第48話 全速の向こう側
作戦三日目。中立都市セレナへ救援便を通せる猶予の、最終日。
分厚い暗雲が低く垂れ込める風門塔の周辺空域で、ガルド教官とマーラが指揮する王国の別働隊が、鋭い包囲陣形を組んで虚空を睨みつけていた。
彼らが展開しているのは、塔の外周を取り巻く風壁のうち、地形的に開けた『谷側』の進入口の正面だ。
そのガルド隊の陣形の先頭で、リュシアの銀翼が一度だけ、誇り高く大きく翻った。
「……食いついたぞ。黒瀬、アルヴェイン。これより陽動を開始する!」
ガルドの通信と同時に、塔の上方から巨大な黒い影が谷側の空域へと急降下してきた。
軍章を外した帝国の竜騎士隊長ヴァルターと、黒翼竜のグレン。
自国の塔を守る今も、標識はない。風害を自然災害と言い張る以上、妨害してきた騎が正規軍として姿を見せるわけにはいかないのだろう。隼人はその羽紋と、守備隊との連携を記録に残すよう通信した。
谷側の守備線をガルド隊が押し、銀翼も射撃位置へ回ろうとしている。これを放置すれば、次の切替に二騎以上が通路へ入る。黒翼が増援へ向かうのは、その突破を外側で止めるためだろう。隼人はそう読んだ。
保守口の正面は強烈な吸込みと排気のため、いかにグレンといえども常駐はできない。谷側で迎撃線を張る敵の動きは、その読みと噛み合っていた。
ガルドとマーラは前衛を谷側入口へ残し、敵へ射線を向けたまま、風壁の外へ斜めに退いた。退きながらも、二人の風術は谷側の守備騎へ向いている。黒翼がこの援護射撃を止めなければ、入口の前衛が守備線を崩す。グレンが距離を詰め、ガルドたちとの交戦位置が通路から遠ざかった。
「教官、後を頼みます! 俺とリュシアはこれより離脱し、山稜側へ回ります!」
『任せろ。敵の視線と魔法は、俺たちがすべて引き受ける!』
ガルド隊が放った一斉の風術が、グレンの進行ルートを塞ぐように炸裂した。
その強烈な光と衝撃の波が、黒翼と銀翼の間を覆ったわずか数秒の隙。
リュシアは谷側の陣形から音もなく滑り降り、そのまま岩肌すれすれの低空を這うようにして、戦線から密かに離脱した。
彼女が向かう先は、塔の裏側に隠されたもう一つの入り口――昨日の実測で突き止めた『山稜側』の進入線だ。
出撃前、教官から二人限定の特例として『全速』の使用承認を得た時、隼人はリュシアと最後の時刻合わせを済ませていた。
「岩陰をつなぐ外回りは約五キロ。巡航三百なら一分、曲がって姿勢を作る分だけさらにかかる。教官たちが離脱から保てる見込みは四十五秒だ。……加減速と最後の方向合わせまで約四十秒。そこから四秒ほど直進して、切替に入る。行けるか?」
全速で岩陰を回り続けるのではない。長い直線で距離を稼ぎ、十分に減速してから向きを変える。早めに着いて待つのではなく、決行の切替から四十四秒前を目安に離脱する計画だった。
『仲間が作ってくれる時間だもの。私の十二秒で、間に合わせるわ』
その返事を思い出しながら、隼人はコンソールの計時器を確かめた。岩肌に隠れた外周の直線空域が、二人の前に開ける。
この作戦における全速の使用目的。
それは、敵の背後を強引に突破するためでも、無理な急旋回で攻撃を躱すためでもない。
敵の機動力が及ばない圧倒的なスピードで、遥か彼方の『最終勝利の位置』へと誰よりも早く到達するための、純粋な長距離移動手段だった。
「全速、いけるか!」
『――十二秒、任せて!』
リュシアの声が、晴れやかに響き渡った。
ドンッ、と大気が爆発するような重低音が響き、白銀の巨翼が限界まで引き絞られた。
固定具に支えられた隼人の身体が、背もたれへ押し付けられる。胸に加速の重さがかかった。風護膜が弾けそうな音を立てて空気を切り裂いた。
加速を終え、計時を切り替える。一秒、二秒。
時速七百キロ付近。銀翼の最高速度。
だが、その恐るべき速度域の中でも、隼人の数える声にリュシアの短い返事が重なった。
加速と減速にかかる時間を厳密に計算に入れた上で、維持できる上限の『十二秒間』だけ、真っ直ぐな直線軌道でその最高速を解放する。
九秒、十秒。
たった十二秒の最高速度の維持だけで、リュシアは約二・三キロメートルという距離を一気に喰い尽くした。
「全速、終了。限界時間だ!」
隼人の合図と共に、リュシアは翼を大きく広げて強烈な空気抵抗を生み出し、十秒以上の時間をかけて安全に減速姿勢へと入っていく。
減速する二人の耳へ、ガルドの短い報告が届いた。
『黒翼は合流点まで二キロ以上。前衛は健在、上方の敵隊は動かん!』
岩陰から塔の反対側は見えない。隼人はその距離と、切替までの秒数を照らした。
グレンの最高速は時速三百キロ程度。合流点まで二キロを直線で戻るだけでも二十四秒は要る。こちらが風影へ入って抜ける時間より長い。ただし、早く引き返されれば、この余裕は削られる。
十分に速度が落ちたところで、リュシアは緩い弧を描いて向きを変え、鞍部の外側から進入線へ乗せた。
「入口、敵影なし」
『風も昨日と同じよ』
全速を使った後に、次の周期まで丸ごと待つ余裕はない。風や敵の動きがずれれば、今回の攻撃を中止して外へ抜ける。その場で一周期待つという意味ではなかった。
谷側を離れて約四十秒。昨日目印にした岩が、翼の横へ来た。
「進入線、切替まで四秒!」
『了解!』
時速二百二十キロ。二人は止まらない。約二百四十メートル先の合流点へ向け、まっすぐに飛び続けた。
初飛行の時に交わした全速の合意。
あの時はただ真っ直ぐ飛ぶことしかできなかった。だが今は違う。
彼女の圧倒的な翼の性能、隼人の秒単位の時刻計算、そしてガルド隊という最高の味方の陽動。そのすべてが、目の前の入口へ二人を運んでいく。
塔の魔力機構が重い唸り声を上げ、周囲の気流が不気味に震え始める。
『黒翼、まだこちらだ!』
隼人は計時器を見た。
「……今だ!」
決行周期の切替開始、『t=0』。
谷側を離れて約四十四秒。合流点へ達した二人の前で、これまで彼らを阻み続けてきた巨大な風壁が、ほんのわずかにその圧力を緩めようとしていた。
背後の通信機で、ガルドの声が短く響いた。
『通路は銀翼に空ける! 谷側の前衛、進入をやめて退避! ――黒翼が反転した、こちらの足止めを振り切るぞ!』
風が開いたのに、谷側の味方は入らなかった。その報告で隼人にも、敵が戻る理由が分かった。銀翼が消えても残っていた谷側突破の脅威が、ここで途切れたのだ。
隼人は距離と時刻を確かめた。間に合う。だが、止まれば追いつかれる。
最強の双翼が、ついに風門塔の核心へと突入する。




