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速すぎて騎手が続かない竜少女と、元戦闘機乗りの異世界空戦記~全速は十二秒、帰還は二人で~  作者: 他力本願寺


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第39話 飛ばなくても、触れられる

雲一つない青空から、晩夏の眩しい陽光が駐屯地の石畳に降り注いでいた。


 暗雲の中での過酷な夜間救難を終え、泥のように眠って疲労を抜いた翌日。ガルド教官から正式に丸一日の特別休暇を言い渡された隼人は、飛行服ではなく洗いざらしの白いシャツと革のベストという私服姿で、正門脇の木陰に立っていた。


(よし。風速は秒速三メートル、南南東の微風。午後の気温上昇に伴う上昇気流の発生予測時刻と、市場の大通りを回る最短の移動経路はこんなところか……)


 隼人は手元の小さな羊皮紙に自筆で書き込んだ図表を見つめ、満足げに頷いた。


 そこへ、コツコツと軽快な靴音が近づいてきた。


「お待たせ、隼人! すごくいいお天気ね……って、ちょっと。あなた、その手に持ってる紙は何?」


 振り返ると、淡い若草色のワンピースに身を包み、銀色の髪をリボンでふんわりと束ねた人型のリュシアが立っていた。見惚れるほど爽やかな装いだったが、彼女の青い瞳は、隼人の手元にある羊皮紙を鋭く捉えていた。


「ん? ああ、これか。せっかくの初デートで道に迷ったり、無駄な待ち時間が出たりしないようにな。麓の町の広場を効率よく回る時間配分と、川辺の風向変化をまとめた移動計画書だが」


「……没収します!」


 ひょいっ、とリュシアの白い手が伸び、隼人の指先から羊皮紙が鮮やかに抜き取られた。


「おい、リュシア。それがないと昼食の店への到着予定時刻が……」


「予定時刻なんていらないの! いいこと、隼人。今日は哨戒任務でも訓練飛行でもないのよ? 二人きりのデートに『飛行計画書』を持ってくる騎手がどこの世界にいるのよ」


 リュシアは呆れたように腰に手を当ててぷりぷりと怒ってみせた後、思わずといった様子でくすくすと吹き出した。


 彼女は取り上げた羊皮紙を綺麗に折りたたむと、正門の詰所にいた顔馴染みの衛兵に「これ、私たちが帰るまで預かっておいて!」と手渡してしまった。


「ほら、これで丸腰ね。今日は計器も地図もなし! 私の隣を、ただ歩くだけに集中してもらうわよ」


「……参ったな。地上での主導権は、完全に君にあるらしい」


 隼人は肩をすくめて苦笑し、嬉しそうに微笑む彼女の隣へと並んだ。


 坂道を下りて麓の町へと入ると、昼間の市場は先日の夜祭とはまた違う、生活感にあふれた明るい活気に満ちていた。


 色鮮やかな夏野菜や果物を積んだ荷馬車が行き交い、パン屋の煙突からは小麦の焼ける香ばしい匂いが風に乗って漂ってくる。


 今回は「防寒材を探すついで」でも「竜鞍の金具を見る口実」でもない。二人はただ気の向くままに石畳の通りを歩き、気になった露店があれば足を止めて覗き込んだ。


「見て、隼人。この木のカップ、模様がすごく可愛いわ。こっちのお皿も素敵」


 日用雑貨を扱う露店の前で、リュシアが滑らかに磨かれた木製のペアのマグカップを手に取って目を輝かせた。


「本当だな。軽くて手によく馴染みそうだ。……隊舎の備品の食器は味気ないから、そういうのが部屋に二つ並んでいるといいかもな」


 隼人が何気なく口にすると、リュシアはカップを持ったままパッと顔を上げ、少しだけ頬を染めて隼人を見た。


「……二つ並べるって、誰と誰の分かしら?」


「決まっているだろう。俺と、君の分だよ」


 隼人が茶化さずに真っ直ぐ答えると、リュシアは嬉しそうに口元を綻ばせ、カップを棚に戻しながら隼人の腕にそっと自分の腕を絡めてきた。


 そのまま二人は、通りのパン屋で焼き立てのチーズパンと、果物の入っていない濃厚なミルク焼き菓子を買い求め、日用品の並ぶ通りをゆっくりと歩いた。


 会話にのぼるのは、かつてのように隼人が置いてきた元の世界の思い出話ではなかった。今日という休日に二人で何を食べて、どこを歩くかという現在の話と、その延長線上にある、具体的でささやかな将来の暮らしの話だった。


「いつか風門塔の騒ぎが全部終わって、今みたいに毎日出撃しなくてよくなったら……町の外れの、見晴らしのいい二階の部屋を借りるの」


 リュシアが焼き菓子の袋を抱えながら、弾むような声で言った。


「二階か。確かに、一階よりは風通しがよくて君が好きそうだ」


「ええ。大きな窓があって、朝起きたらすぐに空が見える部屋よ。でも、朝ご飯の支度は交代制ね。隼人はいつも早起きだから、先にお湯を沸かして香りのお茶を淹れておいてほしいわ」


「なるほど。じゃあ、パンを焼くのと卵料理は君の担当だな」


「任せて! こう見えて、焦がさずに焼くくらいはできるんだから。それでね、お休みの日には、今日みたいに計画書なんて持たないで、二人で市場へお買い物に行くの」


 特別な贅沢でも、英雄としての華々しい栄誉でもない。


 ただ同じ屋根の下で目を覚まし、同じ食卓を囲み、今日のように並んで歩くという、どこにでもある穏やかな日常の風景。それを一つずつ言葉にして重ね合わせるたび、二人の間にある未来の輪郭が、温かな手触りを持ってはっきりとしていくようだった。


 やがて二人は賑やかな市場を抜け、町の東側を流れる広い川辺の緑地へと足を延ばした。


 川岸には背の高い街路樹が涼しげな木陰を作っており、澄んだ水面が晩夏の光を反射してきらきらと揺れている。昼下がりの川辺には人影もまばらで、水が石を洗う穏やかな音と、葉擦れの音だけが心地よく響いていた。


 木陰にある石段に並んで腰を下ろし、市場で買ったチーズパンと焼き菓子を半分ずつ分けて食べる。


「……美味しい。風が気持ちいいわね、隼人」


「ああ。空の上で受ける風とは違って、柔らかくていい匂いがする」


 食事を終え、川面を吹き抜ける風に目を細めるリュシアの横顔を、隼人は静かに見つめた。


 銀色の髪が風に揺れ、長いまつげが白い頬に影を落としている。昨日まで命懸けの暗雲の中で戦っていたのが嘘のような、穏やかで無防備な姿だった。


「リュシア」


「なあに?」


「さっき市場で話した、二階の部屋でお茶を淹れる暮らしのことだが」


 隼人は膝の上で自分の手を見つめ、それから真っ直ぐに彼女の青い瞳へと視線を向けた。


「俺は、まだ何年も先の未来がどうなるか、無責任な保証を軽く口にすることはできない。この先、帝国との戦いがどう転ぶかも分からないしな」


 誠実でありたいからこそ、隼人は甘い言葉で誤魔化さずに言った。


「だが、これだけは俺自身の言葉で伝えておきたい。……俺は今、他のどの場所でもなく、ここで君と一緒にいたい。君が思い描いたその部屋の隣に立つ男でありたいと、心から思っている」


 そして隼人は、故郷の話を長く繰り返す代わりに、一つの短い約束を口にした。


「もしもこの先、万が一にも元の世界へ帰還する道や手がかりが現れるようなことがあったら……俺は絶対に、一人で勝手に答えを出したりしない。どうするかを、必ず君と二人で相談して決める。それでいいか?」


 空の上の『条件変更』と同じように、人生の進路もまた、彼女を抜きにして独断で決めたりはしないという誓いだった。


 リュシアの瞳が、優しく潤んだ。


 彼女はふわりと微笑み、隼人の右手に自分の両手をそっと重ねた。


「うん。それでいいわ、隼人」


 彼女の声は、川面のせせらぎのように澄んでいた。


「告白の時にも言ったでしょ。あなたが元の世界の思い出やご家族を大切にしていることを、無理に忘れなくていいの。ただ、嬉しいことも、迷うことも、全部私に隠さないで共有してほしい。……二人で相談して決めるなら、どんな未来になっても私は怖くないわ」


「……ありがとう、リュシア」


 重ねられた手から伝わる温もりに、隼人の胸が深く満たされていく。


 言葉が途切れ、木陰の石段に二人だけの静かな時間が流れた。


 どちらからともなく、肩と肩が触れ合うほど距離が縮まる。


 見上げてくるリュシアの青い瞳に、自分の姿が映っているのが見えた。彼女の頬がほんのりと桜色に染まり、小さく息を呑む気配が伝わる。


 隼人は重ねられていた手をゆっくりと動かし、彼女の柔らかな頬にそっと指先を添えた。


 そのまま視線を逸らさずに顔を近づけると、リュシアの長いまつげがわずかに震え、静かにまぶたが閉じられた。


 木漏れ日が揺れる川辺で、二人の唇がそっと重なった。


 ほんの数秒の、優しくて温かい接触。


 空の上で、時速七百キロの風圧や高Gに耐えるために竜鞍を介して身体を密着させるのとは、まったく違っていた。共感回路による魔力の繋がりもない。


 けれど、人型のまま、ただ相手に触れたいという互いの意思だけで重ねた唇は、どんな魔法よりも鮮烈に、相手の存在と愛情を直接伝えてくれた。


 ゆっくりと唇を離すと、目を開けたリュシアは、耳の先端まで真っ赤に染めながら、自分の唇にそっと指先を当てていた。


「……ふふっ」


 やがて彼女は、照れくささを隠すように小さく笑い、隼人の肩に自分の額をこつんと預けてきた。


「空の上で一緒に飛んでる時も、すごく近くにいると思ってたけど……飛ばなくても、こんなに近くに触れられるのね」


「ああ。……俺も、今までで一番近く感じたよ」


 隼人は彼女の背中に腕を回し、晩夏の風が吹き抜ける川辺で、いつまでもその温もりを抱きしめていた。


 夕暮れ時、茜色に染まる街道を、二人は指を絡めて手を繋ぎながら駐屯地へと帰還した。


 最高に満たされた初デートの余韻は、その夜、眠りにつくまで二人の心を温かく包んでいた。


 だが――その翌朝。


 朝の作戦室へと足を踏み入れた隼人とリュシアを待っていたのは、昨日の穏やかな休日を根底から覆すような、一枚の『緊急地図』だった。


 作戦盤の上に広げられた地図には、中立都市連盟のユーノから届いた最新の風向観測データが、真っ赤なインクで書き込まれていた。


「……帝国領の大型風門塔が、昨夜未明から最大出力での連続稼働に入った」


 険しい顔で地図を睨みつけるガルド教官の声が、作戦室に重く響いた。


「人工風の壁が協定空路の全域に張り出し、セレナを含む複数の中立都市へのルートが……今朝をもって、全面封鎖された」


 束の間の休息は終わりを告げた。二人が守ろうと誓った日常と空路を巡る、最後の大きな戦いが幕を開けようとしていた。

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