見送った。
「……終わったな、リュシア」
『ええ。戦う分は、もう残ってないわ。帰る分だけ、ちゃんと残したけど』
リュシアは疲れたような、けれど底抜けに明るい思念を返してきた。
「無理もない。ゆっくり滑空して帰ろう。後方の護衛はガルド教官たちが引き受けてくれるさ」
隼人はグローブを外し、竜鞍越しに伝わってくる彼女の確かな体温と鼓動を、右手のひらでそっと撫でた。
この空は、俺が一人で計算して勝ち取ったものではない。
彼女が一人で無茶をして切り開いたものでもない。
二人で悩み、ぶつかり合い、そして仲間に支えられて見つけ出した帰り道だった。
「……ありがとう、リュシア。よく頑張ってくれた」
『ふふっ。どういたしまして、私の大好きな騎手さん』
朝陽が差し込み始めた空を、銀色の翼がゆっくりと基地へ向かって飛んでいく。
その穏やかな軌跡は、これから始まる二人の新しい日常へと、真っ直ぐに繋がっていた。




