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速すぎて騎手が続かない竜少女と、元戦闘機乗りの異世界空戦記~全速は十二秒、帰還は二人で~  作者: 他力本願寺


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第37話 見えないなら、私を見る

ゴォォォォッ! と、暗雲の内部で人工乱流が唸りを上げていた。


 ほんの数秒前まで、斜め下方の雲の切れ間に見えていたはずの緑色の救難灯火は、黒翼の部隊が放った乱流幕と雨雲の渦に呑み込まれ、跡形もなく消え失せている。


 周囲は、自分の伸ばした腕の先すら曖昧になるほどの漆黒の闇だった。風護膜を叩く豪雨の音が四方八方から反響し、距離感も方向感覚も根こそぎ奪い去っていく。


「……くそっ、完全に視界を塞がれたか」


 隼人は加圧補助竜鞍の上で奥歯を噛み締め、すぐさま視線を外せない闇から手元のコンソールパネルへと切り替えた。


 外を見続けていれば、再び空間識失調の錯覚に引きずり込まれる。方位盤と高度計、計時器の変化を、リュシアの報告と照合する。


『隼人、一度高度を保つわ。周りに敵が張った乱流の壁がいくつもある。むやみに突っ込んだら翼を取られるわ!』


「ああ、それでいい。時速二百で旋回待機しろ。……現在地から救難竜の逃げた先を再計算する」


 隼人は大腿部に固定した防水仕様の地形図をなぞりながら、頭の中で高速で数字を組み立てた。


 数日前の非交戦条件での夜間捜索では、最終確認位置と風向、そして経過時間を掛け合わせることで、行方不明になった哨戒竜の場所を『枯れ木の谷』周辺へと絞り込むことができた。


 だが、今夜は条件が根本から違っていた。


 先ほど救難灯火が瞬いた地点の座標は特定できている。そこからの経過時間はわずか二分足らず。手負いの救難竜が出せる速度は時速百五十キロ前後だ。


 問題は、敵が雲の中で不規則に展開している『乱流幕』と、それによって複雑に捻じ曲げられた気流の向きだった。


「……駄目だ。一つに絞れない」


 隼人は風防眼鏡の奥で険しく眉を寄せた。


 敵の妨害によって航跡の予測データが乱され、計算上の到達地点がどうしても二つに割れてしまうのだ。


「リュシア、聞いてくれ。さっき灯火が見えた位置から、救難竜が乱流を避けて逃げ込める地形上のルートは二つある」


 隼人は共感回路を通じて、頭の中に描いた二つの軌道のイメージをリュシアへと送った。


「一つは方位一九〇、候補のうち東側の切り立った岩棚に沿うルートだ。もう一つは方位二三〇、西側の深く抉れた谷底へ降りるルート。俺の地図と計器の計算では、どちらも救難竜が逃げ込める安全路に見える」


『二つあるのね。……でも、この雲の厚さじゃ、どっちに逃げたか目で見て確かめるのは無理よ』


「それだけじゃない。地形上は通れても、敵が風を変えている。どちらかに、人工風の渦が待っているかもしれない。入口を確かめるまでは進めない」


 もし外れのルートへ踏み込めば、狭い地形の中で逃げ場のない乱気流の渦に叩き込まれ、救難どころか自分たちが墜落する。


 非交戦の夜なら正解を導き出せた計算式が、敵の悪意ある欺瞞によって『生死を分ける二択』へと変えられていた。


「……地形の遮蔽物を考えれば、追撃を受ける救難竜は少しでも身を隠しやすい西側の谷底、方位二三〇を選ぶ確率が高いはずだ」


 隼人は計時器の針を一瞥し、決断を下した。


「リュシア、まずは方位二三〇の西側ルートへ機首を向けてくれ。入り口の気流を探りながら慎重に進入する」


『了解。方位二三〇へ回るわ』


 リュシアが銀翼を傾け、暗雲の底にある西側の谷間へと向かって緩やかに高度を下げ始めた。


 高度千六百、千五百。


 谷の入り口にあたる空域へと差し掛かった、その瞬間だった。


 リュシアの全身の羽毛が、まるで逆立つような鋭い緊張を竜鞍越しに伝えてきた。


『――条件変更!』


 闇を切り裂くような、リュシアの凛とした宣言が共感回路に響き渡った。


 同時に彼女は、西側ルートへ踏み込む直前で力強く翼を広げて制動をかけ、機体を安全な高度へと引き起こした。


「条件変更を受理する! どうした、リュシア、西側の谷に何がある!?」


 隼人は一切の躊躇なく彼女の宣言に従い、計器を確認しながら理由を尋ねた。


『西側の谷底ルートは罠よ! 入り口の風は静かに見えたけど、奥の方で空気がぐるぐる回って、下へ強く吸い込む渦になってる!』


 リュシアは荒い息を吐きながら、翼の先端で捉えた大気の異常を正確に言語化していく。


『じゃあ東側の岩棚ルートが正解かと思って、今、そっちから流れてくる風も翼で確かめたの。……でも、隼人、東側も駄目よ!』


「なんだと? 両方とも罠だというのか!?」


『ええ。東側の岩棚の方からは、さっきの黒翼たちが張った乱流幕の細かい脈動が何重にも響いてきてる。あっちは袋小路に乱流を溜め込んだ罠だわ。東も西も、計算で出てくる分かりやすい道は、敵が両方とも塞いで待ってるのよ!』


 隼人は愕然とした。


 東か西か、二つの安全路のどちらが本物かという二択ではなかったのだ。ヴァルターは、こちらの航法計算が弾き出すであろう『二つの有力な候補地』の両方に初めから罠を張り、どちらを選んでも人工風の餌食になるように盤面を組んでいた。


 もし隼人が自分の地図と計算だけに固執し、どちらかの道へ強引に突入していれば、今頃はどうなっていたか分からない。


「……両方とも塞がれているなら、救難竜はどこへ消えたんだ?」


『待って。今、風がぶつかっている境目を読むから……』


 リュシアは暗闇の空中で滑空姿勢を保ち、全身の感覚を研ぎ澄ませた。


 数秒の緊迫した沈黙の後、彼女の思念がパッと鋭い光を帯びた。


『……あった! 方位二一〇、東の岩棚と西の谷底の、ちょうど真ん中にある細い尾根の真上よ!』


「尾根の真上? 待て、地図上ではそこは両側から風が吹き上げてぶつかる場所で、一番気流が荒れる危険地帯のはずだぞ!」


 隼人が地形図を見て指摘すると、リュシアは明確に首を横に振った。


『普段の自然の風ならそうよ。でも今は、東と西の両方で敵が無理やり人工乱流の渦を作ってるでしょ? その二つの大きな渦が引っ張り合うせいで、真ん中の尾根の上だけ、逆に風が打ち消し合って、細いトンネルみたいに空気が止まってる場所ができてるの!』


 敵が二つの罠を作ったことで偶然生じた、エアポケットのような『第三の抜け道』。


 それは計器の計算や紙の地図からは絶対に導き出せない、今この瞬間の現場の風を翼で直接触れているリュシアにしか見つけられない道だった。


『隼人、その真ん中の抜け道の奥から、かすかに別の羽竜が羽ばたいた温かい空気の乱れが流れてきてる。救難竜はあそこへ逃げ込んだんだわ!』


 リュシアの声には確信があった。


 だが、彼女はそこで「だから私を信じて突っ込んで!」と感情的に求めることはしなかった。昼間に交わした約束と、これまで積み上げてきた対等な相棒としての規律が、彼女に冷静な言葉を継がせた。


『でも、この第三の道はすごく狭いし、敵の乱流幕のバランスが変わったらすぐに消えちゃう。私の翼の手応えだと、この風の隙間が安定して保つのは、長くてあと九十秒よ』


「九十秒か……」


『ええ。だから提案するわ。方位二一〇、高度千四百で尾根の真上の隙間へ進入する。……もし進入してから三十秒以内に向こう側の空域へ抜けられなかったり、風が閉じる予兆がしたら、私の魔力残量が帰還の安全基準を割る前に、即座に『中止』して引き返す。どう、隼人?』


 自分から『条件変更』を宣言しただけでなく、風が許す制限時間と、明確な最終撤退基準までをも数字で提示してみせたリュシア。


 隼人は暗闇の中で、自分の胸が熱いもので満たされるのを感じた。


 これだ。これこそが、俺たちが何十回もの飛行と衝突を経てたどり着いた『双翼』の形だ。


 彼女を信じるとは、自分の戦術担当としての頭脳を放棄し、「君の言う通りに飛ぶよ」と無条件に丸投げすることではない。そんなのはただの責任放棄だ。


 彼女が命懸けで読み取った『風の専門判断』を、俺の『計器と航法の専門判断』に照らし合わせ、二人で一つの確実な航路を完成させること。それこそが、飛行士としての彼女を真に信頼するということなのだ。


「……計算する。五秒待て」


 隼人は即座にコンソールの計器と地形図へ視線を走らせた。


 現在地から方位二一〇の尾根上空までの距離は約一・二キロ。尾根の最も高い岩峰の標高は千二百五十メートルだから、リュシアが提示した高度千四百なら岩肌に接触する危険はない。


 進入まで約十八秒。そこから雲の切れ間まで約一・五キロなら、時速二百四十キロで二十三秒ほどだ。三十秒で抜けられなければ、回廊に入る直前の尾根の肩まで戻る。そこからは回廊に頼らず、今飛んで確かめた外側へ退避できる。往復六十秒に進入の十八秒を足しても、今見込める九十秒には収まる。もちろん、予兆が出れば時間を待たずに退く。


「照合完了だ、リュシア!」


 隼人は顔を上げ、力強い声で応えた。


「君のデータと俺の計算は完全に一致する。高度千四百なら尾根の岩峰とも百五十メートルの間隔が取れるし、三十秒を中止基準にすれば、引き返す時間も取れる。……君の案を採用する。条件変更を承認、これより捜索を『再開』する!」


『了解! 再開するわ!』


 隼人は進入点と退避先、通れる残り時間をガルド隊へ短く送った。


 二人の専門判断が重なり、暗闇の中で迷いのない一本の進路が定まった。


 リュシアが銀翼を翻し、方位二一〇、高度千四百メートルの空間へと滑り込む。


 東と西から唸りを上げる暴虐な人工乱流の壁。そのすぐ脇をすり抜けて尾根の真上へ入った瞬間、先ほどまで機体を激しく揺さぶっていた風圧が、嘘のようにピタリと静まった。


「……本当だ。ここだけ風が止んでいるぞ!」


『ええ、でも両脇の風の壁がすぐ近くまで迫ってるわ。少しでも左右にブレたら渦に噛まれる。隼人、方位と時間のカウントをお願い!』


「任せろ! 計時スタート、制限時間は三十秒! 方位二一〇で固定、高度千四百を維持しろ!」


 目に見える景色は相変わらず漆黒の雨雲だけだ。


 だが、今の二人には、周囲の空間が手に取るように見えていた。


 リュシアは両翼の先端をかすめる左右の乱流の圧力をミリ単位で感じ取りながら、目に見えない細い風の回廊のど真ん中を、針の穴を通すような精密さで直進していく。


 隼人は空間識失調の誘惑を断ち切ってコンソールの方位盤と計時器だけを凝視し、一秒ごとの経過時間とわずかな方位のズレを短く正確に伝え続けた。


「二十秒経過! 進路そのまま、高度よし!」


『前方の空気の密度が薄くなってきたわ! この先、雲が切れてる!』


「出口の光だ! あと少し!」


 計時器の針が二十三秒を指した瞬間。


 バサッ、と風護膜を叩いていた豪雨の幕が突然途切れ、二人の視界が一気に開けた。


 分厚い暗雲の下層を突き抜け、山肌に囲まれた夜空のポケットのような空間へと躍り出たのだ。


「抜けたぞ! タイムは二十三秒、計算通りだ!」


『隼人、あそこ! 十一時方向の下!』


 リュシアの叫びに、隼人はすぐさまその方向へ視線を走らせた。


 雲の下の薄暗い空間を、片方の翼を不規則に揺らしながら、必死に高度を保って飛んでいる一騎の羽竜の姿があった。探していた友軍の救難竜だ。灯火を消して闇に紛れようとしていたようだが、リュシアが読んだ通り、この第三の抜け道の先へと逃げ込んでいたのだ。


「見つけたぞ! 救難竜はまだ飛べる状態だ、これより接近して退避路へ――」


 隼人が通信魔導具のスイッチを入れかけた、その時だった。


『待って、隼人! 救難竜の後ろの雲が割れるわ!』


 リュシアの鋭い警告とほぼ同時だった。


 傷ついた救難竜のすぐ後方、垂れ込めた黒い雨雲の底を食い破るようにして、一際巨大な『漆黒の翼』が音もなく滑り出てきた。


 闇に溶け込むような黒い羽毛に、独特の波打つ羽紋。そしてその背に跨る、軍章を外した大柄な騎手。


 帝国の竜騎士隊長ヴァルターと黒翼竜グレンが、獲物の背後にぴたりと食らいつくようにして姿を現したのだった。

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