第50話 君と、どこまでも
風門塔の非常停止環を作動させてから、二か月ほどの時が流れた。
秋が深まり、冷たく澄んだ風が吹き抜ける中立都市セレナの空には、ずらりと列をなして飛ぶ商用羽竜たちの姿が戻っていた。
空路が開放されたあの日を境に、行き場を失っていた大量の食糧や物資が次々と運ばれ、都市の配給も通常の量に戻った。街の広場からは人々の活気ある声が響き、地上にも空にも、確かな日常が息づいている。
王国辺境の中継基地。そのバルコニーから商用竜たちの羽ばたきを見上げていた隼人の背後で、通信室から出てきたユーノが声をかけた。
「……素晴らしい光景ですね、黒瀬殿」
「ああ。誰もが当たり前に空を飛べる。これが本来の姿だ」
隼人が振り返ると、ユーノは手元の分厚い書類鞄を軽く叩き、小さく微笑んだ。
「昨日、中立連盟は帝国政府との間で、暫定的な航路合意の締結に至りました」
非常停止環の作動は、あくまで強引な現状打破に過ぎなかった。停止直後から、救援の時間帯だけは塔を再稼働させない暫定措置を連盟が取り付け、観測隊が風向を監視していた。その暫定措置を足がかりに、中立連盟は越境風害の記録と、黒翼の所属不明騎に関する詳細な照合記録を各国へ追加公表した。塔の守備騎と連携して保守口を防いだ羽紋は、空路で救援を妨害した黒翼の記録と一致していた。標識がなくても、活動の繋がりを示す資料は増えた。
通商上の強烈な圧力を前に、帝国側もついに折れる形となり、風害の是正と救援便の安全通行を確約した。一便ずつの取り決めが、ようやく航路全体の合意に繋がったのだ。
「ただし、所属不明騎への指揮命令系統と国家責任については、帝国は未だにシラを切り通しています。宣戦布告も正式な交戦状態も認めていないため、国際法上はこれを『停戦』とは呼びません。……この先も、息の長い協議と調査が続くことになります」
「だろうな。あっちの指揮官も、そう簡単に尻尾を掴ませるような男じゃない」
闇の中で推測航法を読み合い、互いの進入点を塞ぎ合った黒翼の精鋭、ヴァルターとグレンの姿を思い出し、隼人は短く鼻を鳴らした。
だが、政治の決着がまだ先だとしても、空の道は守られた。それが何よりの戦果だった。
その日の午後、作戦室では隼人が黒板の前に立ち、カミルや若手の隊員たちに向かって講義を行っていた。
「……ここにあるのは俺とリュシアの測定値だ。全員に同じ数字を当てはめるな。時速七百キロの全速飛行は、あくまで緊急時の位置取りにのみ使う手段だ。連続使用は十二秒が限界。それを超えれば風護膜が破綻し、騎手は激しい風圧と冷気に晒される。Gは速さそのものではなく、加減速や旋回で増える。精密射撃を行う前には、必ず時速四百キロ以下まで減速すること」
隼人は自筆でまとめた『飛行記録と安全運用手順』の冊子を、カミルへ手渡した。
「加圧補助竜鞍の整備マニュアルと、計器を使った推測航法の基礎もそこにまとめてある。これからはお前たちが、新しい世代の騎手たちに空の安全を教えてやってくれ」
「ああ、受け取ったぜ。お前と銀翼が切り開いた命綱、しっかり引き継ぐよ」
カミルが力強く頷く。
「ご苦労だったな、黒瀬」
作戦室の奥から歩み寄ってきたガルド教官が、隼人の肩を重々しく叩いた。
「お前たちの記録なら、次の組も自分の限界を測るところから始められる。俺たちが経験で覚えてきたことも、伝えやすくなるな」
「教官やマーラたちの支えがあったからです。俺一人じゃ、あの暗雲を抜けることはできなかった」
隼人は敬意を込めて一礼し、作戦室を後にした。
廊下の窓から、見慣れた異世界の雲海を見つめる。
故郷の家族への想いは、今も隼人の胸の奥底に静かに息づいている。元の世界に帰る手段は見つかっていないし、それを探すことを完全に諦めたわけでもない。
だが、だからといって現状を嘆き、立ち止まるような真似はもうしない。
最終決戦の前夜、隼人は自分の意思で明確な結論を出したのだ。『今はこの世界で、彼女と生きる』と。
もしも遠い未来、帰還の手がかりが現れるようなことがあれば、その時は決して一人で独断せず、必ず彼女と二人で相談する。それが、彼がこの世界に下ろした確かな錨だった。
数日後の休日。
隼人は、人型のリュシアと共に、中継基地の麓にある見晴らしの良い丘の公園を訪れていた。
木々が深く色づいた丘の上からは、活気を取り戻した町並みと、どこまでも続く雲の海が一望できる。
淡い青色の秋着に身を包んだリュシアが、風に銀色の髪をなびかせながら、空を飛ぶ商用竜の群れを眩しそうに見上げていた。
「すごくいい景色ね、隼人」
「ああ。君が守り抜いた空だ」
隼人は彼女の横顔を見つめ、静かに言葉を紡いだ。
「リュシア。俺が初めて君の背中に乗った日、俺たちはあの峡谷で『暫定の双翼契約』を結んだな」
「ええ、そうね。最初は救難の間だけって決めて、そのあと私が『私の騎手になって』って頼んだのよね」
リュシアは丘の柵に寄りかかり、微笑みながら振り返った。
「あれは、飛行任務のための契約だ。俺が戦術を立て、君が風を読む。互いの命を守るための、最強のバディとしての誓いだった」
隼人は一歩踏み出し、リュシアの真っ直ぐな青い瞳を見つめ返した。
「だが、今日俺が君に言いたいのは、任務契約の話じゃない」
隼人はゆっくりと右手を伸ばし、リュシアの両手をそっと包み込むように握った。
「騎手と羽竜としてではなく、一人の男と女として。……俺の、これからの人生の伴侶になってほしい」
風門塔を止めるまでの、命懸けの緊張感はもうない。
これは、誰の強制でもなく、生き残るための手段でもない。二人の大人が、対等な立場で互いの未来を重ね合わせるための、純粋な選択だった。
リュシアの瞳が大きく見開かれ、やがてその目元がじんわりと赤く染まっていった。
彼女は隼人の手を握り返し、確かな声で応えた。
「……私、一人でも空を飛べるわ。自分の速度に誇りを持っているし、誰の庇護がなくても生きていける」
それは、自分の価値を速度だけに依存していたかつての少女の言葉ではなく、自立した一人の誇り高き女性としての宣言だった。
「でもね」
リュシアは満面の笑みを浮かべ、涙ぐんだ瞳で隼人を見上げた。
「誰かと一緒に飛ぶのなら、誰かと一緒に生きていくのなら……私の隣は、私があなたを選ぶわ」
「……リュシア」
「よろしくお願いします、隼人。私の、たった一人の伴侶さん」
隼人は彼女の身体を優しく引き寄せ、温かい腕の中で強く抱きしめた。
リュシアもまた、隼人の背中に腕を回し、その胸に顔を埋める。人型のまま、空の上の竜鞍を介した密着とは違う、互いの意思と愛情による確かな接触だった。
空を守る戦いは終わった。今、彼らは地上にしっかりと足をつけ、互いの人生を共に歩む誓いを交わしたのだ。
それからさらに、数日後。
果てしなく広がる澄み切った蒼穹を、白銀の巨翼が滑るように飛んでいた。
限界を計算した全速での位置取りでもなければ、敵の追撃を躱すための回避機動でもない。ただ純粋に、空の美しさと風の冷たさを楽しむためだけの、穏やかな飛行だ。
加圧補助竜鞍にゆったりと身を預けた隼人の耳に、共感回路を通じてリュシアの明るい笑い声が響く。
『ふふっ。ねえ隼人、今日はもっと速く飛ぶ?』
「いや、今日は急がないさ。風護膜に負担をかける必要もない」
隼人は心地よい風を受けながら、竜鞍の背もたれを軽く叩いた。
『もう、相変わらず過保護なんだから。でも、そういうところも好きよ』
リュシアが嬉しそうに翼をはためかせ、雲海の表面をかすめるようにして高度を上げる。
仕事でも、競争でもない、二人だけの空。
『ねえ、隼人。今日はどこまで飛ぶ?』
前を向いたまま、リュシアが楽しげに問いかけてくる。
隼人は風防眼鏡を押し上げ、どこまでも続く無限の青空を見渡して、迷いなく答えた。
「君の行きたいところまで」
その言葉に応えるように、銀翼の少女はひときわ高く、力強く羽ばたいた。
二人の影は、光の満ちる空の彼方へと、いつまでも並んで溶けていった。




