第47話 私の翼が知っている道
作戦二日目。中継基地から、一騎の銀翼が朝靄を切り裂いて飛び立った。
前日の「上方からの暫定正面進入案」が敵の防衛と強風の前に破綻したことを受け、隼人とリュシアはガルド教官の許可を得て、風門塔の保守口へ至る正確な進入路と射撃ポイントを測るための『短時間の実測偵察』に出たのだ。
「高度二千。これより風門塔の暴風域の縁へ接近する」
加圧補助竜鞍に固定されたコンソールの計器を睨みながら、隼人は気を引き締めた。
作戦室の模型や旧型図面の上でどれだけ完璧な航路を引けたとしても、現場の風がその通りに吹いてくれなければ無意味だ。
「模型で飛べても、実際に通れなきゃ意味がない。……リュシア、頼むぞ」
『ええ、任せて!』
リュシアは塔の周囲を取り巻く巨大な空気の断層――『風壁』の外側で機体を滑らせた。昨日記した谷口の岩峰が、眼下に見えてきた。
すぐに中へは入らない。岩の張り出しに守られた待機点から、まず風の周期を測る。塔の排気と吸気は約六十秒ごとに切り替わっていた。隼人はその切替の始まりを『t=0』と決め、計時器の針と、リュシアの短い報告を照らし合わせた。
『外周が弱まった。……今、背面も。……外周、閉じるわ』
「背面の風は?」
『まだ保ってる。……終わり。強い排気が来た』
数周期を重ねても、順番は変わらない。外周の風が弱まるのは開始から約六秒。背面の風が落ち着くのは五秒後から二十秒後までだった。
吸い込みそのものを安全な道と間違えてはいけない。その前後に生まれる、短い風の薄まりを使うのだ。
『隼人。この外周通路、入り口が二つあるかもしれない』
「二つ?」
『見えている谷側だけじゃない。山稜の裏から流れてくる風も、同じ道へ繋がってる。先に、あっちの外側を確かめたい』
「了解。今の周期は見送る」
二人は風壁から距離を取り、岩陰に沿って山稜側へ回った。
そこには、谷からは尾根に遮られて見えず、大きな弧を描いて時刻を調整できる空域があった。低い岩の鞍部を回り込むと、山稜側からの短い進入路が、同じ外周通路の入口へ繋がっている。
『ここなら進入姿勢を作れる。抜けた先も、この尾根の北端の陰へ出られるわ』
隼人は方位と岩峰の高さを記し、退避先までの空間を双眼鏡で確かめた。上空には守備騎の影が見えるが、今の低い位置には目が届いていない。
ただし、見つからない保証はない。測る間だけガルド隊が谷側で接近の構えを見せ、守備隊の注意を引いていた。
二人は鞍部から合流点の手前までの短い接続路を往復した。風壁の内側には入らず、機首を通路へ揃えられる位置と、その外へ戻る線を確かめる。
『山稜側も、同じ入口へ出るわ。本番では、あの岩から直進して、切替の瞬間にここへ入れる』
隼人は両側から見た岩の位置を地図に重ねた。岩の横から合流点までは約二百四十メートル。二百二十キロなら四秒ほどの直線だ。切替の瞬間に越える合流点から先は、どちらを使っても同じ三百メートルだった。
『黒瀬、敵の上方隊は動かん。黒翼は谷側の外へ引いた。入口との間は空いている。長くは引きつけられんぞ』
「了解。一本だけ通って離脱します」
山稜側から合流点へ出る線は確かめた。風壁の内側の通過は、ガルド隊から退路を見通せる谷側で行う。二人は風壁の外を戻り、次の切替へ進入時刻を合わせた。
「t=0、切替開始!」
『風、薄い。入るわ!』
時速二百二十キロ。リュシアが谷側から滑り込む。
左右に迫る乱流の縁を、翼の先端が読む。隼人は計時器と通路の先を交互に見た。
「五秒、通過!」
約三百メートルの外周通路を抜けると、塔の背面側――非常停止環のある『外部保守口』の前に、静かな風の帯が広がっていた。
『風影よ。直進できる!』
「百八十まで減速。今回は撃たない、そのまま出口へ!」
短い指示だけを交わし、二人は外壁から横に距離を取った直線を飛んだ。
保守口の標識が斜め前に見え、やがて横へ流れていく。隼人はその時刻と角度を記憶に刻んだ。立ち止まって図面を直す余裕はない。
風影の長さはおよそ四百五十メートル。通過に使ったのは、減速を含めて九秒ほどだった。背面の排気が再び強まる二十秒より前に、二人は山稜の陰へ抜けていた。
非常停止環が作動しなくても、この直線のまま出られる。
帰り道を実際に通り終えたことに、隼人はようやく息を吐いた。
『後ろ、黒翼!』
雲海の切れ間から、巨大な黒い翼が現れた。谷側でガルド隊を押し返したグレンが、二人の抜けた方向へ回ってきたのだ。
「交戦しない。退避路のまま、次の尾根まで!」
『ええ!』
リュシアは風の安定した外側で速度を上げた。全速は使わない。グレンが旋回して追尾に入る前に、次の岩陰へ姿を隠す。
ガルド隊からも離脱の報告が届いた。隼人は帰還に残せる魔力を問い、リュシアの返事を聞いて、初めて握っていた取っ手を緩めた。
中継基地へ戻った二人は、休息を挟んで作戦盤の前に並んだ。
隼人は計時記録を、リュシアは風の変化を一つずつ書き加えていく。
外周通路が開くのは、切替開始から六秒まで。
背面の直線風影が保つのは、五秒から二十秒までの十五秒間。
谷側と山稜側、二つの接近路は、最後には同じ三百メートルの外周通路へ合流する。
隼人は谷口と山稜の南の鞍部から二本の線を引き、塔の西側で一本にした。そこから側背面の風影を北へ抜け、同じ山稜の北端の陰へ出る。入る岩陰と、抜ける岩陰は別だった。
「ここから先は、今日通った線を使う」
隼人は地形図に定規を置いた。
「外壁から横に九十メートル以上離れたまま、風影の中を直進する。保守口が斜め前方、約百五十メートルに見える位置が『射点』だ」
「標識が正面より右へずれた、あそこね」
「ああ。射点では、目標まで進行方向に約百二十、横に九十。その斜めの距離が百五十になる。そこからさらに百五十メートル手前が、収束を始める位置だ」
隼人はその二点を、はっきり分けて丸で囲んだ。
「百八十キロで三秒直進すれば、百五十メートル進む。収束を始めた時の目標はまだ遠い。撃つ時に、射程へ収まる」
「撃った後は、今日と同じ直線で抜けるのね」
「そうだ。射線がずれても曲げて追わない。撃たずに抜ける。途中で風が変わったら、今日確かめた退避位置へ向かう」
リュシアは二つの丸と、その先の出口を順に指で辿った。
「……これなら、撃てるかどうかを私が最後まで見られる」
「ああ。入口が開いていても、奥の風が違えば中止だ」
「その時は、次の六十秒を待てばいいわけじゃないのね」
リュシアがガルドを見た。
「敵も入口を知る。組み直すには少なくとも数十分だ。傷と魔力次第では、今日はもう仕掛けられん」
「全速を使った後は、風槍と帰還の分を残す。二度目の全速を当てにした再攻撃はできません」
隼人は出口の線をなぞった。
「便が遅れれば、待てない人がいる。それでも撃てない線なら撃たない。帰って、残る騎と通せる荷を考える。ここで二人とも失う案には変えません」
彼女の気流感覚と、彼の数値計算が、一本の航路として重なっていく。ようやく、図面の線に空の手触りが伴った。
残るのは、敵の守備配置だった。
塔背面は安定する十五秒以外、強烈な吸込みと排気に晒される。グレンも保守口の前へ留まり続けることはできず、風壁の外から周期に合わせて迎撃してくる。
「上方と谷側には守備隊がいる。山稜側から入っても、合流する場所へ黒翼が戻れば止められるな」
ガルドが言った。
「ええ。入口を変えるだけでは駄目です。グレンを、切替までに戻れない距離へ引き離す必要があります」
隼人は谷側へ木駒を置いた。
敵には、銀翼が谷側から通路へ入った姿を見られている。だが、山稜側で測った接近路まで知られたかは分からない。知られていても、二つの入口を同時に無視することはできない。
「谷側の攻撃を、放置できないものにします。俺たちも初めはそこに姿を見せる。教官たちが主力を引きつけている間に、銀翼だけが外周を回る」
「全速で、山稜側へ?」
リュシアの目が鋭く輝いた。
「ああ。加速と減速まで含めて、切替へ間に合わせる。黒翼が戻り始めた時刻と距離次第では、今回の攻撃を中止して離脱する」
ガルドはしばらく作戦盤を見ていたが、やがて木駒を手に取った。
「見せかけだけでは、奴は動かん。こちらが谷側の守備線を本当に崩す構えで行く。前衛を入口へ残し、俺とマーラが黒翼を外へ引く。奴が戻れば前衛が進める。その圧力を切替まで保つ」
隼人は頷いた。成功が決まったわけではない。敵を動かすのも、二人が移動する時間を作るのも、仲間の仕事だった。
明日、救援期限の当日。
その一度の機会へ向けて、全員の進路が作戦盤の上で繋がっていった。




