第42話 敵が作った、見えない壁
「……見えたぞ。前方の暗雲の下、赤い灯火が二つ!」
灰色の雲海を切り裂きながら、加圧補助竜鞍に伏せた隼人が叫んだ。
王国と中立連盟の合意を受け、本格的な救援作戦の前に風門塔の外縁調査へ出ていた王国の偵察隊。その二騎の羽竜が、今まさに巨大な『風壁』に捕まり、身悶えするように高度を落としていた。
帝国領の風門塔から放たれる圧倒的な人工風は、目に見えない巨大な壁となって空路を塞いでいる。偵察竜たちはその見えない壁に押し戻され、吹き下ろす気流に叩きつけられそうになりながら、必死に救難灯火を点滅させていた。
『隼人、偵察竜の奥から敵が来るわ!』
リュシアの思念が共感回路を駆け抜けた。
偵察竜が風壁にもがいている隙を突き、所属不明騎の追撃部隊が暗雲の中から姿を現し、鋭い降下機動で獲物へ迫ろうとしていた。
「敵は三騎。……深追いはしない、危険域への進入は必要最小限だ! 俺たちで敵の牽制を引き受ける、教官たちは偵察竜の回収を!」
『了解した、黒瀬!』
後続のガルド教官からの通信を背に受け、隼人はコンソールの方位盤と計時器を睨みつけた。
ここは敵の風門塔が作り出す暴風のど真ん中だ。無闇に突っ込めば、自分たちも乱気流の餌食になる。
「リュシア、高度千六百を維持しろ! 敵の追撃竜の進入角度は方位一九〇。あいつらが降下してくる進路の先へ、牽制の風刃を置く!」
『わかったわ!』
リュシアが銀翼を翻し、敵の編隊の鼻先を掠めるような絶妙な角度で風刃を放った。
大気を切り裂く風の刃が、敵の進行ルート上に次々と炸裂する。目測通りの先回り射撃に、追撃竜たちは慌てて急ブレーキをかけ、陣形を乱して上空へと逃れていった。
「よし、敵の足は止まった! 教官、今のうちに!」
『おおっ!』
ガルドとマーラがその隙を突き、風に流されていた偵察竜たちの横へと滑り込み、低速機動で気流の盾となって彼らの姿勢を立て直させた。
だが、安堵したのも束の間。風門塔からの人工風が突如としてうなりを上げ、巨大な空気の塊が防衛線を張っていたリュシアの機体を横から強く殴りつけた。
「くっ……風向きが変わった!」
隼人が加圧鞍の革帯に身を預けて衝撃に耐える。
だが、強風に機体を揺さぶられながら、リュシアが短く声を上げた。
『隼人、この揺らぎ……前に測った、風の息継ぎよ!』
「六十秒ごとの切替か。改修されても、残っていたんだな!」
『ええ。今、風壁の端の方で、一瞬だけ風が薄くなって……その直後に、塔の方へ強く空気を吸い込むような流れができたわ!』
彼女の翼は、圧倒的な風の暴力の中にあってなお、気流の微細な変化を正確に読み取っていた。
以前は遠くから記録するしかなかった『切替周期』。今は、その風の薄まりを目の前の救出に使える。隼人は計時器を確かめ、次の切替までの時間をガルドへ送った。
『……吸い込みが強まる前の薄い帯を通れば、偵察隊を一番安全に外へ出せる! 教官、私についてきて!』
リュシアが自ら進路をとり、ガルド隊と偵察竜を風の薄い帯へと誘導していく。彼女の風読みに導かれ、もがいていた偵察竜たちはついに強風の呪縛から逃れ、安全な空域へと抜け出すことができた。
『助かった、銀翼!』
偵察隊の騎手からの切実な声が響く。
だが、リュシアはそのまま風の薄い帯の奥――風門塔のさらに深部へと機首を向けようとした。
『……隼人、もう少し奥へ行けば、この吸い込みの風がどこへ繋がっているのか分かるかもしれない。行ってみる?』
その提案は、かつての彼女なら隼人の返事を待たずに突っ込んでいたかもしれない、戦術的な好奇心だった。
隼人はコンソールの計時器を見た。
事前の作戦会議で決めた、この空域での最大滞空限界時刻まで、残りわずか十秒。
「――いや、駄目だ。時間だ、退避しろ!」
隼人が冷徹な声で指示を飛ばす。
その言葉を聞いた瞬間、リュシアは一瞬の迷いもなく、翼を大きく広げて急ブレーキをかけた。
『了解! 全騎、撤退よ!』
彼女は自らの直感や好奇心よりも、隼人が設定した『退避基準』の厳守を最優先に選んだのだ。
見えない風の壁の向こうで、再び追撃竜たちが体勢を立て直そうとする気配があったが、彼らが追いついてくるより先に、隼人たちは完璧な連携で危険域からの離脱を完了していた。
中継基地の滑走路へ帰還し、重い足取りで竜鞍から降りた隼人は、ふうっと長く深い息を吐き出した。
たった数分の短い戦闘と救出劇だったが、風門塔の作り出す巨大な圧力と、一歩間違えば自分たちも呑み込まれていたという事実が、全身の筋肉を硬直させていた。
ヘルメットを脱いだ隼人が、自分の右手が小刻みに震え、こわばっていることに気づいた時だった。
「……お疲れ様、隼人」
横から、ふわりと温かい声がかけられた。
人型に戻ったリュシアが、湯気の立つ木製のカップを二つ両手に持って、微笑みながら立っていた。
「これ、食堂のおばさんが特別に淹れてくれた香草茶。飲むとホッとするわよ」
「ああ……ありがとう」
隼人はこわばった手で慎重にカップを受け取り、温かい液体を一口含んだ。香草の優しい香りと熱が、喉の奥から強張った神経をゆっくりと解きほぐしていく。
リュシアは隼人の隣に腰を下ろし、自分のカップを両手で包み込んだ。
「……隼人でも、やっぱり緊張するのね。手、少し震えてたわよ」
からかうような口調ではなかった。彼女の青い瞳は、恋人を労わるような柔らかい光を帯びていた。
隼人は強がって誤魔化すことをせず、素直に頷いた。
「ああ。正直に言うと……怖かったよ。あの風の壁は、今まで俺たちが相手にしてきたどんな乱気流とも違う。自然の法則を完全に無視した、圧倒的な力の塊だ。少しでも計算を間違えれば、俺も君も一瞬で終わっていた」
元戦闘機乗りのプライドを捨て、ありのままの恐怖を吐露する隼人に、リュシアは優しく微笑んだ。
「ええ。私もよ」
彼女は隼人の肩に自分の肩をそっと寄せた。
「あの吸い込みの風、すごく大きくて冷たかった。でも……隼人が『時間だ』って止めてくれたから、ちゃんと怖がらずに帰ってこられたわ」
「……俺も、君の風読みがあったから、偵察隊を死なせずに済んだ」
互いの弱さを認め合い、互いの力で生きて帰ってきたことを確かめ合う。張り詰めた戦場の空気が、恋人としての穏やかな安堵へと変わっていく。
そこへ、小走りに近づいてくる足音が響いた。
「黒瀬、アルヴェイン! 戻っていたのね!」
竜鞍技師のイーラが、何枚もの古い図面を抱えて駐屯地の中庭から駆け寄ってきた。彼女の目は、いつになく興奮に満ちていた。
「カミルから聞いたわ。アルヴェインが、風壁の外周で『吸い込み』と『一瞬の風の薄い帯』を観測したって!」
「え、ええ。そうだけど……それがどうかしたの、イーラ?」
リュシアが目を丸くして尋ねると、イーラは持ってきた図面の一枚を、二人の前のベンチにバサリと広げた。
「これが、私が昔扱ったことがある『旧型風門塔』の保守図のコピーよ。新型塔の細かい仕様は分からないけど、あの巨大な施設が『周期的な吸い込み』を起こす理由は、旧型と同じ構造なら一つしか考えられない」
イーラは図面の中心――塔の背面にあたる部分を指差した。
「……塔の制御部に直接アクセスするための、『外部保守口』が呼吸している音よ」
その言葉に、隼人はハッと顔を上げた。
「保守口……。そこから、塔を止めることができるのか?」
「ええ。この図面が正しければ、その奥には……」
イーラの指先が、図面の中に描かれた小さなリング状の装置をなぞった。
それは、絶望的な風の壁を内側から崩すための、唯一にして最大の希望だった。




