第44話 帰るための作戦書
中立都市セレナの診療所に残された治療薬の備蓄から逆算された、救援便を通せる猶予は残り「三日間」。
最終救援作戦の前夜、静まり返った中継基地の作戦室で、隼人は机に向かい、カミルから教わった現地の文字を使って一枚の作戦書を書き上げていた。
インクを吸わせたペン先で、一番上の行に最も太く、力強い文字を書き込む。
『帰還不能の作戦は不採用』
どれほど大義名分があろうと、どれほど切迫した状況であろうと、特攻や片道切符の機動は絶対に許容しない。必ず全員で生きて帰り、その足で自分たちの日常へ戻る。それが、隼人が指揮を執る上での絶対の条件だった。
「……黒瀬、作戦書の確認は済んだか」
背後からガルド教官が声をかけ、マーラ、カミル、そしてユーノが作戦盤の周囲へと集まってきた。
「はい。これが王国軍の『限定行動命令』に基づいた、我々の最終作戦の全容です」
隼人は作戦書を机の中央に広げ、木炭筆で作戦盤の上の塔の模型を指した。
「作戦目標は、塔の側背面にある『非常停止環』への風槍の射撃による、制御部の安全停止。……役割分担として、教官とマーラには、輸送隊の護衛と、敵守備隊の『陽動』をお願いします」
「俺たちが敵の視線と手数を引き受け、お前たちがその隙を突いて背面に回り込むのだな」
「その通りです。ヴァルターとグレンの黒翼編隊は、間違いなく塔の保守口周辺に防衛線を敷いています。奴らを真正面から突破するのは不可能です」
隼人の言葉に、誰もが厳しい表情で頷いた。
だが、作戦の要となる『突入ルート』には、いまだ大きな不確定要素が残されていた。
「問題は、俺たちがいかにして塔の背面へ回り込むかです」
隼人は塔の模型の外周を指でなぞった。
「塔の周囲を取り巻く人工風の壁には、約六十秒周期で吸気と排気が切り替わる一瞬の隙間があることは、リュシアの観測で分かっています。しかし、その『外周の切替路』をどう通れば保守口のある背面へ辿り着けるのか、気流の幅も角度も、現地での実測データが足りません」
机の上に広げられたイーラの旧型図面には、塔の構造こそ描かれているが、新型塔の周囲で吹き荒れる実際の気流の動きまでは載っていないのだ。
「明日は、まず上方の縁から確かめます。前の救出で通った外縁と、そこから戻る線は記録がある。保守口へ降りる先は、まだ計算上の候補です」
隼人が引いた線は、塔の上方の外縁から斜めに降下し、保守口の正面へ回り込む『暫定の正面進入案』だった。途中の進入点で、実測の線を切った。その先は点線にする。
「……正気か、黒瀬。上方は敵が最も警戒している空域だぞ。それに、塔の強風を斜めに横切れば、いくら銀翼の風護膜でも一歩間違えれば引き裂かれる」
ガルドが顔をしかめて指摘する。
「分かっています。外周の薄い帯は見つけましたが、今はその奥の出口を見通せない。上方なら、少なくとも最初の進入点まで測って、同じ外側へ戻れます。まずそこからです。先の風と退路、敵を引き離せることまで確かめられた場合だけ、停止環を狙います」
隼人はガルドの目を真っ直ぐに見返した。
「初日に止められれば、その分だけ早く薬を届けられる。ですが、そのために確認を飛ばしはしません」
ガルドは点線の手前を指で押さえた。
「条件付きで認める。ここで想定を超えたら中止だ。別の角度へ追い回して試すな。輸送本隊は連れて行かず、後方で待機させる」
「了解しました」
「もちろん、無理だと判断すれば即座に『中止』して引き返します。……それとユーノ殿」
「は、はい」
「もし停止環の起動に成功し、空路が開いたとしても、すぐに輸送隊を突っ込ませないでください。塔のファンが止まり、残留風の減衰を実測で確認するまでは、必ず安全空域で待機させる。これが絶対手順です」
「承知いたしました。各隊に徹底します」
張り詰めた空気の中、最終的な役割分担と手順の確認が終わり、作戦会議は解散となった。
隊員たちが去り、薄暗い作戦室には隼人とリュシアの二人だけが残された。
ランプの灯りが、壁に二人の影を長く落としている。
隼人は作戦盤の上の木駒を片付けながら、静かに口を開いた。
「……リュシア。君に、伝えておきたいことがある」
振り返った隼人の顔は、作戦を指揮していた時の冷徹な戦術家の顔ではなく、どこか穏やかな、一人の男としての顔だった。
「以前の夜祭の時や、この間の休日に、俺は君に『元の世界の家族への未練がある』と話した」
「うん……覚えてるわ。それが、隼人の大切なものだもの」
リュシアは心配そうに青い瞳を揺らし、隼人の言葉を待った。彼がこれから、どんな残酷な自己犠牲の言葉を口にするのかと、少しだけ身構えているようにも見えた。
だが、隼人の言葉は、彼女の予想とはまったく違うものだった。
「だが、もうその話をごちゃごちゃと繰り返して、君を不安にさせるのはやめにする」
隼人は一歩近づき、彼女の正面に立った。
「帰還の手がかりはゼロだ。空にどれだけ問いかけても、元の世界への道は開かない。……だから俺は、今はこの世界で、君と生きる」
それは、「帰れないから仕方なく」という諦めの言葉ではなかった。
明確な、彼自身の意志による『選択』だった。
「過去への未練を理由にして、今、俺の目の前にいる君との時間から逃げたりはしない。俺は、君の隣で空を飛び、君と同じものを食べて、君と同じ風を感じて生きていくと決めたんだ」
隼人の真っ直ぐな告白に、リュシアの瞳からポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……もし、将来」
隼人は手を伸ばし、彼女の頬を伝う涙を親指でそっと拭った。
「もし将来、本当に元の世界へ帰る道が見えた時は、俺一人で悩んだりせず、その時にまた、二人でどうするかを相談しよう。俺の人生の進路には、もう君の存在が不可欠だからな」
リュシアは隼人の手の上に自分の手を重ね、泣き笑いのような顔でこくりと頷いた。
「うんっ……。隼人が、無理をしてこの世界を選ぶんじゃなくて、隼人の意思で私と一緒にいるって言ってくれたこと……本当に嬉しい」
彼女は隼人の故郷への想いを否定することも、自分のために捨ててほしいと望むこともしなかった。彼が悩み抜いた末に出した答えを、丸ごと真っ直ぐに受け止めたのだ。
そして彼女は、ただ守られるだけの少女ではなく、彼の対等な相棒としての顔を見せた。
リュシアは作戦盤の前に歩み寄り、隼人が書いた『帰還不能の作戦は不採用』という作戦書を指差した。
「だから、明日の作戦は絶対に死ねないわね」
彼女は木炭筆を取り、隼人の引いた暫定正面進入案のラインの横に、スラスラと何本かの線を書き足した。
「上から正面突破を仕掛ける時、もしヴァルターの乱流幕で視界を塞がれたら、私が翼で風の逃げ道を探して、この右側の谷筋へ強引に機体を滑らせるわ。これが『予備の退避進路』」
さらに彼女は、作戦書の余白に現地の文字を書き加えた。
「それから、風壁の圧力が強すぎて、私の風護膜の魔力消費が出撃時に使える魔力の『三割』を超えたら、その時点で無条件で『中止』。……これで、隼人の作戦書はもっと安全になったわ」
隼人は、彼女が自分の作戦に具体的な退避路と中止条件を組み込んでくれたことを見て、深く満たされたような笑みを浮かべた。
「……ああ。中止した後に帰る道まで、確認しよう」
感情に流されるだけでなく、互いの専門性を活かして生きて帰るための戦術を組み上げる。これこそが、彼らなりの最高の愛情表現だった。
重い決断と作戦立案を終え、緊張の糸がふっと解けた作戦室。
ランプの灯りが優しく揺れる中、二人の間に穏やかな空気が戻ってきた。
「ねえ、隼人」
「ん?」
「明日の作戦が全部終わって、この基地に帰ってきたら……また、麓の市場でお買い物しましょうね」
リュシアがふわりと微笑みながら、少しだけ身を寄せてきた。
「今度はどんな美味しいものを買ってくるんだ?」
「そうね……新鮮な野菜とお肉を買ってきて、私がシチューを作ってあげる。焦がさないように、ちゃーんと見張っておくから」
「それは楽しみだな。じゃあ俺は、とびきり香りのいいお茶を淹れよう」
戦いが終わったあとの、他愛のない日常の約束。
二人はごく自然な動作で腕を回し、静かな作戦室の中で深く抱き合った。
背中を包み込む温もりと、規則正しい鼓動の音。それは、明日からの過酷な戦いを必ず生き抜くという、互いの魂に刻み込むような確かな誓いだった。
しかし――翌朝。
決戦の第一日目。まだ太陽が昇りきらない薄暗い管制塔に、峡谷の最前線にある観測所から緊急のデータが届いた。
「黒瀬、アルヴェイン……状況が変わったぞ」
ガルド教官が、届けられたばかりの風向記録の紙を手に、険しい顔で二人を振り返った。
「塔の周囲の風向きが、我々の想定データよりも早く、そして不規則に変化し始めている。……敵の防衛部隊が、あらかじめ上方の空域に巨大な人工風の渦を複数配置しているらしい」
ガルドは、予定どおり外縁の測定から始め、先へ進めるかは改めて判断すると念を押した。
その報告は、隼人たちが立てた「上方から風壁を貫く暫定正面進入案」が、出撃前からすでに破綻の危機に瀕していることを意味していた。
予想外の罠が待ち受ける死の空域へ向けて、二人の最後の戦いが幕を開ける。




